聖訓一百題(第15)


                     堀 慈琳謹講


王地ニ生タレバ身ヲバ随へラレタテマツルヤウナリトモ、心ヲバ随へラレタテマツルべカラズ。    (縮遺1241頁、『撰時抄』)

 

 此御文は宗祖日蓮大聖人が国家を念ふことの切なるより、時の政府の執政者達に向って放ち給ふ強言の一つである。即ち忠言の高名の第三で、文永光如11年4月8日に時の執政者たる平左衛門尉頼綱に向って警告の御詞である。

 一口に云へば、日本国に生れて日本国の臣民たる以上は、如何なる場合にも其政府の命令に従ふのが臣民の義務であるけれども、其は此の肉身の事のみである。精神は日本の外世界の在らん限りにも通用するものである。強いて日本政府の制令に従はねば成らぬと云ふ事はない。己れの正義と信ずる所が国法に伴なはねば、再三再四諌暁すべきであると云はれた様に聞ゆる。

 此は丁寧に玩味し反覆に研究してから深く心腑に領納すべき御文で、躁浮軽薄に上ツ調子に、且又、赤化過激に云為すべき所では決してない。熱烈なる忠臣愛国の上に止むを得ず迸しりたる激語である。忠烈の血、愛国の涙に催うされた大慈大悲の折伏である事を味読せねばならぬ。


 『下山抄』に、

「返ヘス返ヘスモ愚意ニ存ジ侯ハ、此程ノ国ノ大事ヲバ如何ニ御尋モ無クシテ、両度ノ御勘気ニハ行ハレルヤラント聞食シホドカセ給ハヌ人々ノ、或ハ道理トモ、或ハ僻事トモ仰アルベキ事トハ覚へ侯ハズ。
又、此身ニ阿弥陀経ヲ読ミ侯ハヌモ併シナガラ御為、又父母ノ為メニテ侯。只理不尽ニ読ムべキ由ヲ仰セヲ蒙り侯ハゞ、其時重ネテ申スベク侯。如何ニモ聞食サズシテ、ウシロノ推義ヲ為サン人々ノ仰セヲバ、仮令身ハ随フ様ニ侯ドモ心ハ一向ニ用ヒマイラセ侯マジ」 (1589頁)

とあるのは、開山興師の弟子下山因幡房日永が、父の下山兵庫五郎の意に背きて、阿弥陀経の読誦を止めて法華経を始めたるを、大いに其父より不審せられたに付きて、宗祖が日永に代りて弁解の状を書きて与へられたもので、即ち父に対しての諌言である。

 「縦ヒ身ハ随フ様ニ侯へドモ心ハ一向ニ用ヒマイラセ候マジ」とあるのは、法華経を読むべき道理を能くも聞かずして、無理圧制に阿弥陀経を読めと云ふ無法な申付をする人の仰せは、心中では決して用いませんと抗議するのである。

 前の平頼綱への警告は主に対してである。此日永のは親に対してである。臣として君を諌め、子として親に争うて、其非行を止めしめんとする臣子の義分を尽くすのである。
 如何様にも惟命惟従うて君父の悪行を助長する様になるのは、表面一辺は柔順なる忠臣孝子の様であるけれども、却って乱臣賊子に陥いるのである。


 世間一端の、即ち現在の一面にのみ道義の責務を持つに過ぎぬ忠臣孝子の心組みすら斯くの如くなるべきである。況んや過現未の三世に亘りて永遠に道義の責任を負ふ仏教の僧俗に於ては尚更の事である。

 一時を禰縫し、一日を苛婾して、何なる悪世にも逆らはず、如何なる非行にも瞑目して、意に泣き乍ら表面の平和の為に柔順猫の如き行為で、君に阿ねり世に諂うて安逸に身過ぎ世過ぎする輩が、果して善き僧侶であらうか、良き信士であらうか。大いに考察を煩はすべきである。国士にすら超世の気慨を要す。宗教家に脱俗の大気慨なかるべからず。如何に宗祖が四悉檀の応用を許るされたにしろ、一にも世界悉檀、二にも為人悉檀と止まりて、歓喜と生善の美菓をのみ意懸くるは、世界・為人の乱用であり、向下の堕落である。

 さりとて漫に己が立脚の地盤を忘れて、非日本人的の虚無道は国家を毒するのである。印度では沙門出家が帝王の上に立った。支那でも晋から唐にかけて、沙門僧侶は王者を敬まはず父母を礼拝せずと云ふ議論が盛んであった。日本でも陛下の命を退けて自ら高うせる聖僧が昔は多かった。けれども我国での僧侶は、印度や支那の様に方外の民、自由の人として扱はれた事はない。大宝の令巳来忠直に保護を受けたが制裁も受け、全くの編戸民であつた。

 聖徳太子の仏教も国家が主である。聖武天皇の国分寺制度に至っては殆んど政教一致に指を染められたが、完全に永続しなかったは残念の次第である。伝教大師の仏教も亦国家本位である。鎌倉の新仏教は、時代の要求に依りてか国家の色彩が薄くなったのがある。其を宗祖が憤慨して聖徳皇の昔に還し聖武天皇の皇義を復活し、伝教大師の精神を継がうと為られた。否其れは外相の事、内的には法華経と題目とにからむ本地久遠劫よりの深緑なる御使命である。最つと信を起して見れば、久遠三徳の御義務である。故に3回も政府の威厳を冒して邪法を退治し正法を立てられるべく諌言せられたのである。刀杖恐るゝものでない、鼎鑊する所でない。

 国家の臣僧として見れば、即ち当然の義務である。法界を包領する如来としては必然の大慈悲である。

 苛しくも此見地を離れての空言横議は国家の存立を危くする乱臣賊子の所為である。さほどまで無くとも不敬の至りである、不慎の極みである。けれども熱情は時に当りて不敬をも不慎をも顧慮するの余裕なき事がある。種々の環境がつい然か為しむる次第に陥いる事がある。此を予防するには、常に周到の用意と盤石の忠信との必要がある。

 今回の宗祖大聖人に立正大師の追謚があったに付いて、是非の紛争が単称日蓮宗内に発生してる。此が是論非論何れに治まりが着くにしても、有耶無耶に消滅するにしても、怪我人が出来るにしても、出来ぬにしても、他宗から無関係者から見たら、殊に皇室至上至尊の精神から見たら、何と云ふ醜体であらう。日蓮宗の国家主義なるものは偏日蓮の国家主義ではあるまいか。御希望でもない大師号を無理に被ぶらせたので日蓮聖人の真価値は半減したと云ふ硬論者の筆法に准せば、折角下賜せられた聖上陛下の御座します帝都の下で、遠慮会釈もなく大きな声で公けな筆で是非の紛争は何事ぞ。此では日蓮徒の忠臣愛国ぶりも、其価値が半減したのでは無いかと云はれたら如何する。宣下奏請の必要論者と、奏請に依るから半減したと云ふ論者も宗祖の真意には合はぬが、弘教の為には世界悉檀の大益を得たものであるとの随他意弁護論者も、奏請の魂膽を明かしたり、大師号宣下を振り廻したりして皇室を布教宣伝の器械に使ふのは、宗祖巳来の孤忠を蹂躙する大々不敬漢である。此等の主任者は潔ぎよく辞職して大懴悔を為すべきであると云ふ論者も、其議論には其々の道理を有つが、時に当つて香ばしくない事である。彼も一時此もー時、秋風落莫早く木枯らしの風に任せて、此等春蘭秋菊の時論を一掃して、平和の春光を迎ふるが善からう。

 但し宗祖の御本意の在る所は、如何なる仁も、仮にも日蓮宗徒と名乗る以上は御存知ない事は無い筈である。只、其宣伝に急なるより応用に忙しきより、つい如何がはしい事になる。愛染堂の別当として一千町の領地を退けたと云ふのは万八のやうだが、西御門東郷入道の邸祉に坊造りて尊敬しやうといふ執権時宗の内意を退けて断然籠山に決せられたのは事実である。けれども此は三皇帝を蒙塵せしめた逆賊北条義時の末の政府の偽敬であるから退けられたのだと云はんは、道理の通ぜぬものである。不受不施騒ぎ巳来、何辺も担がるゝ御金文ではあるが、尽未来際までの活教訓と拝し奉るべきものであるから、此御文を如上の結要として掲げ奉って、首尾互拝して御互に不時の用意にしやうではありませぬか。

「不染世間法、如蓮華在水、従地而涌出事仰ニ云ク世間法トハ全ク食欲等ニ染セラレズ、譬へバ蓮華ノ水中ヨリ生ズレドモ、淤泥ニ染マザルガ如シ。此蓮華卜云フハ地涌ノ菩薩ニ譬ヘタリ。地トハ法性ノ大地ナリ。所詮法華経ノ行者ハ蓮華ノ泥水ニ染マザルガ如シ。但唯以一大事ノ南無妙法蓮華経ヲ弘通スルヲ本トセリ。国王大臣ヨリ所領ヲ給ハリ官位ヲ給フトモ、夫ニハ染セラレズ、謗法ノ供養ヲ受ケザルヲ以テ不染世間法トハ云フナリ。」『日向記』


                        『大日蓮』大正11年12月号

 

 

戻る