聖訓一百題(第14)

堀 慈琳 謹講

 

 釈尊の『法華経』、宗祖の御書及び開山の御書物の中から、吾等信行の金言と成るべきの短句一百題を求めて、随感的に講演の筆を執らうと思ひますが、決して他人を教へんとの考では万ありません。自己の感想を披陳して大方の叱正を仰ぎて自行の資となす為であります。   

 此は曽つて『自然鳴』誌上に「法話」として、御書九題、御経二題、開山二題、目師一題を取りて御話した事がありましたが、概ね其轍を追ふのであります。尤も筆致は其よりも成るべく平易にと思ひます。

 又、其折は信乗坊の変名を用ひましこが、頃日聊か感ずる所あって、大概の場合には堀慈琳と云ふ戸籍上の名称を用ゐやうと思ふ。      

 私共は僧侶として宗門の慣例の上から、所化名、坊号、阿闍梨号、院号、日号と夫々一つ宛、即ち五箇の名前を持つべき事になる。此より外に操触者としては時流に習うて雅号変名を用ひる。始めて(明治23年)『布教会報』に筆を執る時、何か雅号が無ければとて法兄の慧妙院師が是非にと云ふので、二人で各種の辞書を引き繰り返して、彼でも無い此でも無いと半日を費して漸っと拵へたのが、水鑑の号であるが、自分も折角発心して求道の身と成ったからには雪山童子に肖似りたいものであるから、此の聖き御名を借用した事も在った。

 教師に昇進して坊号等を立つる時、別号は成るべく少きが善いと思うて、雪山を雪仙と濁して坊号に、水鑑は其侭阿閣梨号に用ひて頂きましたが、通例は経文・生所等から名を立るので、共に比ぶると一寸風変りの物が出来たで、間違ひが無くて善いと思ふた。

 能化昇進の時にも法主から院号を望めとの事であったのを、無用であると御辞退したけれど、慣例だと云はるるので、自分の平常は無人情に冷静に傾むき勝の矯正策として其が銘となるべき名を考へて、勿体ない事ぢゃが恵日と云ふ院号を頂戴したが、後に考ふれば考ふる程恐れ入る名であるから、引込めて殆んど使用はない。

 目今の住食地は浄蓮坊と云ふ結構な名である。不染世間法(浄)如蓮華在水(蓮)の嘉称に肖似るべく一生の宿と定めた訳では無い。自分の業務に都合の善い閑地であるから、此に住職したのであるが、格別の職も無い坊ぢゃから住食すると云ふのが至当であらう。兎も角、此では浄蓮坊さんと呼ぶ人が多い。 

此等似外に寂莫道人、雪廼舎主人だの、又は遊生子、伴鹿生だのと一時の戯号を、或は物故せる他師の名を借りたりして、却って友人に其名を誤まられた事もあった。

 此に基いた訳では無いが、沢山に勝手に名を付けて置くと、健忘性の私は自分の使った名を忘れてしまふ事があるので、余り無責任になっては仏様には無論の事、世間様にも相済まぬ事あるから、此からは借号、戯号、雅号、坊号、阿号、院号を殆んど一切中止して、目本国民として戸籍上に記るされたる公の氏名、即ち堀慈琳で何も彼も済まさうと云ふ事を、茲に改めて申上げてをきます

 

日蓮ハ少キヨリ今生ソ祈リナシ。只、仏ニナラント思フバカリナリ。サレトモ殿ノ御事ヲハ間ナク法華経・釈迦仏・日天ニ申スナリ。其故ハ、法華ノ命ヲ継ク人ナレバト思フナリ。

                                          (縮遺1634頁、『四条金吾書』)

 此御文は、曽て『自然鳴』第2巻6号に「法話」したのであるが、余りに意義の深い御書で、其時には、ほんの表面一通の事を申上げた計りで、自分でも何だか物足らぬ事に思ふて居りました。此れから更に此百題に掛らうとする真先に、此れが補充として申し上ぐる事に致します。

 先づ「祈」と云ふ文字に就いて云ふなら、祈祷なんどと云ふ語は原始仏教にはないが、此は誓とか願とか云ふ事に当る。又は念とか持とか云ふ事にも当る。

 祈とか祷とか禳とか云ふ文字は、支那の古代に天地に対して要望した精神と型式の上の文字で、此を日本に移すに付いては、支那の古風を新入の支那の仏教に移し、又は道教に用ひたものを、日本の古風に結び着たのである。

 祈は我国の言語では、イノルと云ふときは四段活用の動詞の一で、イノリと云ひ据ゆる時は名詞となるが、言語の分析は、斉ミ宣ルと云ふの約かと云ふてある。斉みは物忌みで、我国の 古風は潔ぎをする、河水に浴して身体を浄むる等の事で、先づ身体を清浄にして、神々に願ひの事を申上げる。此の申上ぐる詞が即ち宣ルと古語に云ふので、此が祝詞である。

 此祝詞の中に、中臣の祓は、政祭一致時代の中臣家の職事として、罪穢を解除せられん事を神々に申上ぐる祓の詞である。自己の為したる罪穢と、悪神の為せる禍等をば、神に祈りて解除してもらふのである。此原始時代の思想は、何れの国の原始時代も殆んど共通である。印度の毘陀時代でも神に酒等を献じて祈る事があり、支那の三代時代に泰山に封し梁父に禅ずとて泰山に土を築いては天を祭り、梁父に地を削りては地を祀る等がある。此等は禍を禳ひ、福を求むる手段である。即ち祈りである。祈る人の意向は変りはなくとも、より杜会の為にも個人の為にも、禍を解除して福を得んとするのであるが、其作法は様々に変化してをる。

 宗祖の御時代の頃の祈祷は、奈良朝から平安朝にかけて、支那から輸入した支那民族の祈祷呪禁の方法が道教などで一般に用ひられたものが、日本の陰陽道等に用ゆる所となったもの、即ち臨兵闘者の九字の様なものは一般に用ゆる所で、道教から出でゐるが、九字を切るのは、初に臨兵闘者と唱へて横に四線を切り、次に皆陣列在前と唱へて縦に五個の線を切ることが、殆んど一般的になって居たから、御書にすら引用なされてある。世界悉壇の一途で止むを得ぬとするも、宣伝すべきものでない。 

 天台・真言の事相の密修には、盛んに印度の外道の作法も、支那の道教の作法も、日本在来の作法も、掃溜同然に入り来って儀式としてをる。

 宗祖已後の他門の中には、此等以上に種々な祈祷法を採用してをる。皆、現世の転禍成福の祈祷の作法であるが、宗祖の

「日蓮ハ少キヨリ今生ノ祈ナシ」

と云はる御文を深く味って、此等の雑猥の方法を退ぞくべきである。

 浄土門家すら此等を雑修と嫌って捨閉閣抛してる、即ち厳禁してる位である。此は彼の門家に祈りがない訳ではあるまい。祈の精神も型式も、天台・真言両部習合一般に不純に成ってるから、禁ずるのは至当のことである。      

 宗祖は四悉檀の運用を巧みに為さるとしても、余り雑濫の型式は厳禁せられた筈である。況んや爾後六百有余年を経過してをる。年々月々に不純な型式と精神とを洗練して行かにやならぬ。況して宗祖の正義を主張して他門の雑乱を指斥する吾門にては尚更の事である。精神も型式も彼等の模範となるべく緊張粛整せにゃならぬ。      

 故に祈祷の意持は、誓、願、念、持にあるべきである。誓ふこと、願ふこと、持つことが、南無妙法蓮華経に集注すべきである。一時一事の小願に屈托してはならぬ。王仏冥合の大願に集まるべきである。火の熾んに起るやうに、一時的の願ひではならぬ、常住の憶念を必要とする。孔子すら丘が祷ること久しと云はれてをる。思ひの深く長い休すまないのが、念である。執念深いと云ふ所の不純なものを、濯ぎ上げたものである。「思ひ出すやうぢゃ惚れやうが薄い、思ひ出さずに忘れずに」と俗謡にもある。此の辺から云へば祈念と云ふ文字は有難ものであるが、此祈念にピツタリ合ふやうな意持に成れないで、常に雑念起滅して発作的の祈のみ上げながら、口ばかり祈祷は為ない祈念は為ます等は徹底せぬ。祈禳も祈願も祈祷も祈誓も、文義は少々づつ異っても、意は念の義に成らねばならぬ。又此の祈念が、回向の義と吻合せにゃならぬ。

 回向と云へば、大概は死んだ人達の為に御経をあげたり御題目を唱へたりする事と思ってる。此も一つは過去帳と云ふ物からも自然に然か思はするのであらう。回向は、過去にも、現在にも、未来にも通ずべきである。自分の善分・功徳分を、自分の身心に積み蓄へて自分の物としないで、法界に貯蓄して杜会の用に供するが回向である。御題目の功用は其所にある。吾々宗徒の考へも其所でなくてはならぬ。

 此辺から、自分は、現在一般の使用してる過去帳が、意義に於て乏しき所がありやしないかと思ふ。故に所載の霊名を選択して、吾々の精神的方面にも物質的方面にも、必らず知るべき者の各方面を網羅したい。各宗教家、哲学者、政治家、教育家、工業家、商業家、文芸家等は申すまでもない。各国の有名な元首をも、漏らすまいと思ふ。

 但し、此では過ぎ去った人々で、単に旧過去帳の精練せられたに過ぎぬから、最一つ、現在欄を設けて、自分の知己は申すまでもなく、知らずとも国家の存在に大関係ある偉人たちを記入して、其の祝福もするやうに、祈念同向を完全にする方法に供するの一具として過去現在帳を製したいと思って居る。(十四題了り)

                        『大日蓮』大正11年11月

 

 

戻る