聖訓一百題(第20)


                        堀 慈琳 謹講


身ツヨキ人モ心カヒナケレバ多クノ能モ無用也     (縮遺12192頁、『乙御前書』)


 乙御前へとの宛名になってをる。建治9年乙亥8月4日の御状であるが、乙御前は漸く11、2才の童女であるから、無論其母・日妙聖人への賜はりであって、此一消息の全文殆んど頼る辺少き一寡婦への信仰激励の御文に満ちてをるから、何れの御文を抄り出しても一箇の講題にならぬはない。今は少し考ふる所もあって、別して此御文を抄出したが、次々に他の要文を助引として補足しやうと思ふ。

 先づ第一に、文面の「身強き」と仰せらるゝのと、「心かひなし」と仰せらるゝ事とを委しくするに、文の面ては、身強は身体の強壮なることで、骨格が偉大で、筋肉が堅仭で、力量が非常で、五人力も十人力も其余りもある。弓を引かせても、打物を取らせても、水に游かせても、山野を駆けさせても、馬に乗らせても、武士の為すべき行作に何一つ愚かはないのが鎌倉武士の身強と云ふのであるが、此強壮の肉体には、必ず健全の精神が宿って居るべきである。健全な精神、即ち心の中には色々の材能を備へて居る事が必要である。武備に関するの意組は勿論であるが、文事の意掛げもなけれぱならぬ。肉体の強壮ぱかりで、文武の芸能が備ってない者は匹夫下郎で、人の頭には立てない。百人の頭領になる者は、百人に勝れた文武の才能を持たれぱならぬ。千人の頭領になる者は、又其だけの器量を、万人十万人の大将軍になる者には、亦十万人に勝れた才能が必要である。

 源氏の長者と云っても、平家の御曹司と云っても、北条執権の若君と云っても、唯門地門閥をのみ頼みとしては、いざと云ふ時、何事を成せるものでない。よし親王諸王の竹の園生のやんごとなき御身でも、亦同じことである。

 併しながら、百千の文武の芸能のみ備っていても、第一の心意が臆病では仕方がない。平時には強者であり、能者であっても、万一の時にはサッパリ役に立たぬ。其処で身体が強壮である事の外に、百般の才能を要する。才能備はりたる上に剛毅の心胆を必要とする事になる。

 此剛胆を養ふと云ふ事に、宗教の力と自然の経験とがある。自然の訓練で、険しき所、暗き処、恐ろしき場所、危険の境遇に出入して、自然に肉体を馴らすと同時に心胆を練る。心自然の経験を反復すれぱ、胆が据ってくる。戦争に出でゝ人を斬るにも、初めは恐ろしくて、無我夢中で敵の顔容も甲冑の毛色もハツキリせぬ。二度三度と場数を重ぬるにつれて、段々と落ち着いてくる。敵と太刀を合わせても平気になる。

 けれども此教訓が、如何様な場合にも適応せらるゝものでない。自分の経験以上の恐怖しき境遇には、兼ねての剛勇な武士も臆病となり勝である。其処に宗教の力が必要となってくる。

 鎌倉武士が禅に参じて、非思量底を思量して、無念無想無我の境に入るべく精神統一をやる。西方弥陀の安養浄土に摂取せらるべく、捨身決定の仏名念仏をやる。法華の娑婆即寂光、不自惜身命の唱題成仏を祈る。

 此等に邪正優劣の差異こそあれ、三学の中の定心の獲得で、即ち大決定心・大勇猛心の速成である。文面の「心かひなし」と仰せらるゝ、即ち此等世法・仏法の定心なき者のことである。

 「かひ」と云ふのを甲斐とよく書くのは、甲斐の文字に何等の意味があるではない。単に充字に過ぎぬ。「かひ」に効の義も詮の義もある。シッカリとコタヘのある事である。「かひがひしい」とかくとき、忠実なことや。敏捷な事にも精悍な事にもなる。「甲斐なし、腑甲斐なし」とかくとき、詮なき事、無効なる事、意気地なきこと、惰弱なる事等になる。今の御書のは、比中の意気地なき事、怯弱なる事が当て嵌まるのである。

 講題の御文を、更に一口に、現代語に言ひ替ゆれぱ、肉体は達者であっても、精神が柔弱であれぱ、多くの才芸があっても役に立たぬものであるとなる。又、中世の俗諺に、

 万能足りて一心足らず

 と云ふのがある。連ね方は逆であるが、意味は殆んど同じである。御文のごと云ふのと此一心と云のとの扱ひ方は同一でも、意義は世間普通の心と仏法の心との両面に見てをかねぱならぬ。殊に当宗の信仰を引く仁達は、浅きより深きに、世間よりも出世間に、外教えよりも仏教に、廃残の各宗よりも当宗の要義にかけて、心と云ふ事をも解釈するやうにすべきは当然の事であるけれども、文のが表面示にのみ逗いて解釈するときは、何れも其箇所だけにしてをくが符文の見方である。

 今の御引文も、文の表は宗門の信仰には直接に関はってない。間接に宗祖御自身の不惜身命の勇猛精進を蒙古襲来の例を以て示されたのであるから、結局元意の辺は、此の身と云ひ、心と云はるるのも宗門の上の事になり、内にしては御自身の心強、身強が御手本を示され、外にしては日妙聖人の心強、身弱の御激励となるのである。

 今、更に心と身との、強弱関係に付いて、世間法、仏法の両面に共通するものとして、四句4に作りて並べて見れぱ左の通りになる。
心身強弱の四句

一、心身共強。心甲斐甲斐しく身も強壮なるもの

二、心身共弱。心甲斐甲斐なくして身も弱きもの
三、心強身弱。心甲斐あれども身は弱きもの

四、心弱身強。心甲斐なくして身は強きもの

 此中の第一は、宗祖大聖人の如き全人至人を指すので、第三は日妙の如き虚弱の女人として、強壮の男子も及ばぬ猛烈の信行を表はせし人。第二、第四は、云ふに甲斐なき世間・出世間に箕でふるひ箒で掃くほど沢山ある通途の弱き人である。

 猶、此等の事例を当『乙御前書』 の中の要文に依りて、委しくして見やうと思ふ。

 (縮遺1292頁) 「羅什三蔵ハ法華経ヲ渡シ給ヒシカバ、毘沙門天王ハ無量ノ兵士ヲシテ、葱嶺ヲ送リシナリ。道昭法師、野中ニシテ法華経ヲヨミシカバ無量ノ虎来リテ守護シキ」

 此二句は、羅什・道昭の法華護持の心身の共強を以て、意外の守護者を得たることを例として、日妙の信行を励まし給ふのである。

(1291頁)「女人ハ夫ヲ魂トス。夫ナケレバ女人魂ナシ。此世ニ夫アル女人スラ世ノ中渡リガタフ見エテ候ニ、魂モナクシテ世ケ渡ラセ給フガ、魂アル女人ニモ勝レテ心中カヒガヒシクオハスル上、神ニモ心ヲ入レ、仏ヲモ崇メサセ給ヘバ、人ニ勝レテオハスル女人ナリ」
 (1292頁)「古ヘノ御心ザシ申ス計ナシ・其ヨリモ今一重強盛ニ御志アルベシ。其時ハ弥々十羅刹女ノ御マホリモツヨカルベシトオボスベシ。例ニハ他ヲ引クペカラズ。日蓮ヲバ日本国ノ上一人ヨリ下万民ニ至ルマデ、一人モナクアヤマタントセシカドモ、今マデカウテ候事ハ、一人ナレドモ心ノツヨキ故ナルベシ。」

 此二つの御文は、日妙の女人の身を以って、殊に貧弱にして、山海万里浪々と佐渡が島へ、大聖人の御前居を御見舞申せし程の大勇猛に伴なふ数々の苦患を凌ぎ来られしを、古への御志と云はるゝので、即ち心強身弱の好き手本である。此を台として層一層の精励を勧められて、其報ひには、必ず諸天善神の加護あるべき事を示され、其例証に御自身の大難を免がれし事を出さるゝのである。又、

 (1293頁)「クマラエン三蔵卜申セシ人ヲバ、木像ノ釈迦負ハセ給ヒテ候ゾカシ。日蓮が頭ニハ大覚世尊カハラセ給ヒヌ。昔卜今トー同ナリ。各々ハ日蓮が檀那ナリ。争カ仏ニナラセ給ハザルベキ。イカナル男ヲセサセ給フトモ、法華経ノカタキナラバ随ヒ給フベカラズ。イヨイヨ強盛ノ御志アルペシ」

 此は前半は奨励の御文、後半は信仰の警告である。如何に熱烈の信仰ありとも、生活上に弱き女人の身であるから、従来の独身生活を止めて、所夫を持ちたるとき、其夫が謗法者ならぱ、信仰上について決して男の言説に惑はされてはならぬ、随ってはならぬと警告して、信仰至上主義を示されたるものである。即ち其時の心と云ふべきものは、宗門三大秘法信行の心であって本門の本尊に即する一大決定心であるべきである。

 (1290頁)「当世ノ人々ノ蒙古国ヲ見ザリシ時ノオゴリハ、御覧アリシヤウユ、限リモナカシゾカシ。去年ノ十月ヨリハー人モオゴル者ナシ」

 此は鎌倉時代の一般人々の気風が殊に外敵にかけて無理解の上からもあるが、多分は心身共弱と心弱身強の第二・第四の劣等種族であったのを、保元、平治さては寿永・元暦の戦争を経て承久の役に勝ちたる関東武族が意驕りしたる結果で、名のみを聞く蒙古軍を屁とも思はざりしに、文永11年の10月、即ち当御文の去年の10月に、3万余の大軍に壱岐・筑前を犯され、珍しき武器、思ひがけぬ武略に劫かされて、未だ見ぬ者まで、臆病風に襲われて、非常に恐れに沈みて、以前の意の驕りは何れかへ消へ去りて、唯もう人心恟々として、大敵寄せ来らぱ何れに逃ぐべきかの臆病武士となる者が関東にも多くなった事を憐まれたのである。真実に強き意を持たぬ者の強がりは何の時代でも此通りである。

 此中に未萌を察して宗祖の国諌は実に痛たし掻ゆしである。黙してをれぱ、増長して益々非礼をつのらず(蒙古の使者を切りし如き)。言ひ過ぐれぱ、気落ちして臆病に誘はるゝ(去年のず月已来の適中)等、実につらき立場にあらせられたのである。

 (1291頁F)「軍ニハ大将軍ヲ魂トス。大将軍臆シヌレバ、歩兵臆病ずリ」

 (1292頁G)「一ツ船ニ乗リヌレバ、船頭ノハカリゴトワルずレバ、一同ニ船中ノ諸人損 ジ、〔又、身ツヨキ人モ心カヒずケレバ、多ノ能モ無用ずリ〕日本国ニハカシコキ人々ハアルラメドモ、大将ノハカリ事ツタずずレバカヒずシ。壱岐・対馬・九箇国ノツハモノ並ニ男女多ク或ハコロずレ、或ハトラハレ、或ハ海ニ入リ、或ハ崖ヨリ落シモノ幾ず万卜云フ事ずシ。又、今度寄セずバ、先ニハ似ルベクモアルベカラズ」

 此二つの御文の前の短句は蒙古の事に関係なきやうなれども、猶、多少の御底意がほの見ゆるで、此処に連ねて置く。

 後の御文の中に、「身ツヨキ」の一句は本題の御文であるけれども、前後の関係も明白となるから再出してをく。殊に其を明らかにずる為に圏点を付けた。

 此処に方角違ひの愚僧が、史論をずる理由ではないが、何となく元寇については、我国の不用意、周章狼狽の状態があったやうに思はるゝ。宗祖の御文章を透して見ても、今人の云ふ北条時宗の勇略と云ふものが伺はれぬ。況んや九州探題の実政や、大宰少貳の資頼等武は即ち武勇は即ち勇なりと云へども、当器を歌しめぬ程の国士であったか否かは明らかでない。弘安最後の大難間際に漸く船艦が調ふた様にも何かで見たことがある。

 諸寺、諸山、諸社への祈祷調伏は頻りに行はれたやうで、弘安4年後の大風は伊勢の神風とも又は何々調伏の徴とも夫々云ってをるが、将して天祐と云ふものがあるべき事か、神風と云ふ事があるべきことか、真言の調伏が有効な事か、現代人の多数は此を不可解又は僥幸とずるではなからうか。

 本件に言説多き宗祖の各書の中には、此事が的確に見当たらぬ計りでない。弘安4年10月の『富城殿書』には明らかに、真言調伏の力でない事を云ってある。何れにもせよ、今文の「大将軍臆シヌレバ歩兵臆病ずリ」「船頭ノ謀フルずレバ船中ノ諸人損ジ」「身ツヨキ人モ心カヒずケレバ多ノ能モ無用ずリ」「日本国ニハ賢キ人々ハアルラメドモ、大将ノ謀ツタずずレバ甲斐ずシ」の御文は、蒙古襲来についての御批評であらうと思ふ。殊に末に引く「日本国ニハ」の文は明かに蒙古襲来について、北条時宗等を批難し給ふのである。此も宗祖の無駄評ではない。身心を堵しての兼日の国諌の容れられぬに、猶、密に黙ずる能はざる大慈、思はず発する涙の言語である。方外の仏子も猶皇天の下の忠民たるべき者の忠臣愛国の熱語であると奉拝せねぱならぬ。私言の通らぬ腹いせに、時の当局を罵言する怨言なんどと少しも拝する様な事があってはならぬ。

 凡そ世に天譴と云ふものおりや、又天祐と云ふものおりやと云ふ思索は、格別の必要もあるまいが、天譴を漫に恐れ、天祐を濫に冀ふ思想ほど卑劣なものはなからう。世間・出世間共に、平常当然為すべき事を為せぱ恐れも充ても必要でなからうと思ふ。

 宗門の如き微々たる団体にこそ、却って宗祖大聖の正義が開山・三祖の侭遺伝せられて居るとすれぱ尚更の事である。宗祖の遺された洪範に、挙宗一致の行動を取るべきである。僧俗共に心身共強の人か、心強身弱の人かの選手のみでなけれぱならぬ。心身共弱の人々、心弱身強の人は、須らく宗徒にあらずと不断の訓練を怠らぬやうにしたい。

 然らずは、魔其便を得て法城を襲ふの時来るやも計られず。兄弟垣に閲ぐの愚を陳ずるとも、去来鎌倉となれぱ、外其侮を禦ぐと云ふ考へは蓄へてあらうけれども、其はちと手遅れであるまいか。文永・弘安の蒙古襲来は、九州の一角だとぱかり落ち着いて居た鎌倉武士は一人もなかったらう。熱原の法難は、富士の一部落であって、宗門の大勢に関はらぬと済まして居た本宗の僧俗は一人も無かった。此等の事は、永世へ遺された考察事件ではあるまいか。日々夜々の不断の項鍼ではなからうか。

 本稿は去年8月末にものして大日蓮社に送りしに、例の震災を被りて生体空散、止むを得ず再び筆を呵したるも、前の控案もなけれぱ、何うやら前とは異な物が出来あがったやうに思ふ。

 前年には書くべき考案の上でしたものぢやから、惜しくてたまらぬ。頻りに逃げた魚の大きさを思うて愚痴を御詫に更へました。


                             『大日蓮』大正十三年五月号

 

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