法 話(第8話)

 

信 乗 坊

 

相措相構、トワリヲ我家ヘヨセタクモナキ様ニ、謗法ノ者ヲセカセ給ベシ。とは、宗祖の日女御前へ御返事の中の文である(縮遺1626頁)。

 

 日女御前は、甲州松野家てあるとい云ふ事ぢやが、此御消息の前半には、仏滅後2220余年に、印度にも支那にも日本にも、未だ曽て出現し給はざる本門の大漫荼羅が、末法の始の五百年の中に、宗祖日蓮大聖人に依りて始て世に出現すると云ふ事、並に其大漫荼羅の当相を、委しく御示しになってをる。

 此に引き奉る「相構相構」已下の後半は、此の大御本尊の御当体と合体するには、信心修行が肝要である事を、細々と御示しになってをる。例文を挙ぐれぱ、

「此御本尊全ク余所二求ムル事ナカレ。只、我等衆生ノ法華経(本門寿量大漫荼羅=堀師ノ私注)ヲ持テ南無妙法蓮華経卜唱フル胸中ノ肉団ニオハシマスナリ」と仰せあそぱすは、信満成仏の姿である。信行具足して境智冥合の上の当相てある。

此御本尊モ只信心ノニ字ニヲサマレリ。以心得入卜ハ是也。日蓮ガ弟子檀那等、正直捨方便不受余経一偈卜無二ニ信ズル故ニヨッテ、此御本尊ノ宝塔ノ中へ入ルベキナリ。タノモシ、タノモシ

と仰せあるは、以信得入非己智分で、観の中に此本尊なく、行の中に、智の中に、慧の中に此大漫荼羅はましまさぬのである。唯、信心にのみ此の御本尊が生ずるのである。能入の人法体一の御本尊も、御信心によりて発生するのである。所入の行者も、信心によりて本尊の塔中に入るのであると示されてある。

信心ノ厚薄ニヨルペキナリ

已下の御文は、信心の大力用を御示しなされ、一切の万行万徳みな信より起る。信心受持の一行には読、誦、解説、書写等の四行を具する由をも御示しなされてある。

 此の信心の妨害になるもの邪魔になるものは、何かと云ふと、其は勿論謗法である。謗法の種類・等級は沢山にある。十四誹謗といふも、其中の種類である。一闡提の因果撥無の邪見などが謗法であってみれぱ、世間の一寸した意得違ひや非行非徳も謗法の中に入る。信不具足であれぱ、信仰の薄きやつもはいる。併しそんなものは小謗法・中謗法であって、大謗法でない。大々の誹謗正法といふのは、決定として本門の大御本尊を信ぜぬことである。御大法に反対しで悪口罵詈することである。本因妙法に二心を持ってをる事である。

 信心と謗法とは大反対当である。信心国土に充満すれぱ、娑婆即寂光と変じて、天長地久百官清穆万民繁昌で、到る処に鼓腹撃壌の民を現ずる。謗法国土に蔓延すれぱ、修羅地獄の境界を現じて、国運否塞万民貧苦で、到る処に飢饉悪病詐欺戦争の苦みを現ずる。

 国家安全を主眼とする宗門の信仰には、是非とも謗法を退治して而して此が退治を為さねぱならぬ。さりながら、此事は中々容易でない。進んで之を攻むる時もあり、攻むる人もあらう。退て、之を防ぐべき時もあり、防ぐ人もあらう。一概には云へぬけれど、男と女との性格の上から云へぱ、男の方は先づ進んで攻むるに適し、女の方は退きて防ぎ守るに適してをる。宗祖の御訓戒は、常に此の二筋を以て其の時其の人に応じて宜きやうに示されてある。いつもかつも進撃ぱかりを教へられてある訳ぢやない。一進一退その宜きに合ふて、自然に確実なる一歩一歩の進軍を為し給ふのである。
 今の御文は防守を教へ給ふのであるが、対告主は女人なる日女御前であるからと思はるゝ。 「トワリヲ我ガ家へ寄セタクモナキ様ニ」とは、時と人とにとりて、誠に絶妙の御例てある。トワリの事は、後妻とも、遊女とも様々に云ってあるが、自分は断じて遊女の方に団扇をあぐる。トワリをウハナリ、即、後妻と解釈したのは、『和語記』『啓蒙』等であるが、御書中にトワリの名、数箇所あれど、後妻では、中々に通じがわるいぱかりでない。此時代にも通ぜぬやうである。

 『小山茗話』の三の中程に、トワリを帷薄即ち女色と解釈したのは、稍正解に近きやうぢや。此を基として、某新聞には遊女と解釈してある。愚見と少しも変わらぬ。但し、トワリが何が故に遊女なりやの依拠には窮せられしと見え、一も文学書に見当らぬと残念がり、その師説がトワリはトマリ(泊)の義といい、解釈までも参考に出してある。

 自分は、旧くから遊女で解釈してをる。又、其依拠をも、漠然ながら、少年の時、某博士に 『源氏物語』を教はりし時得たやうに思ふ。今は其時の筆記もなし、又、湖月や入楚や余釈なんどの末書も持たぬから、委しくは云へぬが、帚木の巻に、源氏の君が紀の守の中川の家に、方違に行かれし時の下に、かう云ふ文がある。

守(紀の守)出デキテ灯籠カケソヘ火アカリカゝゲナンドシテ、御菓子パカリマヰレリ。 『トバリ帳モイカニソハザル方ノ心モトナクテハメザマシ主人ナラム』(源氏ノ語)『何ヨケムトモ得ウケ給ハラズ』(紀守ノ語)卜畏リテ候フト云フ。此ノトパリ帳及何ヨケムノ語ハ催馬楽ノ我家ニワイヘン(我家)ハ帷帳ヲモ垂レタルヲ大君キマセ婿ニセン、御肴ニハ何ヨケン鮑・栄螺カ石陰子ヨケン

 とある。

 当時上流に行はれたる歌謡の文句をしゃれ合はれたるにて、トパリを垂れて男を呼ぶ当時の風習が遂に婬れて、神崎の君、江口の君、六条わたり、はては鎌倉時代の大磯化粧坂の遊女の名称にもなりしかと思ふ。

 但し、当時代の的拠は見当らざるも、遊女の存外重宝がられ、白昼公然諸士の邸宅に出入して遊興を助くることもあり。尊とき御方、やんごとなき御方にも接する事なきにしもあらざる時代なれぱ、此れを以て宗祖の御書に当つれぱ、当文のみでない。何れにも当てはまるやうてある。鎌倉在勤のときは、化粧坂大磯の君を防ぎ、在国のときは蒲原の君をせく、此れ妻として夫を守るの天分である。何と宗祖の訓誠は凱切ではあるまいか、巧妙ではあるまいか。本仏大慈悲の発露するところには間がぬはぬ。そつがない。

 猶、トワリはトバリの横のア列の通音で、セカセのセキは堰、関、塞の義で、セキトメル、フセグことで、内に入れぬやうにするのである。トワリの愚説が長くなりて恐れ入る。偶にはコンナ景物もよからうと思ふ。

 

 

自然鳴』大正3年5月号

 

 

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