聖訓一百題(第16)

堀 慈琳 謹講

 

一閻浮提第一ノ御本尊ヲ信ジサセ給へ。相構ヘテ相構へテ信心強ク侯テ、三仏ノ守護ヲ被ムラセ給フベシ。

行学ノ二道ヲ励ミ侯べシ。行学絶エナバ仏法ハアルベカラズ。我モ致シ人ヲモ教化候へ。行学ハ信心ヨリ起コルベク侯。

『諸法実相抄』の末文、縮遺963頁

 

宗門で一信二行三学と云ふ大則は、この御文から来るのである。信は何を信ずるやと云ふに、一閻浮提第一の御本尊を信ずる。即ち『観心本尊抄』に仰せらるる所の、

「一閻浮提第一の本尊、此国に立つべし」

とあるのがその始めである。

『本尊抄』は文永十年卯月二十五日の御作で、此の『実相抄』は、其から間も無き五月十七日である。賜はりは再開山目興上人であるが、普通の版本は此末文の辺が入れ違ひになってる。

其に又最蓮房宛の追伸が後に付いて、二重の錯誤を生じてるが、此事は他日に委くする考へてあるから、此には略する。

併し「一閻浮提第一の本尊」とは御漫荼羅の総名である。宗祖の御認めなされた御漫荼羅は何れにせよ一閻浮提第一の本尊で、『本尊抄』の次下の文にもある通り、

「月支・震旦ニ、未ダ此御本尊有シマサズ」

とある意である。

別して云ふときは、此閻浮第一に何分の差等あるべきである。宗祖御真筆の御本尊の今に現存するもの、恐らく百幅とはあるまい。最も、其道の者が調べ上げた上での事で、其中に其相ノ伝の処で種々の名称を着けて、其れ其れ特殊の尊敬を払ってをる。それは即ち別名である。

其別名の中に、吾山の本門戒壇の大御本尊在します。併し此は吾山限りの別名ではない。現に分々になってる八教団共同して尊敬すべきものである。否、日本一国世界万国共同して尊敬すべき時が来るべきものである。此時こそ「一閻浮提第一ノ本尊」の名が相応する。

 古来、賞美の語に、日本一、三国一、等の慣用語がある。今では、世界一の語も出来た。御開山は老輩の弟子檀那を称して「日興ガ第一ノ弟子」と云はれ、又其中から撰びて「一カ中ノ一ノ弟子」と云はれた。

一閻浮提は総名、戒壇本尊は別名であるが、日寛上人は内容の上から、宗祖の御真筆の本尊の総てを別名の本尊とし、戒壇本尊を総相の本尊と云はれた。

 近年、荒木翁が、戒壇本尊は、未来の満天下の一切衆生授与せられたものであるから、「総与の御本尊」と云ふべきと主張した。此も大に意義ある語であるから、追々と用ひらるる。

 但し、私の云ふ総名と別名と、寛師又は、荒木翁の云ふ総相・総与とは、少しばかり総別の使ひ所が違ふのみで、往ひては同じ事である。

総々於別などを振り廻はすにも及ばぬ。只管一日も早く、一天広布の日を念じ奉って、君も信じ、人も信じ、又国人も信じ、外人も信じ奉りて、諸仏の慈光に包容せられて、平和に消息したいものである。

 此の信心の下に、修行と学問との二の道がある。如何に正義な熱烈な信心を有っていても、修行と学問とで、其れを助長して行かぬと、或は落着きくなり、進歩も覚束なくなる。其処で、「行学絶エナバ仏法ハ有ルヘカラズ」と御警告なされた。小乗経の三十七道品は、一寸迂遠のやうであるけれども、其意向を常に用いて、行学に励まねばならぬ。自行学だけでは利他の益を失して、信心者の行為でなし。「自行化他ニ亘リテノ南無妙法蓮華経」と特示せらるる大則に背く事である。「我モ致シ人ヲモ教化侯へ」と云はるるのが、即、自己の行学と共に他に行学を勧めよ、実戦せしめよ、と仰せらるるのである。

 併し、単独の行学ばかりでは目的帰趣が変になる恐れがあるので、又、原に帰りて、「行学ハ信心ヨリ起ルベク侯」と念を押された。此は総体にかけてである。

 若し中々に行学が起りにくき者には、強いても励ましても、即ち作意的に行学を奮起きする必要もあらう。又、其者に、種々の行学を起すべき善き環境を与へる必要もあらう。千里を遠しとせずして御本山ヘ登り、戒壇御本尊の御内拝を遂ぐる等は、其最なるものであらう。こう云ふときは、或は「行学ハ信心ヨリ起スベク侯」と云ふても差支ヘない事になる。其は「行学ハ信心ヨリ起ルベク侯」と云ふ御文を曲解すれば、自然に放任すると云ふ風にも聞ゆるから、其うならぬ様に、一層切実に「行学ハ信心ヨリ起スベク侯」と考へた方が善いのである。

 無論、現代の様に、無信、無行、無学の僧俗のみ倍増して、偶に行学に熱中するかと思へば、ややもすれば飯食ふ種とのみ意得て、邪道に幕進する徒のみ多き時代には、殊更に「信心ヨリ起スベク侯」であらう。

大聖人の鎌倉時代には、猶、奈良・平安朝仏教全盛、殊に貴族仏教・官僧時代の余波を受けて、一般に智者学匠となりたがる者が多い。験僧や説経師は特別な技能を要する事で、希望者は多くはない。信心一点張りの質素簡約の生活をする道心者などは暁天の星である。其は智者学匠の誉れの報ひには、概して僧位僧官が下げらるる。、法橋、法眼、法印の位より、律師、僧都、僧正の官までもあり、其極位極官は、政府の従三位に準ずるので、朝廷の上でも中々に威張られる。無論、牛の車にも乗れる、輿にも乗れる、名山大寺の貫主になれる。現代の各宗限りの僧正位ですら中々に希望者は多い。各宗共に、此位に登り得た僧侶は、鬼の首でも取った様に満足してる。       

 況して俗官に為るに、門地門閥に妨げられて地下の者は徒らに高才逸足を歎ずる折節、無門地の野心家好名家が、僧界に入りて、僧位僧官を得て満足するのは自然の人情である。

 斯う云ふ所には、得て信心はない。信行学の次第が逆転して、学行信の必要となるが、信にまで到達する事は望みでない。学行である。それも行は少くて学が多い。倶舎・唯識、又は天台・真言の事相・教相、六年も八年も十二年も一生涯も学問に没頭する。果ては学問する事を翫ぶと云ふ語で現はしてある様になった。賞翫より玩弄に陥いり易い。其れに真面目な一心不乱な真剣な求道心がありやう筈は無い。

 大聖人が、

「智者学匠トナリテモ、地獄ニ堕チテハ何カセン」

と嘆かれたは、此世相の弱点を道破せられたのであるが、一般の仏教に、又僧侶の学級に信念を除却すると云ふ事は勿論無いのである。

 小乗仏教より大乗仏教に至るまで、如何に学階を立つるとも、其の初級は信である。其信心より出発はするけれども、深位に至るに従って信の名目が無くなると共に、信の精神までも忘却せんとするのが一般てあり、信を以て終始全うするのは甚だ少ない。然れども偶には発心者遁世者が出る。此は切なる精神の更求からである。決して華やかに、より善く生活しやうと云ふ娑婆気から出たものでない。真剣である大慙愧である。 

 但し、何れにして、生活は墨染の苔の衣一笠一杖であって、雲水に身を任すみ、石の枕も、霞の夜着も辞する所でない。間には竹の柱に萱の屋根もある。此中から念仏の声が聞ゆる、法然や親鸞の、官僧の山を下りて野の凡僧となった。善導の跡を忍び、教信の風を慕ふた、其中に信行学の次第は何うなってる。旨とする訳でも無からうが、唯信のみで、無行・無学の徒が多かった。けれども学行信の輩も少なからず。後世には、殊に此傾きが強くなって、何れも殆んど祖風に遠ざかる形を呈した様である。  

 此は後の事で、宗祖の御時代の発心者、遁世者、道心者は、大概同じ型であるが、中にも遁世風が多い。厭世出家の事であるから、有学も無学も、有行も無行も、有信も無信も、皆一同に自行にのみ勇んで、毛頭も化他の念が無い。柴の扉を堅く閉して無用の人を近づけぬと云ふ風であった。但し、法然、親鸞の徒は此の類でないが、宗祖は此等を一概に摂受行と斥はれたけれど、敢て発心者・道心者の総ての形まで嫌はれた訳でない。

 開山上人に至っては、僧も俗も同級に扱はれた形がある。其は童貞だ等と有難味を着けないで、発心するなれば同格であると云ふ、大に要領を得られた御処置であらう。

 但し、信行学の次第は、本題の如く、宗祖が特に御開山に指教せられたので、此の御精神が随処に顕はれてる。『二十六箇御遺誠』の中には、別して学と行とに付いて、細かい御法度が示された。

 三祖目上の御掟と称する中にも、学問と行体とを各々三種に次第してある。其は行体に付いては「思惟実相ヲ上トナシ、香華誦経ヲ中トナシ、採菓捨薪ヲ下トナス」とあり、学問に付いては「多聞兼学ヲ広トナシ、能宣妙義ヲ略トナシ、唯唱一句ヲ要トナス」とある。

 行体の中に、上位にある思惟実相は信に入るものであり、学問の中の要位にある唯唱一句は、寧ろ行に入るものであらうと思ふけれども、此を行に属し学に属せしめてある処に、先聖の用意深きを拝せねばならぬ。

 他山の先師、此文を解して「末代ハ唯唱一句、採菓捨薪相応ス」と云はれたが、尤も其態度が、一廉の学匠に似合はず、甚だ謙抑なる事の奥床敷いのである。若し、無信、無学、無行の僧が茲に「学問ハ唯唱一句デヨイ、一行体ハ採菓捨薪デヨイ」と主張して括然たる態度ならば、何人も其厚顔無恥に唾きするであらう。

 目有上人の信行学の御意見は、『百二十一箇条』を始め、諸聞書に見ゆる通り、殊に行体に綿密の御指南があったは、贅言を要せぬ。

 目寛上人の御一生、亦、信行学の生きたる標本と成られた形がある。

 然れども、時と所とに依り多少の昇沈は有るべきである。尤も信の主要なる事の動かぬは申すまでもないが、有師に行が多く説かれ、寛師に学が多く残るやの傾はある。蓋し表面の差降のみで、内部に変異は無いのであらうと思ふ。

 已上は、信行学と次第するについて一往の話しであるが、更に進んで、も少し委しく御話しをしやう。

 第一に、信ど云ふものは、面々が有ってる所の根本信が、何時となく、発動することがある。其は常には深く心底に潜在して、其う云ふものが有りそうにも見えぬ。又思ひもせぬが、自発的にも、他発的にも忽然に起ることがある。法界の真理と大慈との結晶たる妙法の本尊を無上に有り難しと信ずる。特に吾等に縁深きもので、親子の如く、君臣の如く、師弟の如きものであると信じ奉つる意が油然と涌いて出る。これが信心の始めである。

 爰に吾等の身心を此御本尊に打任する、帰依する、御願ひすることになる。此から更に推し拡げて、一人よりも一家一族にも及ぼし、一村一町一国一大世界にまでもと念願する様になる。

又、此の考では精神的、思想的の事ばかりでない。あらゆるの生活方面、即ち物質的の事までも、此に順応して行かうと云ふ事になり、色心怡楽の黄金世界を、此世に現出しやうとするのが、此信心の終点である。

  第二に、行と云ふものは、信ずる心が起ったとき、必然的に唱題の声が出づる。其題目の声は根本より有する真実信の発露でなくてはならぬ。一切のものの浄化せられた真実の声でなくてはならぬ。此の声が、行の第一歩である。此第一基点より次第に進行せしむる要が、即ち行の立場である。念々相続して不怠に強盛に一返より十返、十返より百千返と進まねばならぬ。

 此の真撃なる御題目の声もろともに本尊仏に仕へ奉っる。経を読み、香を焼き、華を摘むの副行も励まにやならぬ。吾も行ひ、人にも行はしめて、人の為に国の為にと、済世利民の万般の方術をも指導して行く様にせにゃならぬ。自行の為にする事、化他の為にする事、時と場合で数限りもない。其れを大事にかけて懈怠なしに励むとき、第一の信が増す。確固不抜になり、如何な障害にも屈せぬ金剛信が出来上るのである。

  第三の、学と云ふものは、長期間に過ぎ去りし、佛、菩薩、聖人、賢人の経験せられた事を一時に習学するのである。即ち古人の芳燭を、真似る事であるが、此の学の範囲が甚だ広いので、道理に関する事や、実行に関する事や、推論に関する事があるのに、此三方面が色々人に依りて、色々な風に説かれてあるから、端的の応用は迚も凡俗には六づかしいので、又其応用の方法を色々な風に立ててある。其れが六宗八宗十宗の宗々の学問の分岐である。其中から必要な材料だけを取りて行の肥料とする、資糧とする。    

  此指図が中々面倒だけれども、指南なしに此の複雑な一切経、諸宗の宗学に迷ひ始めたなら、八幡の八幡知らずで、一生涯此の迷路を出づる事が出来ぬ。其に又仏教だけの学問で事足りるものでない。各宗教の学問、各世間の道義上の善論は勿論の事、社界の秩序を破壊するやうな悪論僻論をも多少は知って置かにやならぬ。其の外の日進月歩の雑多の科学も心得べきものである。此の指南方針を誤るときは有害無益ぢや。けれども此等の本末軽重緩急の系統を立てて何れの学をも方便資糧に供する事を得ば、修行を助くるの利益は莫大なものとなる。

  此が信行学の再往の補説であるが、結局、信心を助くるの修行で、修行を助くるの学問と云ふ事になる。又、信心に率いらるる修行で、修行に伴なう学問と云ふ事にもなる。其処で信心に背く修行はしてならぬ。修行の邪魔になるやうな学問はしてならぬと云ふことになる。何れも信心本位で、第一の従卒が修行、第二の従卒が学問と云ふ工合である。

 この工合ひに隙きが出来て、緊密にゆかぬ時には信行学に破綻を生ずる。信行学が死んだり、萎縮れたりして、有効に活用せぬ。又、本位にある信が完全なものでない時、真実なものでない時は、其以上に弊害が生ずる、行学もメチャメチャになる。其程でもなくとも、精神なき形式のみの信心に引きづらるる行学の破綻は、随所に見らるる様に思ふ。例せば内的信仰も有せぬ者が、他に向って法を説くとき、信仰を強ふる時、其云ふ所は空疎なる概念を振り廻はすに過ぎぬ。仮令、御書を訓みきかせ、御筆記の有難き文を並べても、其場限りで、深く聞き手の心底に残らぬ。有難き文句を読み上ぐる時には、確に声をつるべくの受け題目が聞ゆる。其れ程感激したかと云ふに、其うでない。単に其云ふ習慣が着けられたばかりである。一座の妙談も血にも肉にも残ってないと云ふのが大分有るとの事ぢや。尤も細かに調べたら、説き手の無信仰で、口ばかりの空疎な概念にも依るだらうが、又聞き手に空耳を走らして声ばかりは他に連れられての空題目もあらう。

 けれども此信心が相当に体験ある真実信仰に悩んだ上に得られた希有の道心者・行体者が、自分の身心の苦労を投出しての上の血あり涙ある話しならば、仮令、有難き御経文や御書の文句の引き方は少くとも、大概な聞き手はその一言一訓が深く心の底に刻み着けられて、一日も一年も命のあらん限り忘却せぬと云ふ事にならうと思ふ。

 宗門の原始時代は、何れも信心ある者が御弟子となった。宗祖の所謂、

 「我門弟ハ順縁ナリ」

と云はれたのも爰にあるのぢやが、宗団を形造りてから後には全く順縁正信の徒のみを集めて始めて僧侶と為す事は出来にくい。東西も分らぬ小童を僧とする、能い塩梅に其れが過去に宗門に入りて仏種を熟した者であれば、此上も無き順縁正信の者であるが、必らず其と限らぬので、幾年と宗門の教育を受けながら一向に正信が得られぬ者がある。 

 中には正直に信仰の得られぬ告白をする人もある。けれども、有とも無とも云はないで、唯消極的に堂守をやってる人もある。間には強いて信心振りを衒らふ中に、斯うして信心振りを衒って居る内には偽から出た真で、後には本仏の慈光に温められて、知らず知らず正信を得ることが出来やうと云ふ善意の仁と、何するも生活ぢや、信心振って信徒を感泣せしめて、御供養を貧ぼり取るのが善い事ぢゃ、これは、仮令、其刹那の間でも信徒を満足さする功徳があり、御本山へのご奉公にもなり杜会への奉仕にもなる、又自分の懐中も満足する、自他円満の方術であると、イヤに悪度胸を据へてる者もある。     

  前者は止むを得ぬとしても、後者は甚だ悪しい事であって、自他を損害するもので、仏法を破り、宗門を損ふものは、多くこの中から出るのである。

 若し、其様に、始めより信仰を得られぬ者が多く、信行学の次第で如何に苦心しても、正信に至ることの難かしい時は、何して信仰を得べきやと云ふ事に苦心する。  

  無宿善の者は、逆縁となって誹謗正法の者となってから、最後に法華に摂入せらるると云ふ事をのみ待つべきであらうか。其は、致し方なき最後の自然の解決である。其処まで行かぬ中に、信行学の順序に何しても適合せぬ者は、此に一つ、逆例に学行信と出て見たらどうであらう。決して一般の傾向を逐ふ訳では無いが、幾分の補ひにならうと思ふ。

 一信二行三学の順序を、一学二行三信と遣り替へて何の益がある。学行信の一般的傾向から、折角、信行学と進んで来たものを、今更逆転させると云ふことは、宗開両祖の御慈訓に背く、逆路伽耶陀ではあるまいか。

 其処で、今、逆例に、仮に一部の僧俗に、学行信的の研究を勧めて見やうと云ふのみである。

 現代は、一般に、学行信と研究的にやらねばならぬと云ふのでは決してない。御互に空疎なる信念の持主が、此を補ふ為の変則を応用して見るのである。空疎な軟弱な稀薄な信仰の持主は、大事に大事に深山幽谷に封じ込めて置くと腐敗することもない。

 芋堀坊主としてをけば何やら無難に過ごされるが、一度杜会の都会の複雑な面倒な荒風に当つると、早速正体もなく軟化する、堕落する、腐敗する。

 暫らく宗史を眺めて、日蓮各教団の化儀化法の変化(進展又は堕落)を見られよ。山中殊に田舎に封ぜられた富士門徒が第一に純潔を持ち、同じく身延、中山が第二に純潔であった。京都に乗り出した妙顕寺が第一に不純になつた。富士門の中でも、京都に出た為に、要法寺が不純になったではないか。

 此等は、相承の源泉の清濁にばかり依るものではない。信行学の何れかが他の多数に対抗するに足らぬ低級にあるからである。触向対面あらゆるの環境を感化する底の熱と智とが乏しいからである。

 先年の統合問題、両三年の経緯で、表面は杜会への進展の積りでも、内面には軟化俗化の僧俗が出来はせぬかと危ぶまる。昨年の大師号問題でも同然である。果して幾分歎の弊害を残したとすれば、為宗為山大に寒心せざるべからざる事である。

 けれども徒に時勢に逆行してさざえの如く籠もり亀の如く縮まって、徒に影弁慶をきめて居たら、八方より夜郎自大の罵声をあびせかけられで、自滅を祝せらるるであらう。 

 此時如何がすべきや。空疎なる信仰が法難に激して、俄に充実した正信に進むことあるとも、学行は一足飛びに進捗すべきでない。唯信無行無学では、対他折衝の間に合ひそうにない。推服せらるべき人格と尊重せらるべき学識とが、斯ふ云ふとき大に働らくのではなかろうか。此は専ら行と学との反映である。若し、此の人格と学識とが乏しくて、徒らに獅子吼し、妄りに周旋せば、弥よ夜郎自大の醜名を受くみであらう。 

 宗祖大聖人が一切経を読み八宗の章疏を置きと云はれたのも、開山上人が台学を勧められたのも、目師が老年を以て講学に力められたのも、永師が一切経蔵を建てられたのも、皆、此学間を忽せにしてならぬ御心中からである。 

然るに、痛ましい事には、今の宗門には、僧俗一般に、此観念が乏しいやうである事をのみ自分は見聞する。自分の見聞が宗門の一少部分であって、宗門の全体でない事ならば幸であるが、若し此が事実だとすると、正に是れ宗門の一大危機と絶叫せざるを得ぬ事になる。

 自分が明治二十六年から三十二年まで学林に奉仕して居たが、其間に参観又は慰問に来た人が漸く二、三人に過ぎぬ。激励的の一挨を残して行った人は一人も無い。何と云ふ寂しさであったらう。

 宗門の人の多くは学林や学事を対他上の看板に、即ち一種の装飾品に位しか思って居ぬやうである。そうして僧侶を見ると、誰れでも一角の学者であるべきやうに思うて、此を裏切る無学無識の坊主を見ては冷笑をしてをる。青年僧を見ては、直に教学の棟梁に使はうとする。「卵を見て時夜を欲する」とて荘子が笑ったが、恰かも其れだ。鶏卵が其侭時を作るものでない事を考へてもらいたい。

 永師の建てた一切経蔵が大破に及んでる。此を修理すると云ふ志の人も亦是非保存したいと云ふ人の話も聞き飽きる程ぢやが、此中にあった一切経は何処にどうして御座らうぞと云ふ話ば聞いた事がない。情ない低脳な事ではあるまいか。僅かの黄檗版の一切経を納るる為に、出納に不便極まる六間四面の大廈を維持するよりも、其費用で各種の一切経を買ったり便利な場所に焼けない書室を拵へたが好からうが、其云ふ実際的の事より、経蔵と云ふ観せ物を出したいのであらう。像法の多造塔寺堅固時代への逆転、伽藍仏教の余習は何年迄眼が覚めぬのであらう。

 其れでも僧俗打ち揃うて悪しき時代を超越した生きた善き信仰の火が燃えて居て、如何なる醜悪の辛辣の形式文明でも燃焼し尽そうとする真純の気概があるなら安心ぢやが、浮くも沈むも浮き世の成行に任せて、否々ながら引づられて日を送るやうでは致し方はあるまい。  

 若し、宗門の状態が其様であったなら、何でも彼でも学問を以って却って行信を生かす方策を立てずばなるまい。此に方策が定まったら、一学二行三信として、宗門のあらゆるの勢力を学事に集注する。布教も維持も何事の経営も学事あっての助業とする。否でも応でも第一に学識ある青年を仕上げて大導師にする。第二に品質方正行持綿密の大徳を作る。第三に純信清浄の行者を集むる。無論、何れも不借身命的である。

 其して此等の聖業が挙宗一致で永久に実行を期する。其結果は、小生等の如きが所化沙弥の班列でよい 荒木 加藤、由井氏等の総・大講頭の上首が悉く平講頭か平信者の列になるやうに、宗門の向上を計らねば、広宣流布は他門の功に持って行かれてしまふ。

 恰もかも、立正大師が本多顕本管長の労力に帰して、其勅宣が又身延に納ったやうなことが再現するであらう。其んな事が実現するのは、他門の悪練でなくて、却って自門の怠慢と悲まねばならぬ事と思ふ。

 但し、繰り返して云ふてをく。此は本宗の常恒の規範でない。一時代一部分に重要適切なる臨時臨機の大方策である。故に純正に信行学の規範が紊れぬ人と時と処とあるならば、其は其は結構至極の事であると云はねばならぬ。    

猶、信行学の前後に就いて、推下、推上、演繹、帰納、信順、研究の事、及び両者相須つの利と相離るるの害との理論、実歴等を述ぶる腹案であったが、余り長くなるから他目に譲る事にしました。  

                                 『大日蓮』大正12年5月号

   

  戻る