不用話



                       寂莫道人


魚モ鳥モ病ノ者ニハ給ビ候テ、命活ケテ仏法弘メ給ヘシ。 (興師ヨリ了性坊ニ給ハル御状ノ端書)


 東洋流の道徳は何れも多少禁慾の色彩を帯びてをる。食色の道に人間の大慾存すと云ひながら、女色を漁せず庖厨を遠くるを以て、君子人の能事を為すことである。況して仏教に於ては釈尊の宗規よりも滅後の仏法が却て規律厳格である。但し其の実行は反比例で、寛容なる制戒の下には清浄の行学が自然に行はれて、厳格なる宗規の下には却て不浄の犯則者が出来る。性に反し俗に背くことは中々行はれにくいものと見ゆる。其を強いて賀するが為に俗政府の力を借る。俗権者の国家が自ら外護相承を重んじて信敬の上に御面倒を見てくださるのなら、相互に珍重敬意を表すべきぢやが、彼も亦曽て国民の風教に大効があったから、まあまあ当分保護をしてをけとの捨てなさけぢや敬意も恐縮すると云って、影弁慶をこしらへてる分はまた無罪の方ぢやが、僧侶も信徒も何か為にする考へて以て、自分だは有利な宗教法案が出来上れぱよいと思ふてをるは、ちと勝手すぎる。

 をっと少々脱線のやうぢゃ。茲で元の東洋流に還って見ると、君子たるものは、僧侶たるものは、衣食住の事なんどを口にすべきでない。別して食物の事なんどを云為するは不見識の甚しきものぢゃ。某の君子は悪衣悪食を恥ぢず、某の上人は食餌に鼠矢をかけられたと御出なさる。放逸者流の刺激には其んな事も結構ぢゃらうが、平等一汎に此を以て律するは酷であらう。 

 そこで東洋流を失敬して少々卑陋ながら食物の事を云って見やう。

 其の動機は、此の『自然鳴』の四・五月の六号欄に、柳蛙といふ人が、「精進と肉食」と題して俗見を破するものをものせられた。筋合は敬服の至りぢゃが、少々不徹底の所もありやしないかと思ふ。いや、かういう具体的の問題になると存外白人ぱかりである。常は滔々と高妙の教理を談ずる古参の人達も得て其傾きがあると高慢な言を云っ了る寂莫も、なほ其撰に洩れずかもしれぬ。

 宗門食飲の事は、曽て雪仙房さんが講習会で一期の間、山鳥の尾の長々しき日盛りに、講習生を悩まされたと云ふことであるが、少数の人であったから一般には知れてをらぬだらうと思って、先づ話題に標出の御開山の御文を引き奉った。此文とても御存知の御方は少からうで、御紹介の必要もあらう。御開山上人の深大なる御慈悲を伺ひ奉つる事も出来るのであらう。

 さて此の御状は、御開山上人より了性坊大学日乗に給はったので、其子細は了性坊といふは目師の在所なる奥州新田の人て、出家以前に一人の子息ありしが、其れも後に出家して民部公日盛といった。父の日乗も子の日盛も上野の塔中・蓮仙坊(今の了性坊のこと)に住して、目師東下の時は御留守居をなさるゝほど、御開山にも目師にも信用の篤き御方であった。

 此御状の時代には、民部阿闍梨目盛は鎌倉に遊学し、大学日乗も亦鎌倉大町辺に草庵を結んで居られた、其の時分てある。其民部公は、父が中々文字のあった人だけに、子も大に将来を期せられてあった。御開山も目師も軽からず目をかけて、将来の法将にとの御希望てあったらしい。其に不幸にも散々の長病をされた時に、富士でも上総房が病気をした。其等が此状の起りである。御本文には

民部殿ノ事、其後覚ツカナク思奉り候。カズサ房アマリロヲヤミ候間、イカ(烏賊力)ヲマズマイラセテ候

等とある。

 此本文の前に追て書をしたのが、即ち標出の御文である。魚でも鳥でも病気して食ひたいと思ひ食はせたいと思ふたら、遠慮なしに与へて病体を健康に復し生命を取り止めて、そうして、其の活発の生命で仏法を弘むべきであるとの御意である。(以下次号)

『自然鳴』大正三年八月号



不用話 (前号の続き)

 戒律者流の某上人の如き明治の頃日に於てすら薬用にも酒味は破戒でござると斥ぞけ、スップ(肉汁)は犯則であると嫌ふたのとは大なる相違である。肉食といふことは、さほど重大な事ではない。宗祖の御書にも、禁肉の事が明かには見えぬ。宗門の大事はと云ふと、為してならぬ事は誹謗正法だ。必ず第一に為すべきことは死身弘法だ。其余は、此の枝葉に過ぎぬ。此辺の所は柳蛙さんの説は大に要領を得ている。又、此を寛容し給ふ宗祖・開山の御慈悲が伺はれる。

 さり乍ら、自分は此に怪冴に堪へぬは、仏世には、雨期の安居中は檀越の送る食物を一般の仏弟子は用らるゝ。熱寒の二期は托鉢乞食である。僅少の場合を除くの外は、飲食皆信徒の製したものを食べてをらるゝ仏及び弟子方が、何とて肉は食はんの魚は食はんと云はれやうぞ。

 そこで謹んで大部の律文を伺ふに、肉を乞食してたべる事は、明に公開せられてある。後々には多少の縁由で食肉を禁ぜられてあるが、其れも全分ではない部分的である。況や不見不聞不疑の三浄肉と云ふことすらある。まして況んや肉といふは、主として獣肉を指したもので、鳥肉や貝肉や魚肉やは肉と云ふものでない。勿論、部分禁の中には、一つも魚貝鳥等が入ってをらぬ。釈尊の晩年に、提婆達多が釈尊に拮抗したる時の中の五法と云ふ中には、断肉と云ふことがある。提婆は内徳では迚ても叶はぬと見て取り、万事外相で厳格に威どかした。釈迦は自らも肉を喰ひ弟子にも食はす不浄の徒である。己れは決して少肉も口に入れぬ清浄の者ぢゃと威張ったけれども、寸効もなかった。

 今でもそうぢゃ、肉食魚食するものは腥坊主ぢゃといふやうな単純な論法ぱかりで、仏弟子を攻撃するものあらぱ、却て釈尊の徒にあらずして、外道の提婆の徒ぢゃとも云へる。

 然らぱ律文明白なる食肉を、何の理由ありて仏滅後、論の師人師、支那・日本の諸宗の開山(親鸞を除く)は禁肉せられたか、又、禁肉すべく門弟に教へられしか、と云ふ事になれぱ、中々の大問題である。此の序には述べきれぬ。更に他日を期する。

 さり乍ら、要は慈悲の義を極現せしもの、他教に対抗するの手段とせしものが遂に自縄自縛して、却て他の機嫌を伺はざるべからざる陋態に陥りたりというべきか。

 さり乍ら、茲に大に留意すべき事は、嗜好貪著を払ふべき事である。疏菜等ですら淫りに好悪を云ふべきでない。豆腐がなくちゃ飯はたべぬの、汁は椎茸に限るの、味の素が一等ぢゃのと貪著するは罪悪である。況んや牛肉でなくっちゃいかぬ、其もロースに限る。鯛がよい、何処の鯛の外は食へぬ。鮑がよい、水貝が結構ぢゃと貪著することは、けしからぬことぢゃ。嗜好は肉菜共に不可である。仮令、末法無戒といふとも、此位の事は仏教僧侶の心得べき冥利であらうと思ふ。又、精進物は身体を養ふに足らぬ、滋養分が少い、養生には肉食に限ると云ふ理屈も甚だ得手勝手である。菜食と肉食との適否は衛生上中々の大議論である。科学に殊に医学や薬物衛生学上の智識の最も乏しい坊さんが云為するはチャンチャラをかしい、と其の専門の御仁が笑ふであらう。

 昔しの人は、魚肉を斥け疏菜を食し淫欲を斥けて仏道に精進した。精進はハゲミスゝムのである。潔斎即精進なのが、後には本義の仏道の精進は少しもしないて、、型ぱかりの斎戒の中、魚肉を喰はぬ位を精進と思へるは大なる誤りぢゃ。此と同時に、肉食せねぱ精進奮励はできぬと思ふも大なる誤りぢや。菜食して精進し得る人は其意に任せよ。肉食せねぱ精進ができぬ人も仕方がない。淫欲を斥けて精進し得る人は潔白である。妻孥に慰められねぱ夜のあけぬ人も仕方があるまい。要は無貪著にある。肉妻に着せずして信仰に生きるべきてある。弘法の為には死して悔なく憾みなきのてある。然らざれぱ僧分は無論、在俗の方も、宗祖・開山の御慈光に洩るゝであらうと思ふ。

 斯う煎じつめてくると、世間に大流行の快楽主義・享楽主義には少々御気毒の様にも見へ、禁欲的の東洋風に逆戻りぢゃないかと思はるゝ。併し、東洋にも西洋にも社会の上層に立ちて、時代の倫溺頽廃を救済せんの考へあるものは、社界政策家に宗教家に論なく、克己、勤倹、忍耐を美徳とせぬものはあるまい。唯其時代に応ずる程度問題のみであらう。されぱ此には時代不相応の禁欲は無益であるぱかりでない、有害である。二百五十戒や十重禁戒や四十八軽戒が、已に700年の昔し無益であったは云ふまでもない。

 日蓮大聖の流れを酌むものは先刻御承知であるけれども、徳川300年の干渉に拵らへあげられた一種異様の僧界の戒法は、今の社界一般に浸潤して老人方が僧風を品秩するの規模となりてをる。あれは魚肉を食ふたからナマグサ坊主だの、あれは女人に接したから破戒和尚だのと仰しやる。禁欲斎戒を標榜する宗門の坊さんなら身から出た錆で仕方がないが、600余年の昔に末法無戒を標榜した日蓮僧には迷惑千万ぢや。いや此は日蓮僧が徳川の俗権に押し付られて聖僧顔になりて、肉食妻帯の真宗僧なんどをいぢめた報ひかも知れんが、現時のものにはとんだ迷惑なわけぢや。但し聖僧顔をして、をまけに下根下機を標すべき小五条が却て大五条へ逆戻り、短狭の素絹が却てビーラビラの大衣となる割合には、内徳は散々で鼻持もならぬと社界の嗤笑の的となるものもありとか。此等は看板が悪いのぢや、禁欲聖僧の看板を掲げてをるからぢや。

 俗界でもそうぢや、何彼の機会に僥倖に好地位を得る。位官富貴此上もない。惜しいかな徳行此に相応せぬ、常に新聞紙の三面種となる。此等を不良老年といふとかや。不良老年の家庭には不良中年を生ずる、不良少年は無論の事である。此を熊公八公の社界に置けぱ決して目立つものでないに、惜いかな地位の為である、強いて拵へたる看板の為である。

 宗教界もまた此に似たる事なしと云ふべけんやだ。何も彼も内外不相応の看板をかけてをるからぢや。早く禁欲不自然の看板を下して、旧るき爺さん婆さんの誤解をとき、更に新しき人たちをも謬まらせぬ事にしたらどうぢゃろかと思ふ。

 但し、此は或は唐人の子ゴトで、何事もちやんと胸三寸に意得きってをる現代の人々には不用話であるかもしれぬ。(完)


                              『自然鳴』大正三年九月号

 

 

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