資料編

 

 

資料を読むにあたって


 金沢法難は、享保9年に始まり明治12年の寺院建立許可にいたるまで、およそ150年間の長期に亘っている。その間、金沢信徒は第26世日寛上人より第52世日霜上人・第53世日盛上人まで28代もの歴代上人の指南を仰いでいる。
 歴代上人のご消息は金沢妙喜寺に約100通、それ以外にも京都住本寺の古文書に多数の写本が現存している。
 総本山と金沢は遠隔であり、ご消息が講衆の信心を増進する大切な手立てとなっていた。なかには上人から、直接難解な法門書を戴いた人もいる。
 ここでは、それらのすべてを収録することはできないが、その幾つかの例を資料編として紹介させていただくことにする。
 (1)日寛上人消息と(3)日因上人消息の二は「諸記録」第5巻より、(2)日因上人消息の一は蓮華誌51号より、転載させていただいた。(4)日琫上人消息の1より以下7通は、京都住本寺蔵の古文書(写本)をお借りして解読し、わかりやすく書き下しに改めた。なお、それぞれに簡単な解説を加えた。

 

 


 

 


 

 


 

 

(1) 第26世日寛上人消息




   飾や伝兵衛事返々も残念の至候。随分自他事にてしかしか事今度
   存生之願により親父の法号改候而、新敷遣之候。尤五十
   年之娑婆を去候、ゑこう致し度く存候と頼入候。玄友法号も殊外
   に入念候。又人たのみ致候て書御無用にて候。よくもあしくも自筆に
   て用いさるべく貴殿なとは登山の度々なれば心易覚候。
五月十三日之御状、不残令拝見候。弥々以、同行中別条無之皆々御無事修
行被成候由、珍重不残(浅)存候。さては前度下し奉りまいらせ候御本尊之
御供養、彼方此方より皆々相届被入御念候御事候。殊松任屋七兵衛殿いと
まなき身本因妙一万遍御供養難有御事に候。かならすかならす信の一字こそ
大事にて候。たとへ山のごとく財をつみて御供養候とも若信心なくはせんな
き事なるべし。たとヘ一滴一塵なりとも信心の誠あらば大果報を得べし。
阿育王の因縁なと思ひ出られ、(ふして)かならすかならす身のまづしきをな

げくべからす。唯信心のまつしき事をなげくべげれ 恐々謹言


    月  日             大石寺 日 寛(在判)


  松任治(次)兵衛殿御報

 


解説

 お手紙をいただいた松任次兵衛げ、「伝聞記」に「講頭並に有功の人の交名」と列挙されている「松頭屋次郎兵衛」のことであるとも考えられる。とすれば、享保8年に、日寛上人より本因妙抄をいただいたことが、記録されている。このお手紙の年代げ不詳。
 冒頭の「尚書(追伸文)」は、飾や伝兵衛という人が五十歳で亡くなったことに対する回向のお言葉であると思われる。
 お手紙本文に出てくる松任屋七兵衛げ、松任屋次兵衛の縁者であろう。御本尊を日寛上人から下附していただいたことへのご供養として
自分げ貧しくて何も奉ることがてきない。ただ本因妙一万遍を唱えてこ供養申し上げますといった趣旨の手紙を出したものと思われる。
 それに対して、日寛上人はその志を賛嘆され、信の一字の大切さを語られている。短いお手紙のなかに「かならずかならす」とのお言葉が二度も記されており、日寛上人の心情がにじみ出ていて感銘が深い。
 「本因妙一万遍」とあるのは、題目のことである。題目と本因妙とが同意であることは活目すべきである。江戸期においては、大石寺周辺や地方の寺院の墓にヽ本因妙と刻んて「南無妙法蓮華経」とは刻んでいないのがある。またお手紙にもヽ題目とは書かれず、本因妙とされている他の例もある。
 昔の人たちには、当家の題目が本因妙であることが、自然のうちに会得されていたであろう。

 

 


 

 

(2) 第31世日因上人消息の一



    覚


 一、清白単衣  壱つ


青野妙浄殿御方より送り給候。別して、かたしけなく存しまいらせ候。抑、
清白単衣と申すは何方にも沢山これ有る物にて候へども、着用の人によりて
たっとく覚へ候。いかにと申すに、もし世間俗人の着用つかまつり候はば夏
のあせを忍ぶ衣にて候。儒者着用つかまつり候はば天地人の斎礼の衣成る
べし。神道者着用つかまつり候はば神祗のさいふくと成り候べし。声聞・縁
覚の人着用つかまつり候はば、阿羅漢あるひは独覚縁覚の法を求むる衣成る
べし。爾前迹門の諸菩薩の着用つかまつり候はば始成正覚の仏の道を求む

人の衣成るべし。本門行者の着用つかまつり侯はば本覚の仏を顕はす人の衣
成るべし。衣は同色なれども着用する人の品により其の行の道によりて勝劣
浅深功徳広大無辺の相違あり。然るに今、青野妙浄公おくられし単衣は法華
本門行者着用のために、はるかに遠きをも忘れず近きをも頼まず、その前に
登山致され候節、山の行鉢を見させ給ふにや、自身とおり仕立おくらせ給
ふ事たっとくありがたしとも申すばかりなく覚へ候。宗祖この単衣を着て法
華経をよみまいらせ候はば、6万9384の法華経の文字即仏の如来に一
々に着せまいらせ候に成るべしと遊ばされたり。今、我等着用つかまつり候
て仏前に向ひ寿量品一巻をよみまいらせ候へば2018仏に着せまいらせ
候に成るべし。この仏は一々に久遠五百塵点劫の古仏無作三身即一の如来な
り。彼の迹門の始成正覚の新仏にはあらず。其の上2018仏一々に皆一
念三千の心法を備へたり。色心不二の本仏なるが故に爾前迹門の始成正覚の
新仏には似ず、本有常住の仏躰成る事、警へば天月のごとく日輪のごとし。
かかる仏を信行する僧宝の所へ送り給り候へば、壱つの単衣なれども朝々
夕々勤行に着用し仏前にむかいて2018仏の寿量品をよみまいらせ候て、
また2018仏に着せまいらせ候に成るべし。一度ならず二度ならず、朝夕
勤行に着用つかまつり候へばたびごとに2018仏を供養しまいらせ候なり。
われらは凡夫僧にて欲をはなれず候へども、法華経を持ちまいらせ候へば名
字の仏の一分にて候ぞかし。煩悩をはなれ五欲を断ぜる人は末代に希有成る
べし。経文には「不断煩悩、不離五欲、得浄諸根、滅除諸罪」と云へり。
心は、大乗法華本門妙法蓮華経の行者は煩悩即菩提、生死即涅槃、結業即解
脱なるが故、五欲煩悩の当社妙法蓮華経なり。よって清浄仏眼を得れば、自
然一切煩悩をも消滅し、障り無く即身成仏なり。清浄の仏の耳鼻心身舌根も
また爾なり。故に持ち奉る処の正法肝心なり。法華本門の正法受持の人に非
ずば争か、かかる功徳を備ふべきや。妙浄公にもまた、法華本門の正法を
持つ行者なれば末法名字即の位の仏成るべし。現生すでに爾なり。未来は
いよいよ即身成仏の光明を放ちて十方を照し、無辺の衆生を利益し給はん事
彼の在世の竜女成仏に異なるべからず。「深達罪福相、遍照於十方」とは
これなり。もし光明無くんば成仏に非ざるなり。理性の成仏は天台の法門な
り。末法日蓮聖人の法門はこれ事の一念三千の法門なり。一切衆生ただ法華
本門の正法を信じて、南無妙法蓮華経と唱へ奉る人は即身成仏疑い無しと
思召し給へ。南無妙法蓮華経 南無妙法蓮華経

  亥8月21       31代 69歳  因 在判

 


解説

 第31世日因上人は、北陸の信徒にとって、とりわは縁の深い上人てあった。54歳て登座され、遷化される82歳まての約30年間、北陸の人々の信仰の教化育成に力を注がれた。
  このお手紙は、宝暦5(1755)年同上人が69歳の時に認められたものてある。お手紙をいただいた青野妙浄がどういう人かはよくわからない。お手紙の中て「彼の在世の竜女成仏に異なるべからず」とあることや、文面からいって女性信徒てあることはまず間違いない。
  「自身とおり仕立おくらせ給ふ事たっとくありがたしとも申すばかりなく覚へ候」とあるように、一婦人が日因上人のために、せっせと衣を仕立てご供養したことが伺われる。それに対して、同上人は、「朝々夕々勤行に着用」されたのてある。時の上人と、女性信徒との間にかわされている温かい心が伝わってくる。

 

 


 

 

(3)第31世日因上人消息の二



この書中、甚深の大事を書き候ぞ。他見無益なり。ただ加藤並びに西田、大
瀧、別所屋、本沢、星山等、其の地上首五衆中ばかり拝見致さるべく候。
手透これ無く候へども、あらあら廉書致し遣わし候。子細本沢下向対面
の節、申し入れらるべく候。且つまた、本沢殿等随分和合致され候て一句一
言随力演説これ有るべく候 以上

    戌10月21                因 在判

  小川孫左衛門殿


解説

 お手紙をいただいた小川孫左衛門については不明。小川弥右衛門(貞性)という人がいるが、その人の縁者かもしれない。小川貞性は講頭の一人て、第47世日珠上人の父である。このあと続く長文の箇条書きのご指南は、小川貞性宛てある。
  「この書中」とは、その箇条書きの文書を指している。「甚深の人事」とは、たとえば臨終一結講
に下附された御本尊について、 「一結講中会合の節は一結頂戴の御本尊にて候へぱ他の物にあらず、一結講中の人々の色心二法にて候へぱ我が身の本尊を拝見奉り無疑曰信に南無妙法蓮華経と唱へ奉る事尤も大切なり。かつ又臨終の事は平生忘るべからず。別して一結講中、異体同心未来までもあい離れ申すまじく候、中において一人地獄に落ち入り候はぱ講中寄合て牧取るべし、一人成仏せぱ講中を手引して霊山へ引導すべし、その後北国中の同行乃至日本国中一閻浮提の一切衆生をも牧い取るべく申し候。衆生無辺誓願度と申すはこれなり」(諸記録より)とある。
 掲載したお手紙は、その副状ともいうべきものであるが、こうした一つのご指南を、加藤了哲、西田元信、大滝涼潤、別所屋蓮行、本沢宗清、星山(姓のみ、名不明)等の金沢信徒の中心者たちが、真剣に拝していたことが偲ぱれる。また、「随分和合致され候て一句一言随力演説これ有るべく候」と、信徒の異体同心と随力演説を望まれている。
 小川貞性への箇条書きの指南が宝暦4(1754)甲戌年10月17日とあるから、このお手紙の「戌10月21日」は、その直後ということである。先に箇条書きを認められ、後にそれを拝する心構えを附されたのであろう。

 

 


 

(4)第三十七世日琫上人消息の一



御手前様事、精師以来代々大信者の家にて尊号も百年来いずれも受けられ候
処、今もって登山の儀は一度もこれ無く、勧めに依って登山候者は数多に候
へども其の身はいまだ罪障不滅候哉、如何なる因縁にやと甚だもって御残念
に思し召し候段御尤もに存じ候。去りながら一の得意をもって申すべく候。
事行本門の立行に事理の二つあり。本事本有の妙事を理と呼び、妙事の用
を事と呼び候次第をまづ得意あるべし。さて常に真の霊山事の寂光と申す
に両意あり。教主大覚世尊は大悲をもって、法華八年中本門八品の間、真の
霊山事の寂光に来往して根熟の衆生を御利益なり。是れ事用の霊山寂光
なり。日蓮大聖人は大慈門に住して、五濁悪世の当所に御利益なり。徳薄
垢重貧窮下賤の機を益して五濁に所し、徳薄の者に同じ給ふの故に本有本
事の霊山寂光に住し給ふなり。右の両重をもって末法今時を見るに大慈を
もっての故に霊山に来たらず。罪根深重に同じて益するも有るべし。大悲を
もっての故に霊山に来たり益するも有るべし。熟未熟に同じて来たり還って
勧信する者も有るべし。何れ勝劣は佛意に任すべく候。然れぱ則登山これ無
きは子細有るべし。其の子細は登山の出来する時顕わるべしと但々無二の信
心の儀大事と存じ候。


 南無妙法蓮華経


   戌10月29日                日 琫 御判


 徳田法宥殿御返事




解説

 お手紙をいただいた徳田法宥は「伝聞記」に「明和、安永、大明、寛政、享和、徳田七右衛門本縁院法宥日相」と記された人物である。さらには同記に「寛文、事蹟詳らかに知れず、徳田何某」の記載がみえ、日琫上人のお手紙中にも「百年来」の大信者とあることから、法宥のみならず、徳田家一族が日精上大の代より富士門流の教えに帰依し、強信を貫いていたことがわかる。
 お手紙末尾の「戌10月29日」とは、法宥の活躍していた時期と「百年来」の語を考え合せれぱ、安永7戊戌年10月29日のことであると推定されよう。
  お手紙の大略は、徳田法宥の登山に関する質問に対して日琫上人が法門のうえから懇切丁寧に答えられたものである。
 法宥は、徳田家が何かの理由で本山に今まで一度も登山できなかったことを心苦しく思い、これではたして罪障消滅が叶うものであろうか、と日琫上人にお尋ねしたのである。それに対して日琫上人は、「釈尊の教えは、根熟の衆生が相手であり、大悲門に立って霊山寂光に来往して成道を遂るが、大聖人の法門は、罪根深重の衆生のために説かれたものであり、大慈門に立っている。ゆえに、霊山(本山)に来たらず、成道を遂けることも可能なのである。いまはただ金沢の地にて無二の信心を貫いていくことが肝要である」と仰せになられたのである。釈尊仏教と大聖人の仏法の相違が明解に説かれており、下根下機の衆生のために建立された富士法門の面目躍如たるものがある。

 

 


 

(5)第37世日琫上人消息の二



吉事につき連書給はり披見致し候。まずもって一統異儀無く暑中凌かれ、
この節残暑の障り無く修行候儀、珍重に存じ候。然らぱ先年法難の砌、一
往何れも御宥免これ有り候の処、今般再往残り方無く御免許の儀、ひとへに
三宝の冥感有難く存ぜられ候につき、別紙の通り我等までも喜悦冥加の供

養に預り、いくひさしく重畳目出たく祝納申し候。それに就て段々次
第に依り愚案申し候所は、この上いよいよもって穏便に修行爾るべく存じ候
間、必ず必ず参会などは一両年決して無用に致さるべく候。万一拠んどころ
なくんぱ、仏事供養等の志にて三五大寄り合い候ても高声に片こと雑りの誦
経は宜しからず候。ただただ俗人に似合い申し候題目口唱爾るべく存じ候。
およそ経は能詮、題目は所詮にて、御経は題目の功徳を説き教えて題目を
修行せしめんための仏の御言葉なれぱ、題目を唱へ行すれぱ仏の意も御経の
意も皆備はり申し候処をよくよく観念して唱へ申さるべく候。まづ俗人の広
学秀才の者は御経のよみ癖等も吟味してよみ覚へられ候ても、幼年よりの稽
古の肝要これ無き間、口早やによみ申す時は必ず皆片ことにあい成り候、
出家も幼年の時、稽古等閑なるは多く片こと雑り、御経片ことなれぱ題目に
キズつき申すべく候。
 さに候へぱ本迹一致のなまり題目、八品所顕一品二半一部修行、本勝迹
劣、肝心寿量などの疵題目同様に成り申すべくの間、誦経心志よみかた至極
大切事に候。もし御経をよみ申され候時は、随分随分初心至極に御経を見て
叮嚀至極に静かによみ申さるべく候。早ロには無用存じ候。随分静かに誦経
唱題候て信心強盛に修行候へぱ、近年の内に心願成就のいたる時候はんと存
じ候間、愚意の旨を長々と書きまいらせ候。尚また後喜の時を期すべく候。
恐惶謹言。


    八月十日                 日  在御判


   道樹殿
   詮量殿
   順高殿



解説 

 中村詮量が赦免になった寛政3(1791)年以後のお手紙と思われる。法難直後の緊迫感が伺われる。授与された人々は、「道樹」が河崎権右衛門、「詮量」が中村小兵衛、「順高」が高瀬十郎、てある。
 河崎、中村、高瀬、の3名は、いずれも寛政3年に寺社奉行で取り調べを受けている。また、3名ともに足軽小頭てあるど、中村詮量の自筆の記録にある。とすれぱ、3名は同僚の藩士であったかもしれない。
 「高声に片こと雑りの誦経は宜しからす候」「口早やによみ申す時は必ず皆片ことにあい成り候」「随分随分初心至極に御経を見て町噂至極に静かによみ申さるべく候。早口には無用存じ候」等、読経について注意されている。静かに落ち着いた心で、正確に読経することは現今においても大切なことである。

 

 


 

(6)第39世日純上人消息の一



三宝御本仏御奉行奉公等、専一にこれ有るべく候。諸有修功徳柔和質
(直)なる者にて御座候はねぱ、即皆見我身の成仏もとふざかり、在此而説
法の文底内証一大事たる秘法を直得し奉ることも甚だ遠々劫をも経り候こ
と故、随分随分諸有修功徳の御奉公ならびに柔和質直に色心の二法を仏意に
まかせ奉り、自他彼此につき世出二法につき我と起り来る善悪疎細ともに
皆ことごとく取り押さへて南無妙法蓮華経と本因妙の御内証より施したまふ
処の御はからいの御利益ならめと、兎につけ角につけ、我情を打ち捨て行
住坐臥ともに其の身其の心を下種の御本佛へ任せ奉り、信心行躰成就する
時は即ち其の当処、即皆見我身にして我が身の即身成仏とも、または三仏
の尊貌直拝とも申す一大事の身と顕われ別受事の即身成仏の大秘法たる久
遠御本尊の在此而説法の金口の相承をも納受し奉る事を成就申す事なり。能
く能く御信勘専一に我慢片執は今生名聞後世菩提の障りとは、我が祖御本
仏の御金文に候へぱ此れ等の段、能く能く得意内得して平日わするる事これ
無きを当流極信の行者の肝要の土台にてこれ有り候間、必ず必ず御用心専一
に候て、信修両段臨終の夕迄決定候て次の生には是非是非大願成就の御
祈り候様、第一の処御座候。  恐惶謹言


   天明5年巳10月                 日 純 御判


   詮量殿


解説
 天明5年10月、中村詮量(小兵衛)に宛てられたお手紙。天明5年は日純上人が日璋上人より法を附され貫主になられた年てある。
 詮量はこの頃、加賀藩の掃除裁許定役の人事割り振りに従事していたと思われるが、これより6年後の寛政3年(詮量が寺社奉行に富士派内得信仰について難詰され、投獄した年)には、30数人の配下をもつ藩の足軽小頭の役にまで昇進していた。
 このお手紙は、日純上人が青年詮量に対して、寿量品の御経文を引かれ、厳しくかつ丁寧に信仰を勧められたものてある。
 御手紙中とくに、詮量に「日常生活のさまざまな出来事(自他彼此のこと、世間、出世間の二法のこと)は、善悪ともども正面から受けとめ、すべて本因妙の南無妙法蓮華経の御利益とうけとめなさい。そして行住坐臥ともに下種の御本仏へお任せなさい。信心成就する時を我が身の即身成仏とも、三仏の顔貌を直ちに拝するという有難い境涯とも、いうのです」(取意)と言われた御言葉は、現在の私たちにとっても、得がたい人切な教えであると思う。
 詮量は、寛政3年に一端は投獄の憂き目をみたが、まもなく赦免され、藩からは何のお咎めもなく足軽小頭の地位に復帰した。信仰面では、金沢方面全体の講首となり、講衆のかなめ役として活躍した。没年は不詳。

 

 


 

(7)第39世日純上人消息の二



報恩抄三箇の秘法下、主師御示略解、
 およそ三箇の秘法は是れ常談のごとく、蓮興目と次第梯橙の御付属に
して所謂唯授一人の一大事の相承是れなり。然るに主師報恩抄三箇の下に示
して、この三箇の秘法蓮目興と次第相承する法門なり等。かくの如きの別
途の次第は是れ深き得意これある附属の次第にして富石代々の貫主のみ存
知する秘典の法門なり。ゆえに曽つて筆紙に顕はしがたし。然りといえども
今信士極信懇望さらに黙止かたく、ただ纔かに一句を示して以ってこれを
贈るものなり。あい構えて一見の後は堅固に秘して、かつ口外並びに他伝に
及ぶことなかれ。
 それ三箇の秘法とは九法界の上首僧宝の始めとして、それより已下悉く
一切衆生をして直ちに本有無作の仏法二宝の御内証へ帰入せしむる真秘微
妙の大法なり。しかして自然にこの附属の秘法において、三世常恒生死
の二法の御利益広大深遠なり。ここをもってこの大法の附属においても自ら
また生死の二附属の次第おわすものなり。所謂、生の御附属の次第は常途
の如く蓮興目の次第是れなり。さて次に死の御附属とは、今主師示したまふ
蓮目興の次第是れなり。生とは御三師の在世御在生の時の事なり。死とは御
三師入滅の死期に約するの節なり。
  (中略)
 甚大たる久遠の御利益は、語を以っても意を以っても之れを尽しがたし。

南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。秘すべし、秘すべし、

穴賢、穴賢。

  申4月仏誕生日 
               日 純 在御判
    加州住人

     中村詮量信士 授与之

 

解説

 これは「報恩抄三箇の秘法の下、主師御示略解」の標題が付されているように、お手紙というよりは、強信者中村詮量に与えられた法門書と理解した方がよいであろう。
 末尾に「申4月仏誕生日」の日付があるが、日純上人が貫主に就かれた後、申の年は天明8(1788−戌申)年と寛政12(1800ー庚申)年の二度があり、のいずれかを特定できない。どちらかといえは、詮量が投獄という法難を受けた寛政2年以降、寛政12年4月8日(仏誕生日)の法門書とみる方が妥当であろうか。
 これは、第14世日主上人の報恩抄(三大秘法が説かれている部分)の御示しをもとに日純上人が説明を加えられたものであり、内容的には富士法門の深秘な部分に立ち入っておりはなはだ難解である。血脈相承については、
 「血脈付属には生死の二次第があり、一方は、蓮興目と順次に次第する生の御附属であり、これを唯授一人の相承という。しかし、三箇の秘法には、蓮目興と逆次に次第する死の附属があり、これは富士大石寺に伝わる
秘典の法門てある」と仰せになられている。
 後段部分には、日有上人仰せの「仏は水、日蓮聖人は木、日興は水、日目は木と遊ぱじ候ひ畢んぬ」の説明もなされており、全体的に富士門流上代の法門の雰囲気が伝わる貴重な書である。

 

 

 


 

(8)第43世日相上人消息



 一、御小袖御服沙 
                                    前田栄春院

右は来たる12月12日是相院妙性日躰大姉第一周忌御相当、同来8月20
日長遠院妙相日如大姉第一周忌御相当につき御菩提の為、遥途贈り給 候
処、慥かにあい達し、いく久しく受納いたし早速着用候いて御服紗、御牌前
に打ち敷き、御経あい備え御両霊へ塔婆あい建て佛道増進追善供養の御廻向
随分御ねんごろに申し上げまいらせ候へぱ佛果得脱快く成就し給へて演
暢清浄法、我心大歓喜の悦を満たし給ふこと決定なり。殊に御両霊御在命
中に末法今時の一切衆生成仏得脱の種子たる法華経本門の大法受持し給へ、

法華経本因妙御修行他に越えて夥しき御丹誠候上、後々御志の御追善も殊
勝に候へば決定成仏踊躍歓喜疑ひなし。法華経神力品に曰く、我が滅度
の後に於いて、応に此の経を受持すべし、是の人佛道に於いて決定して疑い
有る事無し、と説き給へ、又提婆品に云く、十方の仏前に生じ所生の処に
常に此の経を聞かん、若し人天の中に生ぜぱ勝妙の楽を受け、若し仏前に在
ては蓮華に化生せん、と説き給へり。文の意は教主釈尊の滅後末法今時に
法華経本門の本因妙受持信行し本門寿量品の御本尊拝し奉るものは決定して
成仏疑ひなく、又十方世界の仏の御前に生れて常に此の法華経本門の大法を
聴聞して勝妙の大果報を得給へ、遍く十方世界に在て佛のごとく一切衆
生を利益し給ふべしと説かせ給ふ経文なり。故に天台大師は、如実の道に乗
して来て正覚を成ずる故に如来と名づくる、と釈し、妙楽大師は無二智に
乗じて来て正境に契する故に如来と名づく、と判じ給へり。如実の道、無二
の智と申すは信をもって恵に代へる故に御本尊と一体不二の信心なり。乗る
と申すは修行の事なり。信心の修行を運んで正境の御本尊日蓮大聖人の御意
に叶合し、一体不二の無作三身如来と顕わるる処を如来とも仏とも申し奉
るぞと申す釈の意なり。故に大聖人は、所詮妙法蓮華経の当躰とは法華経
を信ずる日蓮が弟子檀那等の父母所生の肉身是れなり、と遊ぱし、又無作
の三身本門寿量の当躰蓮華仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり、是れ即ち
法華の当躰自在神力の顕わす所の功能なり、敢へてこれを疑うべからずと遊
ぱし給へり。尤も主従師弟親子、いずれの離れも愚かならず覚ひ候へとも殊
に親子の別れ勝れて歎かわしく覚ひ候。然しながら、あまりに愁傷候はぱ
両霊佛果増進の障りにあい成り候はんと存じ候。天台の釈に因んであい考え
候に譬えば三世の中に過去は木の根なり。現在は枝葉なり。現世に拙なき歎
きの来たり候は過去修行の根薄く邪法の風雨に値ふ故なり。これをもって思
ひ候に、又現世は木の根なり。未来は枝葉なり。現在の根の修行悪しく邪念
の雲起って愁傷の大雨降りなぱ未来の枝葉難儀に値ひ、積みしげりたる枝
葉の障りにあい成る事眼然の道理に候。この事を天台大師、源遠けれぱ流れ
長く根深けれぱ枝しげしと釈し、妙楽大師は、もし善師に値へぱ三学増長
すること樹の根有って枝葉増長するが如しと判じ給へり。これ等の道理を能
く能く御弁ひ候て、ことわりながら御愁傷御とどめ、唯々一筋に信心御修行

候て世々値遇同生の仏果得脱を願ひ給ふ事肝要に存じ候。大聖人御書に云
く、法華経の文字は我等が目には黒き文字と見へ候へども仏の御眼には一々
に皆仏なり。譬えば金粟王と申せし国王は砂を金と為し、釈摩那と申せ
し人は石を珠と成し給ふ、玉泉に入る木は瑠璃と成る大海に入る水皆 醵
し須弥山に近づく鳥は金色なり。阿伽陀薬は毒を薬と為す。法華経の不思議
もまたかくの如く凡夫を仏と成し給ふなり。南無妙法蓮華経あまりあまりに
御志の勝れて覚ひ候故、御供養の謝礼かたがた愁傷の忘れ草と法門少々取り
込み故早々申しまいらせ候間、宜しく御申し達し給へと以上


    子五月                寿命坊 日 相 御判


   中村詮量殿
   山田真妙殿

 


 文化元(1804)年5月のお手紙と思われる。宛て先は、中村詮量、山田真妙・「日相御判」の上に「寿命坊」とあり、日相上人がすでに日宣上人に法を付され、寿命坊に隠居されていることがわかる。附属の年は、続家中抄によれば享和2(1803)年十月
  このお手紙は、大聖寺藩の臣下の妻女と思われる前田栄春院よりの小袖・袱紗の供養に対して、日相上人がお礼と勧信を認められたものである。藩禁制の宗旨ということからか、手紙を直接、栄春院に宛てず、中村詮量・山田真妙両氏より伝達させるかたちをとっている。
  栄春院は、前年の8月愛娘に先たたれ、さらに12月悲母が身まかるという不幸にみまわれた。愁傷の心深く、ありし日の面影が浮んでは消える虚ろな日々を送られていた栄春院に、日相上人は法門を説き起され、暖かい激励の御文を綴られている。一部を通釈すると、
  「いずれも別離というものは悲しいものだが、親子の別れはその中でも格別歎かわしい。しかしながらヽあまりに憂い悲しむ思いが強いと、かえって亡くなられた両人の仏果増進の妨げになりましょう。
  過去は樹木でいえば根の部分です。現在は枝葉です。現在の歎きは、過去の修行の根が薄かったゆえであります。これをもって考えれば、現在は木の根で、未来は枝葉ともいえます。現在の根の修行悪けれぱ未来の枝葉はまた難儀しましょう。何とか苦しみを乗り越えて信心修行に励みなさい」
 お手紙の最後部分に
  「愁傷の忘れ草と法門少々、取り込み故早々申じまいらせ侯間、宜しく御申し達し給へ」とあり、日相上人の御心と栄春院の嘆きの姿、詮量・真妙の立場まで察せられるようで大変印象深いものがある。

 


 

(9)第四十四世日宣上人消息の一



前月二十三日の御札、この十二日あい届き忝なく披見いたし候。まずも
って道中御無事に十二日に御着の条、大慶に存じ候。然れば、御別紙に松原
孝寿方へ御立ち寄り、委細御伝言下され候旨、忝なく承知いたし候。御留主
中、御家内乱妨におよび、飯米・銀子等紛失の由、当時の御難渋さ察し入り
申し候。罪障消滅の御祈念申し入るべき旨、承知いたし候。
 宗祖御義口伝、安楽行品の下に「末法において今日蓮等の類いの修行は
妙法蓮華経を修行するに難来るをもって安楽と意得べきなり」と仰せおかれ
候。この金言よくよく御勘考なされ倍々強盛の御信力肝要に存じ候。萬々
 重便に御意を得べく候。  不具謹言

   六月十五日                  日 宣 御判

 小林量全殿御報


解説 

小林量全については「伝聞記」の「講頭並に有功の人の交名」に「寛政、享和、文化、文政、天保、書写多く有功の仁小林平八宣寿院量全日得」とあり、法門書等を数多く書写し、金沢信徒の信仰形成に多大な貢献をしたことが伺われる。同じく「伝聞記」に明和年間に活躍した人として、量全の父・小林要全の名が挙げられている。要全も日珠上人から書状をいただいていることが記され、父子ともども強信の人だったようである。量全は若い時の入信のため長期にわたって活躍できたものと考えられる。
 この日宣上人のお手紙は、いつのものか特定できない。
 前月23日の書状が、この12日に届いた、というのだから富士
金沢の片道に20日間ほどの日数がかかっている。こうした不便のなか、身近なことを時の上人に報告し上人からは折にふれてのご指南があるなど、深い人間的交流があったことが知られる。
 恐らく量全が「自分の留守中、他門の輩が自分の家に乱暴狼籍を働き、飯米・銀子等が盗まれました。そのため難渋しております。自分の不徳のいたすところで、どうか罪障消滅のご祈念をお願い申し上げます」といった文面の手紙を日宣上人に送られたのであろう。同上人は、御義口伝の「難来るをもって安楽と意得べきなり」を引用して激励されている。

 


 

 

(10)第四十四世日宣上人消息の二



先だって、前田栄春院殿より送り下され候小袖等の御請まいらせ候処、あ
い届き早速御達し下され候段、御世話忝なき次第に存ぜしめ候。今度、山
田氏御取り次ぎにて前田氏御息女去ぬる亥十二月十六日御病死につき、御廻
向料として御供養に預り忝なく受納いたし御廻向執行つかまつり候。右前田
兵部殿御息女と申すは栄春院殿の御孫にて候や。もし左様候はぱ、去年中御
親子等三人の御別れ御愁傷推察いたし万一御信心御退転も有るべきやと存じ
候。及ぱずながら愚老の一意貴殿まで申しまいらせ候。宜しく御取り成し御
通達頼み入り候。さてさて栄春院殿御事、去年は如何なる凶年に候や。八
月は御愛子に御別れ老少不定とは申しながら老たるは残り若きは先立つ、
歎きの中の御歎き筆紙に申し尽し難き候処、またぞろ十二月は御悲母に御別
れ御歎き申すぱかり無く候へども、去りながら是れは順次の道理なれぱ御
あきらめの方も有るべきか。返すがえすも八月の御不幸御残念御事に存じ候。
其の上、十二月十六日には前田氏御息女御病死につき御廻向御願い、即寒紅
妙雪童女 断迷開悟、出離得脱の御廻向ねんごろに申し上け候。是れは栄
春院殿御孫にて候や。杖柱とも御楽しみの孫を先立たす重ねがさねの御愁傷
さっし入り言語同断御悔み申し上ぐべき様もこれ無き次第に存候。古歌に
   末の露 本の雫や 世の中の
     おくれ先きたつ ためしなるらん
先亡後滅の理なり。始めて驚くべきにあらず浮世。あだにはかなき朝露。
日に向って消るが如くと御諦らめ只々追善の御営なみ専一に存じ上げ候。そ
もそも此の法華経は、諸仏出世の本懐衆生成仏の直道にて御座候。女人成仏
の事、御妙判二十八巻二十四丁にあらあら仰せ遣わされ候。御披見成さ
るべく候。然るに、御悲母是相院、御娘長遠院御存生の内より、御信心強盛
の御方とあい見え候。数多の御経御題目御誦唱の御事、殊勝千萬佛果成就
は疑い有るべからずと存じ候。なお其の上、栄春院殿追善の御営なみ浅から
ず、先だっては我等方へ御小袖等贈り給わり、御丁寧に御廻向料の御供養に
預り、今度山田氏の取り次ぎにて御供養送り下され重ねがさねの御追善、殊    
に村沢女の御深信打ち敷き御粧の御事、かたがたの御追福佛果増進疑い無
く頼もしき御事に存じ候。御悲母御存生の内御孝養より御没後この大法をも
って御廻向成さるべく候御事、随一の御孝養に御座候。夫聖人御妙判に、
末代の凡夫この法門を聞かぱ我一人成仏するのみにあらず父母も又即身成仏
せん、是れ第一の孝養なりと御意遊ぱされ候。くれぐれも御信心退轉韓無く御
修行専一に存じ候。もし今日世事の障碍災難に驚き此の大法を捨てたはは
ば我身地獄へ落るのみにあらず、父母もともに地獄へ引入せん。是れ則、
日蓮門下の明鏡に御座候。必ず必ず生涯御信心退轉これ無き様御心懸は専一
に存し上げ候。右の趣、宜しく御繕い仰せ上げられ下さるべく候。以上。

    子八月二十人日                日 宣 御判

 中村詮量殿


解説
 先の日相上人の栄春院状と同趣旨のお手紙。宛て先は中村詮量。お手紙の年は文化元(1804)年と思われる。日相上人は隠尊のお立場から、また日宣上人は当代貫主のお立場からそれぞれ栄春院を慰め、かつ激励されたものである。
 お手紙中の「山田氏」は前出の山田真妙のこと。
 山田真妙は「伝聞記」に、「「天明、寛政、享和、文化、文政、天保、山田安右衛門本種院真妙日徳」と記されていることからも、長期に亘り、中村詮量とともに金沢法華講衆の中心的存在であったことが伺える。この手紙によれぱ、山田真妙が前田兵部の息女(日宣上人は、この子を栄春院の孫であろうか、と詮量に問われている)の亡くなられたことを日宣上人に取り次ぎしたようである。
 このように、真妙や詮量は講中の人々の日常的なことを歴代上人に取り次ぎ、さまざまな指南をうけるという大事な役割を担っていた。そのためには、まず自分自身が歴代上人の仰せをよく体得し、遵守することが肝要であった。ちょうどこのお手紙に、
 「末代の凡夫この法門を聞かぱ我一人成仏するのみにあらず父母も又即身成仏せん、これ第一の孝養なり」
 と始聞仏乗義の御文が引用されているが、まず自分自身が、しっかりと真実の法門を体得すること、そうすれぱ自然と周囲の人々の成道も叶えられていくこと、そう確信することが肝要だったのである。
 これは私たちが、法燈相続や広宣流布を考える時にも大変大切なことである。私たちの真実の信仰心の中に、父母の成道を遂げる力や、万物を生き生きと蘇らせる力も備わっている。それはまた、過去現在未来を一時におさめているのである。
 金沢法難の歴史でいえぱ、この頃の詮量や真妙の地道な信心修行が、後の天保年間に、第10代大聖寺藩主前田利極の正室寿正院が富士門流へ帰依することに見えない糸でつながっているのである。 

 


 

 

略年表

 

 


 

 

 

 

 

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