法 話(第6話)

 

 

 

信 乗 坊

愚人ニホメラレタルハ第一ノハヂナリ。

 

 とは『開目抄』の御末文である。此の御文意を浅墓に考ふれぱ、激越の調を帯びてをるやうに見える。又、此の御文の論法を悪しく演繹すれぱ、何だか僻論のやうになる。何となれぱ此の論を反対に取りて考ふる時、

 1は、愚人の褒むることは何事もしてはならぬ事となる。忠信孝悌、慈善、勇気、義侠等の行為は、如何な愚人も之を褒めぬわけにはゆかぬ。楠木正成の忠義、赤穂四十七義士の忠烈、乃木大将の精忠を笑ひ嘲り罵る愚人はとんとない。かうなると一寸をかしな工合になる。

 2にぱ、愚人の貶さし嘲る事は必ず立派なことで、して良い事となる。愚人なほ盗賊・姦通・人殺しを嘲る。されぱ此等の悪行は大人の為すべきことぢゃとなれぱ、是亦をかしな断案を来たす。此等は論理の悪用ぢゃ。提案の真意を逸して推論するからである。又、言は少し過激のやうぢゃが決してそうでない今『開目抄』の前後の関係の御文より、此文の意味を推量して、宗祖大聖の卓越なる御真意を探らうと思ふ。

 

教主釈尊、一切ノ外道ニ大悪人卜罵言セラレサセ給ヒ、天台大師ノ南北、並ニ徳一ニ三寸ノ舌モテ五尺ノ身ヲタツト伝教大師ノ南京ノ諸人ニ最澄未見唐都等トイハレサセ給シ、皆法華経ノユヘナレパハヂナラズ、愚人ニホメラレタルハ第一ノハヂナリ」(縮遺824頁)

 此の意を明かにするには、仏と天台と伝教との三つの例文より考えてこねぱならぬ。釈迦牟尼仏が六師外道等に大悪人と罵られ給ふたのは、1は外道が己が利養邪命を仏陀の正行に照らされて、諸方の帰依を失するから、却て大悪人と反噬したのである。此は大悪却て外道にありぢゃ。1は外道が己が徹底しない見識を仏陀の正見に破斥せられても、猶非学者論にまけずの類、又は正理に反省する事ができぬで、却て仏陀を大悪人と云ふは、其心地が愚昧劣識であるからである。如此悪徳愚癡の者に称讃せらるゝよりも、罵言誹謗せられる方が却て光栄となるわけである。

 次に天台大師の例を云へぱ、当時の南三北七の法将も、中々俊邁な人ぱかりぢゃけれど、迚も天台の智解には及ぱぬ。日本の徳一も法相宗では随一ぢゃが、中々天台の足下にもよりつけそうにない。見識の劣った手合が、見当違ひの愚論を並べて何と攻撃してもヘノカッパぢや。

 次に伝教大師が、円頓大戒壇建設の上表に、南都の六宗の僧綱たちが、わいわいと抗議を申込んで、中にも護命の表には、最澄(伝教)は入唐はしたけれども都の長安は見たこともござらん。入口の田舎の天台山に往ったぱかりで、田舎学問の勝手な屁理屈を申上げますから、決して御採用にならぬやうにと、大侮辱を与へた。是れも護命たちの南都の反対論が間違ってをる。入唐の要、学僧の要は、都京で学問したからゑらいの、長いあいだかかったから偉いのと云ふわけぢゃない。要はつかむ所をつかめぱよい、要領を得れぱよい。殊に天台宗は天台山の田舎が本場であった。

 伝教大師の方には、此の侮辱が少しもこたへなかった。1は法華経弘通の為でもあるが、何しろ先方の議論が愚劣ぢゃからである。聖賢にも1から10まであるが、愚人にもピンからキリまである。普通の瘋癲も愚ぢやが、少しぱかり足らぬのも愚、馬鹿台に学問弁才の鍍金してゑらさうなこと云ってるのも愚、道学哲学の大徹底しない先生方も愚、仏教の上っ面ぱかり見聞して通がる僧俗も愚、一宗の教理にぱかり屈託して少しも他の方面のわからぬのも愚、あんまり愚が多いで嗚呼ぐたぴれた位のものだ。

 宗祖が茲に愚人と仰せられたのは、天台・真言の公家武家御帰依の大僧どもぢゃ、次には禅・念仏・律の大僧どもも此中に入る。中僧、小僧、居士、信徒ぱらは、二段目三段目の前頭同同で物の数でない。宗祖の御見識のおそろしく高いのは是れでわかる。

 若し宗祖大聖の『安国論』已来の御高論を禅・律・念仏・真言・天台等の大僧たちが、大歓迎をしたならぱ、愚人どもにほめられ給ふたならぱ、日本一の大恥辱たるのみならず、『勧持品』『不軽品』『法華経』の末世に於ける金文は虚妄となる。上行出世は徒事となる。そこで次下の御文に。

日蓮が御勘気ヲカホレパ、天台・真言ノ法師等悦シクヤ、ヲモウラン。且ハムザンナリ且ハキクワイナリ

 と仰せられて、当時日本仏教各宗の棟梁たる天台・真言の二宗をのみ挙げて、余は其中に含めてある。瘋癲白痴や天保銭や、電気メッキの愚人ぢゃない。愚人と申上奉るのは、恐れ入り奉る大僧正様方である。又、愚人にかういふ例文がある。愚人の味は深いものぢゃ。

問云、正嘉ノ大地震、文永ノ大彗星ハイカナル事ニヨッテ出来セ七ルヤ。答云、天台云、智人知起、蛇自識蛇等云云。

問云、心イカン。答云、上行菩薩等ノ大地ヨリ出現シ給タリシヲパ、弥勒菩薩、文殊師利菩薩、観世音菩薩、薬主菩薩等ノ四十一品ノ無明ヲ断ゼシ人々モ、元品ノ無明ヲ断ゼザレパ、愚人トイハレテ、寿量品ノ南無妙法蓮華経ノ末法二流布センズルユヘニ此菩薩ヲ召出サレタリト知ラザリシト云フ事ナリ」(『撰時抄』 縮遺1236頁)

 さー爰ぢゃ。愚人も文殊・弥勒・観音・薬主の頭につくやうなりては大々出世ぢゃ、何で愚人と云はれ給ふ。寿量の題目が末法に流布すべき事を知らなかったからである。此御文と本文と対照すると、愚人の味ひが深くなる。此の御文は本因下種の妙法を知らぬので愚人。『開目抄』即本題の愚人は、末法当時の主師親三徳たるべき御方を知らぬに依って愚人。其は以上の文に、

日蓮ハ日本国ノ諸人ニシウシ(主師)父母ナリ

と仰せられ、又、冒頭の標文には

夫レ一切衆生ノ尊敬スベキ者三アリ。主師親コレナリ

 と示されてある。此辺の御文は深くかみしめて味ふべきぢゃ。殊に「日蓮ハ日本国ノ」と仰せある前後の文を紙背に徹する眼光を以て瞰むべしぢゃ。岩を堀て水を出す熱信を以て拝すべしぢゃ。又、『開目抄』の方は人を知らぬ愚人に、『撰時抄』の方は法を知らぬ愚人に当ってをるのも興味がある。乍併、此等は余り向上した純信仰の上の話である。今少し押し下げて智愚善悪褒貶栄辱を考へて見ても、修養の補足にならうと思ふ。

 先づ世間並の智人愚人、それに何れも善人と悪人とがある。智愚は且らく見地に約し、善悪は暫らく徳行に約して見る。其褒貶に栄辱を来たすことを、図に繋けて見れぱ、此様なものであらう。

 即ち、智にして善なる者、及び愚にして善なる者の褒貶は、直に其侭栄辱を感ずる。智にして悪なる者、及び愚にして悪なる者の褒貶は、反対に栄辱を感ずる。即ち愚人にほめられたるは辱となる。但し此は重に徳行に付て云ふのである。

 更に一歩を進めて、仏法と世法と、賢と愚との四句分別を為して、其上に褒貶栄辱を図すれぱ左様になるが、之は略本題に適用することも出来る。

 此図で、愚人といふのは、世間法には明るくとも仏法に暗いのと、何れも暗いのとが、愚人と云はる事となる。本題の愚人たる天台・真言の大僧は、再往は仏法愚であるが、一往は中々仏法にも賢であるから、厳密に図をつくれぱ、仏法中に入りて、本迹種脱の区別を立てねぱならぬで、爰には面倒ぢやから略する。

 要するに世間にも仏法にも何れの階段の智徳に於ても、一重超越したる高尚の義理は、平凡の者の賛同する所とならぬ。平凡の付和雷同するのは、平凡の事柄のみである。群衆心理は常に常識以下にありて以上に出でぬ。大声僅耳に入らずとは、此等のことであらう。陽春白雪唱高くして和する者少しと。

 嗚呼、愚人はいやだ。グーダラベーはいやだ。国に多くなれぱ国を危うくし、宗門に蔓これぱ、宗門を亡ぼすかも知れぬ。(完)

 

 

『自然嗚』大正3年3月号

 

 

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