法 話(第9話)

                                                      信乗坊

日蓮ハ少キヨリ今生ノ祈リナシ

 

とは、宗祖の『四条金吾殿御返事』中の御文である(縮遺1634頁)

 時の執権、北条家の一族たる江馬殿の家臣四条左衛門尉頼基は、三位公が桑谷の妖僧龍象房を、其の説法の場に論詰したる喧争の罪に坐して、主人より御勘気を蒙むられたる、其の間の処置につきて、懇ろに御教訓なされし数々の御消息の其の一である。『頼基陳状』の如きも、其の用意に兼て書き与へられて、いざと云ふ場合に差し上ぐるやうにしてをかれたのである。

 宗祖大聖人の弟子檀那に給はりし御教誠の御消息は、其人々の性分と其の時、其の処、其の場合、其の事柄にしっくりと適合して、寸分のはずれがない。大事は大事につけ、細事は細事につけて、恐れ入ったる事である。

畢寛、仏眼仏智の所作、御本仏の大慈心にあらざれば不可能の御事である。別して四条殿に対して、一層御慈悲の発露する事を覚ゆる。講題の文の前に

御辺ハ腹アシキ人ナレバ火ノ燃ルガゴトシ、一定人ニスカサレナン、又主ノウラウラト言和ラカニスカサセ給フナラバ、火ニ水ヲカケタル様ニ御ワタリアリヌト覚ユ、鍛ハヌ金ハ盛ンナル火ニ入ルレバ疾ク溶ケ侯。氷ヲ湯ニ入ルルガゴトシ、剣ナンドハ大火ニ入ルレドモ暫ク溶ケズ、是キタヘル故也。前ニカウ申スハ鍛ウナルベシ

と仰せになってをる。

四条さんはケシズミである、チウッパラである。此の弱点を露骨に予か教誠して大事を誤らぬやうに鍛練せらるる、是れが御慈悲の深きところである。当節の僧俗のやうでは仲々に有力の人に対しては、真卒なる思ひ切った事は云へるものでない。他人の機嫌ばかり伺がってる中には自然に親切が無くなる、慈悲が欠くる。残るは御追従、御軽薄ばかりぢゃ仕方がない。御本仏の上には四条さんもない、富木さんもない。波木井さんも南条さんもない。皆憐れむべき末世の衆生のみてある、又、悪むべき平左衛門頼綱もない、少輔房もない、極楽寺殿もない、気の毒なる末法の迷子ばかりである。是が本仏の平等見である。

さりながら四条さんには、四条さんの性質欲望がある。富木さんには、富木さんだけ性質欲望がある。其個々の心性境遇の中に一々立ち入りて、其の宜きに従って、即ち当御書の如くに、特殊に微細に御教訓遊ばさるるのは是が本仏の差別見である。些の御追従もない、少しの御軽薄もない。摂折自在である。化無謀応である。如此、私情私心を去って仏意公心の上より垂れたまふ御教は、決して私情を挟みて得手勝手に読了してはならぬ。大に用心すべき事である。

本題の御文も亦深く此の考にて拝することを要する。

日蓮ハ少キヨリ今生ノ祈リナシ」

今生現在の苦楽は五十年の短期なり。過去の業報に打ち任せてをくべし。むやみに執著してはならぬ。

只仏ニナラント思フ計リナリ」 

 仏寿無量である。未来悠久である。長き未来を麁末にしてはならぬ。身命を堵して成仏を励むべきである。且らく此の二意に切りはなちて見なければならぬが、是に著すれば今生現在の生活を麓末にするやうになる。今生を麁末にするやうでは未来も覚束ない。今生に無関係の未来はないのである。今日がなくて明日があるべき筈はない。

 さうすれば此の御文は如何様に拝すればよいのかと云ふと、今生の祈りなしと云ふ事は、四殿の現在の妻子所領に離るる事を悲しむを諌められたのである。以上の御文にかうある。

如何ニ最愛シ離レジト思フ妻ナレドモ死シヌレバカヒナシ。如何ニ所領ヲ惜シト思ストモ、死シテバ他人ノ物、スデニ栄ヘテ年久シ。少シモ借シム事ナカレ

妻子眷属に離れ所領を没収せられん事を深く心配してはならぬ。法華の信仰をやめ、日蓮聖人の帰依を止めたなら勘気を許してやらう。知行を返してやらう、などと主人の甘き言語に欺かれて、未来永久の仏の慧命を傷けてはならぬぞとの教訓である。

 自分は、今生一旦の祈祷現世安穏息災延命の祈りは挙げたことはないが、未来永々の仏の御寿命を継ぐ為には、現在の祈りをせぬでもよい。現在の愛欲に執着する為の今生の祈りはせぬが、未来の仏寿の為の現在の祈りなら為ぬ事もないと云はれてある。御尤もの事である。仏教家はありとあらゆるの功徳を、悠遠にして且無尽なる仏道に回向せねばならぬのである。次下の御文に             

去レドモ殿ノ御事ヲバ暇ナク法華経・釈迦仏・日天ニ申ス也。其故ハ法華経ノ命ヲ継グ人ナレバト思フ也」  

 と仰せ遊ばされてある。四条殿の個人の愛欲の為に御勘気の許りるやう、所領の返るやうにとは願はぬ、四条殿は法華経の外護者である。仏寿を継ぐ人である、本化六万の春属である、もう素凡夫でない。故に今生の祈りをも昼夜十二時に仏天に申すのであるとの仰せである。

 「今生ノ祈リナシ」とは、個人的なる自我的なる世間有待の報命、衣食住の三つ安かれと自分自ら祈った事はない。又、弟子檀那の妻子眷属財産を愛着する為の祈念をしてやった事もない。彼の天台・真言の当時の官僧達が濫りに幸福を祈り、平癒を祈り、安産を祈り、果ては諸人愛敬の御祈祷をして男女和合の媒までするやうな真似はきらいぢゃと仰せらるるのである。

 宗祖の弟子檀那のはしに列する御仁は宗祖の大御心に依りて祈祷と云ふことをせられたい。少しも此の軌道を外づれたら顕冥の仏罰立ちどころに至るであらう。

 今、自行と化他とに別ちて、祈るべき事と祈るべからざる事を、図にして本講を結びませう。                                             

           

           ┏━ 今生     (一辺)息災延命―――祈ルベカラズ

自行的祈祷 ━ー┡┡┡┡┫               (御書、今生ノ祈リナシ)

           ┗━ 後生―――成仏得脱―――祈ルベシ

                        (御書、仏ニナラント思フ計也)

                   

            ┏┢┢┢┢┢┢━  今生―――後生成仏ノ為ノ息災延命―――祈ルコトアリ

化他的祈祷 ━━┫                (御書、仏天ニ申也)

            ┗━後生―――成仏得脱―――祈ルベシ

                         (御書、多々。之ヲ載セズ)

    

 

『自然鳴』大正3年6月号

 

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