聖訓一百題(第17)



             堀 慈琳謹講


何ナル世ノ乱レニモ各々ヲバ法華経十羅刹助ケ給ヘト、湿レル木ヨリ火ヲ出シ、乾ケル土ヨリ水ヲ儲ケンガ如ク、強盛ニ申スナリ。

     『呵嘖謗法滅罪抄』 縮遺1023頁

 四条金吾殿への賜はりとして、文永十年の下に列ねてある長篇の御消息の末文であるが、文面に依れば左の事実が伺はるる。

 一、佐渡御在島中に、御信者への御返事なること

 二、自分は、過去無量劫の重罪を消滅さする為に法華経に命を捧けし、此度の流罪てあるから、如何なる苦痛も覚悟の前であるけれども、凡夫の事であるから、何かすると、此覚悟を裏切るやうな卑怯の後悔も起るやうな気持も出づるが、前後の弁へもなき、又仏法の道理を充分に心得てない女人方であるから、信仰の苦労の為には、何かすると何で日蓮上人に付いたであらうと、後悔の念が起りはしないかと案じて居たが、少しも其様な心配はなく、強盛の御志であると聞いた時は実に案外で、此は御釈迦様が各々の御心に入替らせ給ぶのであらうと感嘆の涙が止まらぬとある。此文では、女人の御信者方への御返事であるのを合はせて金吾殿に送られたのであらう。

 三、悲母の御孝養の事を賞歎なされて、元重等の五童が、異姓の老婆を母と崇めて養ひし古事を引かれたること。

 四、佐渡島は人気が荒くて畜生の様であり、其上に法然房が弟子充満するが故に、鎌倉で悪まれたより百千万億倍の迫害で、一日たりとも生き長へる事は出来ぬ筈であるを、今日まで無難に生存するのは、全く各々方の御志の為であると、仰せられてること。

 五、四郎は父母を養ふべき跡取であるけれども、不孝者なら仕方がない。弟や妹を子と見て、目を懸けなされてと、仰せられてること。

 六、佐渡の島流しは遠方のことぢゃから如何に志があっても訪ねて来る者は一人もあるまいと思ったに、案外で、七八人の同行が最も少い時である。此多勢の食料などは全く各々の仕送りで辱いことであると、仰せられてること。

 此等の事柄を点綴するに、各般の御法門や歴史を縦横にお使ひになつてをる。

 其終りが今の所掲の御文であるから、四条金吾だとすると、金吾殿並に鎌倉の有志の女房方へとも見へ、或は金吾殿並に女房並に弟妹方へとも見ゆるのである。

 何れにせよ、本文の意は、各方は凡夫の身として格別の修学もなさらぬ人が、中々強盛に日蓮を供養して下さる。実は今頃は日蓮に付いた為に世渡りに様々の障害が起りて、一方ならぬ御難儀で、何で日蓮に付いたであらうと、定めて後悔なされてあるのじゃ無からうかと、案じていた。

 自分は十二、十三の幼時より八方に修学して、度々のつまり法華経の為に不惜身命の誓を立った者であるのに、伊東、小松原、竜口等の再々の大難を受けては、自分ながら此誓ひがグラツキは為ないかと危ぶむ時もあるのに、各方には少しも退転の弱みがない。

 一難加はる毎に却って強盛に御志を励まるゝは、全く凡夫の行作でない。過去の仏の入り替らせての行為であると、有難涙せきあへぬ次第である。

 斯うなれは、各方は法華経の命を継ぐ人である。長夜の闇を照らすべき法華経の燈火を盛んにする油となるべき人である。一天広布の為には、必ず無くてはならぬ人達である。一人も現在の災難に会はれては相成らぬ。油が減れば、法の燈は闇くなる。百人や千人の信者では広宣流布の本懐は遂けられぬが、一人でも減少すれば退却の形である。

 其処で天下国家の為め、神の為め、仏の為め、民の為め、君の為めに、各方の安泰を祈るのである。其祈りは普通では意に満たぬ。無理にも意行く計りの祈りで無くてはならぬ。木と木と磨擦り合せて火を出すさへ容易でないが、此は通り一遍の祈りの心である。自分は湿った濡れた木を擦り合せて火を出すやうな烈しき祈りを、各方の為には為にやならぬ。

 土を堀りて水を出すのは容易でないけれども、此は普通の祈願の意である。自分はカチカチと乾ける焼ける様な大地を掘っても水を得やうとする様な無理な祈願を、各方の為ならせにやならぬ。

 其が、即ち『法華経』の「一心欲見仏、不自惜身命」であると云ふのが、今、所引の御文の大意であるが、此乾土より水を得ると云ふ譬えを『法華経』の御文には、凡夫より仏智を得ると云ふ意に使用してあるが、結局、其苦心努力は同じことである。

 此意持は、世間の事業の上にも、即ち大なる国益を起す時にも、小なる一身一家の利得を産み出すにも必要である。無論、学徳修練の上には、大々的必要である。

 鶴嘴も立たぬやうなや焼土のカンカン音の為る堅き地盤の下には、容易に水を得られそうもないが、必要の水を得るに、其処より外に掘る場所が無けれは仕方がない。よしハネ返へされても、掘って掘って堀り下げにやならぬ。地層が幾度も変りて、堅かったり、粘かつたりしても、厭くことなしに堀り下げねはならぬ。其不退の努力の報には、砂に達し、泥に達して、水脈に堀り当るのである。

 平凡夫の浮べる常識には、仏菩薩の無上智は見へぬものである。又、如何に堀り出さうとしても、普通学の鶴嘴では一切種智の智水は出ぬものである。三般若の特別の穿鑿機を使用して、千辛万苦して、仏陀の無上智水が堀り出さるゝ。否、末法の簡便法としては、妙法口唱の信仰の穿鑿機で、如何なる荒凡夫の岩石の下でも、焼土の下からでも、清浄の智水が堀り出されぬ事はない。其は、猛烈なる努力と精工なる機械の作用である。即ち不断不退の信仰と、本仏本尊の妙用とに依ってである。


                             『大日蓮』大正十二年二月号

 

 

 

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