聖訓一百題(第21)

堀 慈琳 謹講

    汝、只正理ヲ前トスべシ。別シテ人ノ多キヲ以テ本トスルコトナカレ。(縮遺571頁)

 『聖愚問答抄』の中の御一文である。『聖愚問答抄』と云ふのは、愚人が仏法を問ふのに、聖人が答へらるゝ姿を以て、浅きより深きに進みて法華の深義に達する様を示されてある御抄である。

 始には、愚人に対して、智人・上人・居士・非人等の名義を以て、戒律、念仏、真言、禅の教義を説かれ、後には聖人の名義を以て、次第に法華に進まるゝ其央過ぎの問答の御文である。

 此御文の起りは

爰ニ愚人云ハク、今、聖人ノ教誡ヲ聴聞スルニ、日来ノ蒙昧忽ニ開ケヌ。天真発明トモ云ツべシ。理非顕然ナレバ誰カ信仰セザランヤ。但シ世上ヲ見ルニ、上一人ヨリ下万民ニ至ルマデ、念仏、真言、禅、律ヲ深ク信受シ御座ス。サル前ニハ、国土ニ生ヲ受ケナガラ争デカ王命ヲ背カンヤ。其上、我ガ親卜云ヒ祖卜云ヒ、旁々念仏等ノ法理ヲ信ジテ他界ノ雲二交り畢ヌ」 (567頁)
 「然レバ主師親ノイマダ信ゼザル法理ヲ、我始テ信ゼン事、既ニ違背ノ過ニ沈ミナン。法門ノ道理ハ経文明白ナレバ疑網都テ尽キヌ。後生ヲ願ハズバ来世苦ニ沈ムベシ。進退惟谷レリ。我、如何ガセンヤ
」 (568頁)

と云ふ愚人の問ひから、本題の答へが出づるのである。

 愚人は此に至るまで六番の問答を経て、粗法華経の大義を会得して、念仏・真言・禅・律の邪義を嫌ふまでにはなりたるも、扨て目前自己の環境を見渡せば、間接に直接に生活の依止となるべき人々は、皆、悉く此等の邪法の帰依者であるから、此邪法を振り捨つる事は自己の主人・師匠・親々・朋友・親類等の恩分の人々にも背く事となりて、義の上からは恩知らず義理知らずの人となり、利の上からは生活をもな擲つ事になる。我一人なら兎も角、未だ法華の信仰に進まぬ妻子までも従って路頭に迷はする事になるので「進退惟谷レリ。我如何ガセンヤ」と愚人が歎ぐのである。

 此は現今の如き信仰自由の聖代で、官憲の圧迫もなく社界の悪制裁もなき時代には、余り起らぬ心配であるけれども、宗祖大聖人御在世の鎌倉時代より、つい今より四十余年前までに殆んど六百年間、日蓮門下の正信の僧俗が嘗めたる苦がき経験である。仮令ひ、信教自由の今日たりとも、多数の権迹教徒より少数の法華教徒は何彼と生活にも信仰にも便宜を欠くので、処生の利得を自然に得る事が少い。況んや正真の日蓮門徒は至って僅少で、動もすれば偽日蓮門徒の多数の者が、宗敵たる法敵たる権迹教徒と妥協提携して却って正真の日蓮の仏子を虐待するやうな事があると云ふ事を聞く。

 さうして見れば、本題の御文も六百年後の今日まで生きて居ることであり、愚人の「進退惟谷れり」と云ふ心配も、亦、信教自由の今日に不祥ながら現存すと思はねばならぬ。困った事であるわい。

 何事も多数であれば仕事が仕易い。多数なら無理も通る。少数では道理も引込まねばならぬハメになる。其れで、利権にのみ汲々たる俗界では何をがな好題目を見付けては多数を糾合するの看板にしよう。一事一件起る毎に政治界でも商業界でも工業界でも農業界でも成るべく好き題目をつけて、味方を一人も多く引きよせて、党同異伐をやりをる。やれ憲政常道だ、憲法護持だ、穏健中庸だ等と看板を作るが、表看板の如くに何事も別れるものでないが、利権獲得を目的とするが如く見ゆる社会では、多数糾合のために拠ろなく朋党の必要も好看板の必要もあらうが、教育界や文芸界等の重に思想界に属するものには、此等の臭気が無ささうに恩ふに、豈に図らんや、中々大有りと云ふ事を聞く。

 此が何事をするにも人間界の事であるから、人間味の存する限り、超人間非人間にあらざる限りは、何界も内情に峻別の無き事と見ゆる。殊更多少は人間を超越してをるべき、又は超越したる顔つきしてる徒輩にも、与論を仮り、衆愚に鞭うち群衆心理を煽つる形がある。

 宗祖の随処に唱導せらるゝ本文の中核に外れてる日蓮教徒が多数であるやうであるのは、祥か不祥か、付和雷同と与論と群集心理と多数決とは公論正義と全同なりや、少同なりや、全異なりや、少意なりやを戯論とせずに、真面目に考察するのもたまには良からうと恩ふ。(未完)


                                『大日蓮』大正13年6月号

      聖訓一百題(第21)の続き


 群集心理と付和雷同と与論とが、多くの場合に愚劣の状態に陥るのは、有り勝の事である。弥次馬の多いのは何の国と限ったものでない。一犬虚を吠へて万犬実を伝ふるの弊で、一寸とした事から大事件を引き起す。先覚者、先憂者の気苦労は何れの時代にも、何れの国にも絶ゆるものでない。

 北米人に弥次馬多いと云ふ事勿れ、支那人朝鮮人に事大思想が多いこと勿れ、我日本本土にも至る所多ありである。他宗他門の僧俗に迷信あり物慾ありと云ふこと勿れ、本宗の僧俗にも多ありであると省みねばならぬ。『寿量品の自我偈』 の末文には、
 「何ヲ以テカ衆生ヲシテ、速ニ仏ニ成ルコトヲ得セシメン」と仰せあるのは、三世不休の本仏の大慈大悲である。

 然るに、末世の賢僧達は、「何ヲ以テカ我懐ヲシテ速ニ成金タルコトヲ得セシメン」と三世不断に念願して居られるとの事を聞くは実か。

 妙楽大師は、

 「百ノ迷盲倶ニ路ヲ知ラズ。一迷先ニ達シテ以テ余迷ヲ教ユ。余迷、愚ヲ守テ先教ヲ受ケザルハ誰ノ過ゾヤ
と悲しまれた。

 邪義愚法の世に、多くして正義賢法の世に行はるゝ事の少いのは、一は衆愚の時代であって『寿量品』の「入於憶想妄見網中」の真中、愚劣な社会組織の網に七重八重に身動きもならぬ程に縛られて居るからである。宗教家も愚劣である。教育家も愚劣である。官吏も愚劣である。政治家も愚劣である。況んや其等に指導せられ引き廻はさるゝ者に於ては、又一倍の愚劣であると見ねばなるまい。

 二には、此愚劣さを却って能い事にして、此を賢能な位置に向上させやうとせずに、其以上に愚物扱ひをして瞞着酷使をしやうとする支配階級の者が沢山あるのを、又、此愚劣の中から少し目覚めた者が、善悪共に出て来て、其様勝手な真似はさせまいとする、馬鹿にはされまいとする所に、階級争闘が随所に顕はれて世智幸い世の中を甚ど不安にのみする事となるは、困った状態であるけれども、此が動機で世相の改善が幾分でも出来れば結構ぢゃが、行き詰った階級争議位では各方面百般の生活改善思想向上は到底出来まい。殊に其が生活難の上の反動思想からのみ起ったものとすれば、猶更の事であると恩ふ。

 要は、各般の妄想分別を取り払ふ事にならねばならぬ。間違いだらけの生活と思想と信仰とを、息ひ切って改めねばならぬのである。

 先づ物的生活上から云っても、吾人の衣服は僧服にせよ俗服にせよ、従来の物が将して結構なものであらうか。吾人の住宅も従来のものでよからうか、吾人の食物も菜食と魚食と肉食と何れが善からうか。洋装にしやうか、洋館にしやうか、洋食にしやうか、いや折衷して其宜しきを取らうか、此間には何れと定まってる地方もあり、定めてる人もあるが、又、無貪著な人もある。

 けれども中には、風土・習慣・経済をも考察せずして、妄りに改変する新しがりもある。便利な事も、経済な事も薄々は知りながら、因襲にのみ拘くられて横の物を竪にする事も出来ぬ人もある。殊に食物の如き、新しがりやが妄りに洋風にのみ染れて、野菜は滋養にならぬ、漬物は不消化だ、魚貝は栄養分が少ない、鳥肉が善い、獣肉が善い、卵が善い、牛乳が善いと云って、更に人物の老年・中年・小児の区別、病体、健康体の区別をも顧みず、ヤタラと鶏卵牛乳牛肉を病人にすゝめて蛋白万能の衛生を試みた時代があった。

 目今でも其云ふ間違った衛生思想を持った者が、素人には兎も角、御医者にまである。困った事だ。糖尿病のやうな蛋白中毒者が中々に多い。栄養研究が年月と共に進みて、野菜の中に大に滋養素が発見せらるゝ。滋養物とのみ過信していた卵、乳、肉が大なる毒害になる事もある。不消化と思った沢庵漬が却って消化し易い計りでない、貴重な滋養分を持ってをる。蛋白時代、脂肪時代からビタミン時代に進んでくる。其ビタミンにも、亦蛋白質のものと、脂肪質のもの等がある。此迄西洋かぶれの人から馬鹿にされて居た穀物・野菜の中に、貴重なビタミンが含まれてあるとなって来た。仮令、食物の方に滋養が具有せられてあって、其が新鮮なやつと旧びたやつとは栄養価値が違ふ。生で食ふべきもの、焼いて食ふべきもの、煮て食ふべきもの、其料理法を誤れば、又、栄養価値が違ふ事となる。此等の材料と調味とを完全に適度に申分なくした所で、食し上がる御仁の体質・痛健・老少・男女の区別、又は其々の噂好に適せぬ時は、又、栄養価値が転動する。某所に間違いだらけな非衛生が行はれ勝である。病まんでも能い身体を病人にしてしまふ。態々余分な費用をかけて手数をかけて、却って御馳走責めで肉体を破壊して行くことが多い。つまらぬ事だけれども間違った社会の習慣で、其因襲を重んずる仁には、致し方がない。

 あらゆる酒類に毒素があり、あらゆる緑茶に毒素がある。此を知りながらも、興奮陶酔の寸快を貪ぼる為に酒は禁められぬ。口舌の清涼の寸感の為に上茶々々と向上して妄に宇治玉露を貪ぼり、有益無害な番茶を貶して召し上がる人が少い。否、自家では呑んでも御客には進めぬ。実に社会迷妄の弊害である。

 此は食物上の事であるが、衣服にも、住居にも、猶、此等迷妄の思想から来る弊害が少くない。人間の病気にしても、自分の誤った思想と、無智と、並に行為に依って直接に起す疾痛が最も多い。間接に来る風土痛、伝染病でも、猶、衆人の間違った考から来るものである。此を又看護する者や御医者が誤った手当をするので、治らずに死ぬ者が多い。

 大体、薬物療法は現今では甚だ心細いものとしてある。特効薬なんどと売薬屋さんが云ひはやすが、確実には中々有るものでないとの事である。病勢を弱めるとか、他に誘導するとかして病体自身の抵抗力の強くなるのを待つに過ぎぬから、充分な事を云ふなら病気に罹ぬやうに身体を平素から強健にしてをくに限るは、知れ切った事であるけれども、身体を支配する精神即ち心意の健全なることが第一必須の要件である。

 此から云ふと、第一は精神の健全、第二に肉体の強健である。肉体を強健にすることは、一に増強で、より以上に壮健になる方法を取ること。二に保健で、持ち来れる健康を保持して行く。三に予防で、病気に罹らぬ様に内外の予防をする。四に治療で、病魔に侵されたら其病気に対してなり、又は其病の原因につきてなり、治療を加ゆる。此は止むを得ぬ方法である。病原の繁多なるだけに、其々に特効ある薬物は到底発見せられぬ。寧ろ空気療法、日光療法等の自然療養に効果を見る事がある。ラヂユーム療法、レントゲン療法も万能でないのみならず、適度を誤ったら大害を醸もすと云ふことである。

 併し乍ら、間違いだらけの世の中であるから多少間違った方位でも不思議と奏効せぬことはあるまい。信仰上について「鰯の頭も信心から」と云ふことがある位で、偶然には道理外の結果も顕はるゝ事があるが、アテにはならぬ。

 間違いだらけの政治、寡頭から民衆へ、民衆から又寡頭へ逆転せんとしている所もある。民衆と云ふも、寡頭と云ふも、全国民の希望でなく、少数の野心家の細工事では長持もあるまい、治まりもつくまい。得る者は其興行師、失ふものは其観客、其も見たくなくても木戸銭を強求らるゝやうなもの。何事も誠意・誠心が先に立つべきであるが、政治には人民の安危の係る所が大きいだけ、最も其必要があるのは分明り切った事であるが、胆略智謀抜群の大人物に得てして誠意がないもので、自分の好みから敢て民衆を愚弄する者も有り勝で、遂に間違ひだらけの政治ともなるのである。

 間違いだらけの商業。有無交換需要供給の間に些の信用を措けぬ往古の様に、知らずば半分価の時代、商人は虚言を云ふものとして如何に華美な生活をしても、工人、農夫の下に列せられて、年に一回は誓文払いとして虚言の解除の儀式を行ふ時代ならば兎に角、国家に功労ありとして、幾十人かゞ爵位を賜はりて貴族に列せる今日、価格が正札となつた今日、薄利多売を看板に、社会奉仕を標札にする今日に、猶、虚言は少しも止まぬ。

 仲間同士にすら懸引に油断はならぬ。素人と見れば、世間知ずと見れば、取り放題。やれ別荘相場、悪所相場に法外の高値を食ぼるはまだしも、見本と実物との相違、目方の不足、あらゆる悪智を紋りて不当の利得を目宛に夜の目も眠らぬ境界、はては一攫千金の投機業、此れで商業道徳が在ったものか。寧ろ表裏ともに商人は虚で固ってをると定まった方が間違いなくてよいと思ふ。

 其外、間違いだらけの教育界は云はずもがな、一般の宗教界の汚れは白法隠没の一句に尽きてをる。寧ろ文芸界中、思想界中、現実暴露の詐らざる主張が可愛くて善い位に思へる時がある。清かるべき筈のものが裏切られて汚なかった時の失望は、直に憎悪の念に変化する。さりとて、表面何処までも潔白にして、裏面の極微の点に幽に一抹の汚塵の存するのもいやである。品行方正の大賊などは何んなものであらうか。ユージンアラムに同情すべきや、高野聖に宿貸すべきや、軽々に考へ去るべき事ではない。聖者となるも、人間となるも、私悪から出発しては困る。我利を基点とするから衆愚にも付和雷同することになる。多数決を悦ぶ事になる。くだらない与論を作りて正義を圧迫する事になる。北米の金権に媚びた結果、排日のペケを喰って憤慨せにゃならぬ事にもなる。

 本題の御金言たる、

 「汝、只正理ヲ前トスべシ。別シテ人ノ多キヲ以テ本トスルコトナカレ」の底意は何なる辺にも通用する。宗教の正理は、道徳の正理である、政治の商業の又国際の正理であらねばならぬ。人の多きは、金の多きである、軍艦の多きである、飛行機の多きであると共に僧侶宗教職人の員数の多きである。寺院教会の棟数の多きである。又、信心したり気な御利口な俗士の多きである。此等の有象無象の背景計りに拘泥して、陽気に大景気に、所謂、教化運動を為さんとする者は根本錯誤である。応用向下の堕落である。慈悲の詐欺廉売である。

「法ハ売買ニアラズ」と云ふは、釈迦仏涅槃の金誠である。「不渡余行」 は本仏大聖の最後の訓示であるのに、余行に渡して廉売しては相済むまい。

 返すがへすも少欲知足にして此金蔵を厳守したきものである。


                             『大日蓮』大正13年7月月号

 

 

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