聖訓一百題(第22)

堀 慈琳 謹講


    鉄ヲ熱クニ、イトウ鍛ワザレバ玼隠レテ見エズ。度々セムレバ玼アラハル。(縮遺818頁)


 『開目抄』末の御文であるが、此錬鉄についての類文が外にもある。即ち、

鉄ヲ能々鍛ヘバ疵ノ顕ルゝガ如シ。石ハ焼ケバ灰卜成ル。金ハ焼ケバ真金トナル」(縮遣1135頁)

 池上の兄弟の御抄の御文である。鉄に対するに石を添へ又黄金をあしらってある。

鍛ハヌ金ハ盛ンナル火ニ入ルレバ疾クトケ侯。氷ヲ湯ニ入ルゝガ如シ。剣ナンドハ大火ニ入ルレドモ暫トケズ。是鍛ヘル故ナリ」 (縮遺1634頁)

 四条金吾への御文であるが、比には鉄の外に剣をあしらってある。

 此の三文、何れも信仰鍛錬のために、鉄を適例に引かれてあるのは、当時刀剣の使用・鑑賞大いに勃興して、鎌倉では殊の外に隆盛になって、如何なる土民百姓までも愛用せぬは無き時代であったので、宗祖は此を好例にして、随時随所に信仰の鍛錬を説かれた。

 其鎌倉が刀剣愛用の根元地となったのは、又此時代が全国に於ける最も良作の絶頂に達したのは、上古の鉄器・銅器併用の武器時代は暫らく云ふことを止めて、中古の泰平時代にては、地方の軍団に属するもの、禁裡の守護に当る六衛府の武門武士にあらざる者には、刀剣武器を佩びる事を禁ぜられてあったが、東には、天慶年度の将門の反乱、西には、承平年度の純友の劫掠、其他、奥州に於ける前九後三の軍役、保元平治の内乱、源平の合戦等で、自然に皇室への御奉公にも、自族護衛の上にも、打物取る事が多くなり、打物取る者も多くなりて、刀剣武器佩用の禁なんどは行はるべきもなく、仏力・法力を以て王城を鎮護すべき大任を持てる比叡山延暦寺に於てすら、数千の僧侶が、五分法身の肌に甲冑をつけ刀剣を帯びて、自山を守護した。仏力・法力は何れに飛び失はせたのであらうか。

 始めは、山修山学12年の学生達には此事は無かって、但、堂衆公人の下司法師にばかりであったが、後には学生までも、止むを得ず太刀長巻を執って兵場に向ふ事になった。

 此姿で京都にも乱入し、他山にも乱暴をしかけた。其所は御互様で、都鄙の大山大寺には、止むなく僧兵を置いて、自衛策を取ったものである。

 此等が又或時には、皇室の御用にも、武門方の依怙にもなったので、俄に僧侶に刀杖禁止を命ずる訳にも行かねば行はれもせぬ。柔和忍辱の僧分で、左の頼を打たるれば右の頼をも出すべき者すら、活人剣ぢゃらうが、殺人剣ぢゃらうが、公然と佩用する時代であるから、平時は農業、漁業に生活しても、いざといなれば、何某殿の旗下に集まる天下皆兵の武辺者が、何で名刀利器を貯へずに置かうか。

 爰で刀剣の需要は年々に増大する。刀鍛冶は月々に多くなれば、自然の競争として利器より利器が出づる。骨を切りて障りがなく、豆腐を切るが如き業物の切れ味の良いものが作り出される。匂ひ焼刀に種々の工夫をこしらえて、美の体裁をも調ふる事になる。能く切れても折れるやうでは不都合であるから、其工夫も成き上る。

 後鳥羽天皇が非常な刀剣好きであらせられたので、京都の粟田口や、備前の福岡の鍛工を召して至尊自ら工術を学ばれて、御所焼と云ふ利刀の名を残された熱心さである。御譲位の後には、12人又は24人の御番鍛冶を選びて召し上げられたので、全国の刀鍛冶は、其御選に入るべく、何れも非常の修練を積んだものである。

 此れでは、僚原の火どころぢゃない。軽油重油を潅ぎかくるやうに、拡大せざるを得ないのである。

 其の後、鎌倉では、執権時頼が、後鳥羽院の御番鍛冶の制に倣うて諸国の名工を召し寄せた。日光からは大進房が来た。其弟が行光で、行光の子が有名なる五郎正宗で、一大革命期の元祖である。其等が宗祖の御時代であったから、動もすれば例証が刀剣のことになるのである。

 其から今一つは、刀剣は武士の精神と云ふ古来の伝説を重んぜられた所からも来ている。日本吾国のみでない。支那外つ国までも古来刀剣を重ずる。最も戦国時代の武器の王であった事も、此基を為してをるのは勿論であるが、良刀を良功を打ち上げることは中々容易な術でない。百本が百本其原料を選り、其技を慎しみさへすれば、必ず恩ふ通りの物が出来上ると云ふものではない。そこで名工が偶然に自得するやうな名剣が出来上ると、自然に特異な伝説と名称とが付けられて、其を命じた家の重代の宝剣となりて、子々孫々のあらん限りの守護刀となり、其家の精神となりて、武門の褒れと宣伝するのである。

 吾国にて伝国の神器と云はれる、天叢雲の剣は申すも畏こし天国の鍛へると云ふ。壷切の名剣は東宮御相伝の例になった。又、天国作の平家の累代の重宝小烏丸、源家累代の重宝鬚切膝丸の両剣は、陸奥文寿の作である。三条の宗近のもの、備前の友成のもの等、皆、得難き宝刀となりてをるが、日本に其数も少ければ、正宗巳後は、正宗貞宗等のものが、徳川将軍家又は大諸侯の重代の物となって、又、其々の奇特な伝説をも持ってをる。

 支那にても、周末の太阿・龍淵・属鎗・巨闕・干将・莫邪等は、我国までも響いて有名である。中にも干将莫邪に至っては、眉間尺や疋王などをからませて、奇抜な伝説が残ってをる。

 此等の刀剣の鍛錬法は、古代より鎌倉時代迄も、幾度かの進展を見たのであらうが、現代人が砂鉄から銑鉄より錬鉄に至るまで電力を以て処理するのとは、先づ以て大した相違である。宗祖の御文に 「鍛ハザレバ」 「鍛ヘバ」 「鍛ヘルナリ」 と云はるゝのは、電気力を応用する近代の給金術たる電解法でも電熱法でもないことは申すまでのないが、炭素応用だけな古今一徹であらうと息ふ。

 先づ刀鍛冶の鍛冶法に火鍛と鎚鍛との二法があるが、火鍛の法は材料の取扱ひが面倒であるから、疾くに其伝を失して行はれず、専ら鎚鍛への方であるとの事である。其は其地の良き鉄塊(伯耆より出るものゝ如き)を炉中に焼いて柔軟とならしめたるを、金敷の上で鎚で打ち延ばす折り返す、一人でも、相鎚でも、其材料次第であるが、更に此を軽く焼きて、打ち延ばし打ち延ばしするのが柾目のものとなる。此を更に幾つもに切りて、縦横に重ねて焼いて打ち延ばすのが、其やり方で、板目にも杢目にもなる。此の鍛ひ方の丁寧なるほど、理の細かき上品が出来る。百錬の鉄など云へるは、百辺も折り返して鍛ひたる形容詞である。

 此の鍛錬の始には、鉄の理目が粗らきせいもあり、又数々折り返へされてない為でもあるが、物品に作り上げても疵が見えぬが、十辺百辺と折り重ねて鍛ひ上げて磨いて見ると恩ぬは処に疵が明に出てくる。刀剣で云へば肝心の帽子先にも出る。匂切もある等で、中には美の体裁ばかりでない、実用にならぬ大疵も出ることがある。此御文に、

甚ウ鍛ハザレバ玼隠レテ見エズ。度々セムレバ玼アラハル

 とも、

ヨクヨク鍛ヘバ疵ノ顕ルゝガ如シ

 とも仰せになるのが、即ち其れである。

 又、現代では、鉄の溶解るのは、1500度が高度と云ふ事も定まってをるが、鍛冶の程度で、其鎔度も高低があらうと思ふ。百錬を経た良き刀剣は千五百度巳下の熱では鎔けなからうが、銑鉄などは其よりもズット早く鎔くるのであらう。

 今の御文に

 「鍛ハヌ金ハ盛ンナル火ニ入ルレバ早クトケ侯

とも、

剣ナンドハ大火ニ入ルレドモ暫シトケズ。是鍛ヘル故ナリ

 と仰せになってをるのが即ち其である。又、

 「石ハ焼ケバ灰トナル。金ハ焼ケバ真金トナル

 と云はるゝのは、比は普通の談理である。現今の鉱物学の上からの論議ではない。金属でも高熱に遭へば、軽るき粉末になったり気化したりする等のことは、予算に入れて見てはならぬ。黄金が焼けて真金になると云ふのも猶其れである。純金は1064度の高熱にて鎔解するものなれば、其より巳下の錫、鉛、亜鉛、水銀等の不純の混合物は低熱にて焼いても分解すると云ふ旧説から来た御文意である。

 以上を引くるめると、左の如くなる。

「鉄の鍛錬の程度で瑕の隠顕のあると云ふ事と」 (第一)

「鍛はぬ金は早く鎔け、鍛ひし剣は容易に鎔けぬと云ふ事と」 (第二)

「石は焼けて灰となれども、黄金は焼けて却って純金となると云ふ事と」 (第三)

 此の三つの譬喩を、日蓮大聖人御門下の実際に合はせて見れば、

 第一、喩は、法華の信行を起さゞる他宗の権迹教時代には、過去潜在の罪業が顕はるゝ事がない。(修行に依って) 法華の信行を起しても、初信始行の時は重くは顕はれぬ。信行漸く成らんとする時、突如として宿業顕現すると云ふ事に合する。

 第二、喩は、法華の信行を起して万難を突破した者は、如何なる大難にも退転せぬが、信行幼稚にして未練のもの、不退の体験を得ぬ者は、容易に小難にも退却すると云ふことに合する。

 第三、喩は、過去の宿善なうして俄に法華を信行するものが、迫害に遇へば、直に退転して灰の如く入信巳来の善業を消散せしむるが、順縁深厚の者は却って信行の色を増すことに合する。

 此等の事、委しくは各引文の前後の文々に照見せらるゝが良い。

 『開目抄』の御文については、広く日本国当世を照らす鏡としても此を見、狭く宗祖御門下の上にても此を見るが良い。

 『兄弟抄』 の御文は、池上兄弟が、父の左衛門太夫が極楽寺の良観房に誘惑せられて、兄弟の法華信仰を圧迫せられた大難を、右衛門太夫志と兵衛志の兄弟夫婦が種々に苦心して遂に父を覚醒せしめた。其中間の事を思ひ見るが良い。

 『四条抄』 の御文は、三位房が桑谷にて、竜象房を論伏した其事に座して、金吾頼基は、主君江馬殿の不興を蒙りて、知行をも召し放されて、大苦労の真只中の御激励の数々の御状の其一つの文の中である。

 金吾殿の厳石の如き信仰、沖天的な忠烈の意気に加へて、宗祖大聖の不断の綿密の御注意とが、遂に禍を転じて福と成るの悦びとなったのであるが、連々として在る四条殿への御慈誠の御文章を御熟拝なさるがよい。

 大凡宗祖の御檀方に富木、池上、四条と云へば、強信中の強信者として、千年の末までも異論はあるまいが、他門ではさほど重んぜぬは吾が南条時光殿である。
 南条殿は決して此等に劣らぬ強信者であることは、熱原法難を知る人の容易に頭に浮ぶ所であるも、宗祖御在世に、猶、弱輩であった為か、他門には閑却せられてをらるゝは残念の事である。

 但し、吾宗門の古説には、四条殿と南条殿を信者の撃壁と称讃してあるのは大いに留意すべき事である。此外、直檀方の中にも、直弟子の中にも、百錬の鉄の如き純金の如き御仁は沢山あったが、今は此に反して「石の焼けて灰と散ったやうな人」と「未練の鉄の熱火に鎔けたやうな人」と、「鍛へぬいて、弥よと云ふ時瑕が出て、用に立たぬ瑕物の廃刀のやうな人」とを列べて、吾等の誠めとして見やうと思ふは如何。

 大凡信仰の進退と云ふ事が、思想問題と生活問題とから来ることは、古今一徹である。其中に、法難と云ふ大きな試練石がある。其大小に依って、大概な者は信仰に動揺を来たすが、其法難の苦痛は、思想よりも寧ろ生活である人間苦である。迫害に堪へんとすれば、種々に生活の便宜を失ふ。如何なる階級の仁であっても、如何なる時代であっても然りである。

 宗祖の宗門草創の勢力微弱にして物資力乏しき時と、今の吾宗門とは、六百有余年の間隔あるも、久遠即末法である。世界益を拾得せんには資力が充実せにやならん。法難でなくとも昨年の関東の大火大震災には、幾分の試練に失敗した御信者もあらうが、重に思想よりも生活に起因してると云ふ事である。思想の画一は勿論の事であるが、信仰の結束が、多少は物質上まで及ぼす様になったらばと云ふ感じが切実に起きてくる。が、此は衷心に、刹那でも寸刻でも、確固たる信念の植え付けられなくて、徒らに付和雷同誘引から来た信者が多くあるのでは無からうかとも思はるゝ。仮令さなくて真剣に求道した仁なりせば、其は甚だ幼稚な愚考から来たのではなからうか。思想上より来ても、生活苦から来ても、高級でも低級でも、兎も角、中心の動転が、信仰に進退を来たす事が多いのは事実である。動揺する毎に進んで行く、向上して来るのは有難き事ぢゃが、中々さう計りは行かぬ。却って動揺は退転ばかりを作るものである。左傾は悪い、右傾は善いとは云へぬ。強くなるは善い、弱くなるは悪いと計り云へぬ。仮に有の思想が出発点なら、無の思想は進みながらも其反動思想である。落着がない。直に非無の思想が起るべきである。四句百非反動ばかりでは、何時まで立っても落ち着かぬ。或制度の一点に固着して硬化するから、嫌って左傾して見る。此れが過ぎて危険ぢゃから、廻れ右、右傾するでは、徒に反動に過ぎぬ。此気味が、何の時代、何なる場面にもある。

 宗祖の御時代に伊東の御難で危胎を懐いて、退転したお弟子・檀方もあったらう。龍口御難前に少輔房が退転して、平頼綱に忠勤振りを見する為に、昔の恩師たる大聖人を、『法華経』の五の巻で散々に擲った。名越の大尼御前が永年の信仰を擲ったのは、意中からではなからう。一門有力者の圧迫で一時の生活難の為であったらう。龍口・佐渡三年の間の蟄塞時代には永転暫転の道俗が無数にあったらうが、判然と名字が残ってない。其らしい人も、史実が判然せぬ。熱原法難が因を為して明かに自動的に退転し、又は、反忠した三位房、大進房は著名なる逆賊と目すべきである。少輔房や大尼御前は 「鍛はぬ鉄」 又は 「石」 である。大進・三位は、龍口にも鍛はれた百錬の鉄である。鉄中の錚々である。 弘安五年まで無事だったら、本弟子六人の順序は、一変して、一、弁公、二、大進公、三、三位房、四、筑後公、五、伯著公 六、佐渡公となったかも知れぬのであるが、惜しい所で退転した者である。

 宗祖の御滅後、吾御開山日興上人は、門葉の中で明瞭過ぐる程退転者の名を自記なされてる。今からは情なくも見ゆるが、師の謹厳さが能く能く此等の事にて何はれる。其は永仁六年に大聖人の御本尊を渡された御弟子・孫弟子の人名簿を自筆で記された中に明らかにある。今此を年紀に区別して見ると、

 宗祖御入滅後に、師の日興上人に背ける者は、

  蓮華阿闍梨日持上人、四十九院治部房日位、岩本筑前房、松野太夫房、松野次郎三郎、松野左衛門四郎後家尼、甲斐国曽根五郎後家尼

 弘安年中に、師の日興上人に背きし者は、

  越後房日弁上人、其弟子泉房(日法上人)

 永仁六年に背きし者は、

  下山因幡房日永上人、小室肥前房日伝上人(寂日坊日華上人弟子)

等である。

 其違背の事情を考へて見れば、始に六老第六の日持上人は、鎌倉方の五老の主義に軟化して、公に天台沙門と名乗って、日興上人の日蓮聖人を立てらるゝに反対したる為である事は、明かに書き添へて、未来の鑑に残された。其他の、治部房、太夫房等の僧俗は、多くは一家なり師弟の好誼なりから、此に与同せられたものと見ゆる。此等は惜しみても余りある事である。殊に、其主義の軟化逆転右傾にある事に至っては猶更の事である。

 次に、日弁上人、日法上人の違背には、何等の事由は書いてないが、両人同時と云ってある。弁師は熱原法難後に、下総に下られて房総から奥州までも弘教せられた位の、剛折家であるから、恐らく五老門家に多少の交際ありとて、与同して天台沙門と軟化されたのではあるまい。逆転右傾よりも、寧ろ加上左傾の方ではなからうか。確実な史論ではなからうが、小室伝師にも、此弁師にも、八品所立の説があると云ふのも少しは考察の価値がある。

 天目の『円極実義抄』と称するものが、完本を見た上でないと確定は出来ぬが、日弁集説と入文にある。大つかみに云へば、天目や日弁や日法の説なんどを、郡内の常在寺の開山である南陽房日授が書いたんではなからうか。日授は、日法の弟子と云ふ事であり、又、今の元本が日授の筆である所から考へ及ぼしたまでゞある。現存の下巻の文中には、中々奇抜の文句がある。宗祖の事を 「本門大大師」 と云ふてある。両巻相伝書には「本門大師日蓮」とあるのに加上する事にもなる。又、日興上人を、他の五老と共同して迹門ズリの仁と貶してある。此処が面白い所である。『五人所破抄』の天目の難条の下を見ると、思ひ央ばに過ぐるので、此は天目や日弁、日法の説が転大せられたのであらう。

 其れにしても、弁師、法師は、本門左傾の説があって、天目と種々の因縁から一時与同せられたのであらう。永仁6年の記に掲げらるゝ以上は、其時までは、法師・弁師は、師僧の興師に帰参せられなかったが事実で、其中間に起りし興師の身延御離山には無関係の事であることは明瞭であるから、精師伝等は、誤の伝説を其侭にせられしものと見て、今では全く取消すべきであらう。其から後の弁師の改悔・帰山は有るべき事と思はれ、日法上入門下、富士の交通も有りし事の様に思はるゝのである。

 次に因幡房日永、肥前房日伝の違背の事由は、明瞭に書いてないが、「但今背了」とあるから、永仁六年の事である。或は、此両人に連絡があったかも知れぬが、因幡房の弟子、下山左衛門四郎は、宗祖滅後に直ちに違背の仁となりてをるに、肥前房の祖父大井庄司入道及び其後家尼は、寂日坊日華上人の弟子として別状なく信者の列にしてある。此には、如何なる問題のありしや。一寸考察に能はぬのである。或は小室山に、日伝以来数代の間、富士門下であったと云ふ説もあるから、日伝違背もー時であって、実家の大井家は不断の富士門家であったものとも見ゆる。但し 『門徒存知事』 に記してあるのは、四脇士の金色剃髪比丘形のものを造り添へたとあるけれども、神社参詣を禁ずる事を記してあれば、硬派である事が伺はれる。寂日坊違背の事由は、外に書いてないから、猶、明瞭せぬ事になる。

 以上、硬軟、左傾、右傾、石、銑鉄、錬鉄、種々の性質の仁方の信仰の中心を失したる事を列して、聊か自責に備へたは、御互に円満の向上を祈らんばかりの事から、出発したのである事を申上げてをく。(完)


                                『大日蓮』大正13年8月号

 

 

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