法 話 (第3話)

 

信 乗 坊

ヲ九識ニモチ、修行ヲハ六識ニセヨ

 

とは、宗祖大聖人が、南条兵衛七郎行増(時光入道大行の父)の卒去を聞かれて、其後家尼御前へ悔み慰めの御状を賜はりし中に、御引用の古徳の訓戒である。

六識といふのは、眼・耳・鼻・舌・身・意の識で、通常日夜に吾等凡夫の起す精神作用である。色・声・香・味・触・法の六の境界に触れて起す所の意志のはたらきである。修行しなくても、特別の注意を払はなくても、不断に起るものである。抑へやうとしても中々止らぬ。意の駒の狂ひである。

九識といふのは、六識の上に七識なる執意識がある。八識なる阿黎耶識がある。其上が九識で阿摩羅識である、無垢識とも称する。是は中々長劫の修行を積まねば得らるゝものでない。向上し尽した意識の大根本である。六識のやうに境界を逐うて狂ひ廻るものでない。至って静寂なるものであって、現象の上では如何やうなものであるといふ事は云はれぬものであるが、此れが識の大根本となりて、八識七識と向下して漸々に著しき妄活動を起すやうになり、遂には六識となりて、日々夜々の吾人の精神作用を起すものである。

そこで此の古語は、平たく云ふと、見識は高くもちて、行動は尋常にせよ、と云ふ事になる。心もちは仏さまで、行ひは凡夫なみにすると云ふ事にもなる。

大聖人は、此の二つの意味を以て御消息をまいらせられてある。今、要文を引いて見やう。

「世間ノナラヒトシテ三世常恒ノ相ナレバ、ナゲクベキニアラズ。ヲドロクベキニアラズ。相ノー字ハ八相ナリ。八相モ生死ノ二字ヲイデズ。カクサトルヲ法華経ノ行者ノ即身成仏トモ申也。故聖霊ハ此経ノ行者ナレバ即身成仏疑ナシ。サノミナゲキ給フベカラズ。」

此の御文は、心地を九識に持ちての考へなり。出世間の上の道理なり。真諦の上の話なり。此文の次下に、

「又ナゲキタマフガ凡夫ノコトハリナリ。タダシ聖人ノ上ニモコレアルナリ。釈迦仏御入滅ノトキ諸大弟子等ノサトリノナゲキ、凡夫ノフルマイヲ示シ給ウカ、イカニモ追善供養ヲ心ノヲヨフホドハゲミ給フベシ。」

此の御文は、修行を六識にしての事なり。世間人情の上の事なり。俗諦の上の談である。此の中に「タゝシ聖人ノ上」等と云はるゝ所、八識九識を極め給ひ、浮世の情涙を尽し給ひし迦葉、阿難でも、凡夫並に別れを悲しみ給ふた所が、心地を九識に持ち修行を六識にした実例を御挙になったのである。

大聖人が、一面には御本仏内証の大見識を以て王公将軍執権を眼下に見下し、権迹の仏菩薩を脚下にも寄付けぬ底でありながら、一面には新に夫を失へる寡婦に同情し、病者に貧者に孤独に、慈愍の涙を惜ませ給はぬ処が、即ち六識九識の理であらう。殊に清澄の建宗より佐渡の御謫所までの種々の大難に屈せざる大奮闘の勇ましさ、凡見よりすれば雄々しさの限りである。勇猛精進の精華である。御内証より見れば大慈大悲の御辛労勿体なき極みである。況や艱難漸く尽きて清逸せらるべきの山林には、百余の道俗慕ひ集りて中々に御安逸を与へぬ。

 依鉢屡々空うなりても、法体安祥として内外の提撕化導一として宗祖の御行蔵は、心地を九識に持ち修行を六識にする典型ならざるはない。

然に吾等は、其の門下として日夜に此の聖訓を拝味すべきぢゃが、動ともすれば脱線しさうである。いや脱線しがちである。向上しては覚束なくも八識九識の何たるを知る。上菩提を求めて止むことがない。茲に去りがたい偏見が生じて六識の俗界が浅猿く見える。下衆生を化する事が馬鹿らしくなる。毎日会心の書を読み耽りて何等の事にも手を出さぬ。浮世が喧ましいとて山林に逃げこむ。眷属がうるさいとて独身になる。山林にも厭る。食ひかぬる死にかぬるで又俗界に下りて見る。思切って華厳の滝にでも水定して見る。浅間の噴火口にでも火定して見る。此れ程でなくても頭脳ばかり出来て見識ばかり高くて、さて為す事、行る事何一つ満足な事の出来ぬ者が、宗教家・学者輩の文字に縁のある人々の中に得て多くあるとの事ぢゃ。

誰れやらが、「見は高うして須弥を超るも行は卑うして足下を出でず」といったが、こう云ふ手あひでは社会の厄介者と云はざるを得ないが、向上の弊は向下の弊よりは少なきやうである。向下の弊害と来たら際限がない。和光同塵と云へば立派な名である。示同凡夫も然りぢゃ、下化衆生も左様ぢゃ。身を六識に持つのは慈悲の結晶ぢゃが、確かな向上の上でなくてはいかぬ。九識獲得の上でなくては危険ぢゃ。仏陀の大慈悲を堅く抱きしめての上にての示同凡夫下化衆生悪逆同化でなけれねば険難千万ぢゃ。外道の六行観が屈歩虫の如く何も得る所、止る所なきと一つぢゃ。堕落の基ぢゃ。沈倫の始ぢゃ。ミイラ取りがミイラになるのぢゃ。悪摂受、曲学阿世、迎合諂諛、此れより生ずる、上求菩提なき下化衆生の悪徳は到る処に大方の嗤笑を招く、大慈大悲なき同化の失敗は点々として随所に散在する。仮令、幾分の偽らざる同情はありとも浮世の荒波を游いで切るには、外に浮世に超越したる見識を備へざるベからずぢゃ。九識に心を持つべきぢゃ。さうでなければ不自由の中に処して綽々と自由は得られぬぢゃ。無い袖は振られぬと云ふてある。乞食が旅行をするには中々の辛苦であらうに、先年、東京の縉紳富豪の坊ちゃん連中が、物数奇がかうじて、若干の小金を態とある待合の女将に借用証を入れて借受けて京都まで乞食の道中同然の見すぼらしい旅行をしたが、一宵数千金を消費する豪遊よりも却って大いに愉快であったとの事、楽みなればこそどんなきたない真似も出来る。此の坊ちゃん方が真正に零落して乞食になったならどんなに苦しいであらう。さあ此だ、九識の高見あればこそ、六識の中に処しても平然たるものだ。千金の子なればこそ乞食の真似をしても快楽なものだ。これが仏陀の神通遊戯三昧ぢゃ。徹上徹下の振舞ぢゃ。上に挙りきってもいかん。下に沈みきってもいかん。九識六識の聖訓深く味ひ玉ふべきである。(完)

 

                             『自然鳴』大正2年9月号

 

 

 

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