法 話(第5話)

信 乗 坊


日興ガ波木井ノ上下ノ御為ニハ初発心ノ御師ニテ候事ハ、二代三代ノ末ハ知ラズ、未ダ上ニモ下モニ誰カ御忘レ候べキトコソ存ジ候へ。

身延沢ヲ罷り出候事、面目ナサ、本意ナサ、申シ尽シガタク候ヘドモ、打チ還ヘシ案ジ候ヘバ、イヅクニテモ聖人ノ御義ヲ相継ギマイラセテ世ニ立テ候ハンコトコソ詮ニテ候へ。サリトモト思ヒタテマツルニ御弟子悉ク師敵対セラレ候ヌ。

又、日興一人本師ノ正義ヲ存ジテ本懐ヲ遂ゲタテマツリ候べキ仁ニ相当テ覚エ候ヘバ、本意忘ルゝコトナク候。又、君タチハ何モ正義御存知候ヘバ悦ビ入テ候。殊更御渡り候ヘバ、入道殿不宜ニ落ハテサセ給ヒ候ハジト覚ニ候。

 2月7日は、御開山日興御上人の御命日である。御遷化の正慶2年よりは正に580回の御忌日(大正3年)を迎ふることになる。

 そこで爰に御上人の、止むなき事情に迫られて身延山を退出せられて、直に波木井家の子息たる原殿に、御離山の理由をこまごまと認めて遣はされたる御文の中の一節を奉掲して、聊か故聖の御真衷を恐測し奉り御報恩の一分に供へやうと思ふのである。

 凡そ世の中に義理と人情との板挟み、道理と実際とのジレンマにかゝったほど苦しいものはなからう。然るに真法界と俗社界との中間に立ちて、上求菩提下化衆生の重任を負へる宗教家、殊に僧侶は大なり小なり此の板挟みに苦しめられていぬものはないが、大々苦悶を重ねてゐる仁は多分はなからうかして、何れの方々も揚々喜々として大平楽に住し給ふは結構な事であるが、御開山上人身延御住山5ヶ年の御事蹟を思ひ出づれぱ、涙の種ぱかりである。其れを富士戒壇説にぱかり意急かれて、開山の身延御離山は予定の行動の如く云為する仁は思はざるの甚しきである。どうせ波木井が謗法を始むるであらう、宗祖大聖の御思召も疾くに富士戒壇の方に移ってあられる、なぜ日円が不都合をしでかして早く富士へ退出の口実を作らせぬかと、御開山は意の内で催促なされるやうな酷薄な御仁ならぱ、爰を出るにも涙はないわけとなる。理想に走って情義を抛つやうな無慈悲なお方が、どうして一門の棟梁となられやう。

身延山ヲを罷リ出候コト、面目ナサ本意ナサ申シ尽クシガタク

と、原殿に申し送られしは、何と麗しき人情ではあるまいか。

 師の御房の御趾といひ、御遺命の重さといひ、其れを打棄てゝ無漸や謗法魔界の糞土に成り行くことかと思ひたまへぱ、涙滝つ瀬のやうであったらうと思ふ。其れなれぱこそ、

又、君タチハ何レモ正義御存知候ヘパ悦ビ入テ候。殊更御渡り候ヘパ、入道殿不宜ニ落ハテサセ給ヒ候ハント覚エ候

と、見捨てゝ行く跡の跡まで気遣はれてある。

 通俗の人情なら憎っくき日円入道奴、火の車にのり、ペストにでも罹りてくたぱれ、無間地獄に真逆様、嗚呼心地よや、とでも云ふべき所じゃが、日円入道が民部阿闍梨に惑はされ、自分無き後は次第に謗法が募るであらう、不宜不如法の行為が重さなるであらう。其の悪道の落ちつく果ては恐ろしきものぢゃ。其を入道の若君達は何れも正信正義の人なれぱ、傍より様々と諫言して、たとへ弘安の昔にかへさずともせめて不宜の募らぬやうにと跡の跡まで云ひ遣はさるとは、何と深い深い御慈悲の御言葉ではなからうか。一門の棟梁たるもの此の大慈悲が欠けてはなるまい。其れに又、君達の方からは其前(『原殿状』は正応元年12月16日である)12月5日にかう申して来てる。

モシ身延ノ沢ヲ御出候ヘパトテ心ガワリヲモツカマツリ、愚ニモ思ヒマイラセズ候。又、仰ノ御法門ヲー分モフミタガヘ進ラセ候ハバ、本尊並ニ御聖人ノ御影ノニクマレヲ清長ガ身ニアツクフカクカフブルペク候

 とある。

  興師様が身延に御出遊ぱさずとも自分等の信仰に寸分の狂ひはないと、生々世々からの絶待信伏の誓紙ではあるまか。此はまた、親の入道の御機嫌に触れても決っして興師様に尽す信仰は変りませぬ、といふ見上た君達の御志だ。

 それぢやから御開山は頼もしく思しめして、或は不日に身延の妖雲が払はれて、弘安の昔に帰ることもあらんかと思召したかも知れぬ。

 永仁6年(御離山より11年目)の『弟子分帳』には、日持上人、日弁上人等違背の弟子の下にも悉く其由を記入せられども、波木井一家11人の大聖人の御本尊を授けられたる人々の下には、一人も違背の弟子たることを示し給はざるは、或は清長等の索儲篤信のお手前に免じ、幾分の御交通もありて御用捨なされたるやも知れぬ。

 此等は誠に御開山に於ては辛らい辛らい御思召を以て人情を尽し実情に従ひ給ふこと、吾等は涙を以て拝し奉るべきであらうと思ふ。

 併し乍ら、若し人情にのみ溺ぼれ実情の絆を断つことが出来ずに、知らず知らず義理を捨て道理に背くやうな優柔漢では、此の険悪な五濁濫漫なる娑婆の荒波をしのぎて寂光の宝渚に一切衆生を導き給ふ大導師の御役は勤まるまい。大事大切な御本仏の御遺命は何と為さるゝ。されぱ、

打チ還ヘシ案ジ候ヘパ、イズクニテモ聖人ノ御義ヲ相継ギマイラセテ、世二立テ候ハンコ卜コソ詮ニテ候へ

と断然たる決心を示されてある。自己他人に拘はらず、相承無相承に拘らず、詮要は弟子たる者は師の法義を継続して死身弘法すべきである。

 身延の貴きは大聖人の御座に依る。大聖人の貴きは御所持の御大法に依る。御大法建立の処は如何なる処にても浄化する。黄金界となる、浄土となる。爰に開山上人は断然たる覚悟をなして、身延を捨てられたのである。不得止底である。波木井の謗法、民部阿闍梨の不法で、退山の口実が出来たる心中恐悦予定の行動勇み進んで富士に移られたのでは決してない。

 さて又、戒壇建立等の秘事は且らく云はず。表面に立てゝ宗祖の法義とする『立正安国論』の御精神すら、五老方は悉く軟風に吹き迷はされて師敵対せられた。(悉くは『弟子分帳』、『五人所破抄』、『門徒存知事』の通りである)。

御相承は兎も角も、どうしてもかうしても興師御一人が一人でふんぱって重荷を負って仕まはねぱならぬ。そこで

日興一人、本師ノ正義ヲ存ジテ本懐ヲ遂ゲタテマツリ候ベキ仁ニ相当テ覚工候ヘパ、本意忘ルゝコトナク候

と、爰に少々唯授一人血脈相承の気勢を、ほのめかされてある。

 普通に云へぱ、道理の命ずるまゝに驀進せられたのである。大導師たるの理を尽くされたのである。比の理の中には上の情が籠ってをる。引文の一節は、情理兼ね具はった御消息である。

 別して、御開山の高き高き厚き厚き御人格を伺がひ奉るべきである。骨を砕き血を流して認められたる御状と拝すべきである。(完)

『自然鳴』大正3年2月号

 

 

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