は じ め に

 本書は、継命新聞紙上に15回(初回昭和
6021日付) にわたって掲載した「金沢法難の群像」を一冊の本としてまとめたものです。
 日蓮正宗700年の歴史においては、数々の法難がありました。大聖人御在世においては信徒の受けたものとして熱原法難があります。この法難は、大聖人御一代の化導の上において出世の本懐にかかわる重大事でした。そのため機会あるごとに触れられてきましたが、大聖入滅後の法難についてはあまり知られていないのが実情です。
 私たちは、御在世から遠く隔った時代に生きています。したがって、御在世の時をしのぶとともに、減後の信心のあり方をも学ぶ必要があると痛感させられます。
 とりわけ、転宗転派の許されない江戸期において、御在世さながらに大聖人を拝し、厳しい法難を法悦に変えて、一所懸命に生きていた名もない先駆者たちの信心には、目をみはるものがあります。
 金沢法難は今から260年前から約150年間も続いた長期のものです。総本山から遠く離れ、一か寺もなく、藩禁制の宗派とされた大石寺派信仰を、彼らはなにゆえ死をも覚悟の上で持ち続けることかできたのでしょうか。そこには、今日を生きる私たちにとってたくさんの教訓がある上うに思上てなりません。
 正しい信仰をとるか、それとも権力の圧迫に屈するかというギリギリの選択にあって、彼らかどんな思いで正義を貫いていったか
――それは、私たちの信仰の根本にかかわるテーマであるはずです。
 彼らは、間違いなく富士門流の信心を受け継いでいました。そのほとんどか下級武上で生活も苦しかったにもかかわらず、その心の豊かさ、志しの強さは、もはや封建時代の一時期という枠を越えて、今もなお私たちの胸に迫ってきます。
 本書は、全体を通して、そうした彼らの信仰の雰囲気を、特語り調で伝えようとしたものです。
 資料編として、金沢の信徒に送られた歴代上人のお手紙10編を掲載しました。当時の信徒は、これらのお手紙を唯一のたよりとして信仰に励んだのです。時の上人と彼らの間にどんな心の通いかあったかを知る上で貴重な資料であると思います。なお参考として巻末に年表を附しました。
  「歴史とは現在と過去との対話である」と語った人かいるそうですが、ぜひとも彼らと対話する上うな気持ちで本書を読んでいただければ幸いです。

 


  目  次


はじめに

第一章 風雪の大地に立って
――長期の法難に耐え抜いた信心に驚嘆

        約百五十年にわたる法難
        内得信仰で法華講中を結成 
        世々代々の信仰の燈火 
        日寛上人の指南を拝して

第二章 正法興隆の夜明け
――藩主の理解で安穏に信徒増大     
       百万石文化を象徴する石川門 
       五代目藩主が正法を聴聞 
       藩臣も次々に内得信仰 
       幕府の最盛期
元禄文化の花開く 
       藩主他界で信仰に嵐が

第三章 暗雲と光と
――幕藩の弱体化で宗教統制強化――     
      藩の砲術師範が信者に 
      身延派が寺社奉行に虚偽の答申 
      寺請制度で民衆締めつけ 
      真の求道導く富士派信仰

 

第四章 僧了妙の改宗――富士派の不屈の信心を形成
      法悦感じながら石段登る青年僧 
      成仏の法への思いつのる 
      改宗が藩の重大事件に発展 
      藩内での大石寺信仰は禁制に

第五章 臨終見つめる澄んだ目
――生きることに真実の意味を見いだした人々
      加賀での寺院建立はかなわず 
      講名称に「臨終」の名冠す 
      信心の確信を歌に託す加藤丁哲 
      中山右門の臨終の行法 
      母の死で池田宗信は奮起

第六章 躍動する法華講
――賢明な生活態度で信行増進
      弾圧の中でも講を結成 
      藩は取締りに躍起 
      戒壇本尊へ
抜け参り

第七章 堅固な士台の上に――不退転の家庭築く婦人信徒
      池田宗信宅が類焼 
      日因上人が問答で指南 
      歴代上人と緊密な連携
      富涌女にみる女性の信心 
      女性信徒が歴代上人へ真心の供養

第八章 険しい尾根を越上て
――戒壇本尊への渇仰心が行動へ   
      決死の覚悟で本山参詣 
      この道、この山河が当詣道場 
      五重の塔建立に多大な寄与 
      金沢の地から二人の貫主

第九章 立正安国の調ベ
――相次ぐ災害直視し救世に立つ
      繁栄から下降の特代へ 
      続出する藩主の横難 
      お家騒動と天変地夭
      社会経済の混乱が極度に

第十章 逆縁流布の確信
――法難は正法流布の証しと実感
      代表数名が閉戸の刑に 
      仏法の真髄に迫る 
      無疑曰信の信仰の強さ
      異体同心で仏道に精進

第十一章 竹内八右衛門の牢死
――正法に捧げた尊い生涯
        藩の安泰願って入信 
        国主諌暁書を上呈 
        若き同志に後事託す
        安心の境地で逝去す

第十二章 法燈は若き人々の心に
―― 一万二千の信徒守る青年武士
        老雄の死が多くの人々を感化 
        寛政年間が法難の山場 
        中村詮量が信徒中心に 
        改方役所で堂々と応答

第十三章 役人を折伏する信仰者の姿――禁圧の口実与上ぬ配慮で主張
        同志の名探る役人
        詮量と役人の一対一の問答 
        正しく、強く、生きる
        用意周到な心の準備

第十四章 中村詮量の藩主への諌状
――正法正義にほとばしる情熱
        父の遺言を胸に秘めて 
        詮量自筆の諌状の内容
        
身命に及ぶも覚悟の上
        役人、詮量を禁牢に処す

第十五章 富士門流の命にふれて
――本因妙、観心の法門に生きる
        大聖寺藩主夫人の入信 
        なかった
法難意識 
        再び日寛上人の指南を拝して




資 料 編


     歴代上人のご消息・他
      
@第二十六世日寛上人消息      
      
A第三十一せ日因上人消息の1      
      
B     同            
      
C第三十七世日蜂上人消息の1      
      
D     同           2      
      
E第三十九世日純上人消息の1      
      
F     同           2      
      
G第四十三世日相上人消息      
      
H第四十四世日宣上人消息の1      
      
I     同           2     
      略年表     
      参考文献一覧

 

 

 


 

 

 

第一章 風雪の大地に立って


           長期の法難に耐え抜いた信心に驚嘆

 約150年にわたる法難

 「3つの丘と2つの川」
 しっとりとした雰囲気の浅野川、「美しき川は流れたり」と詩人・室生犀星をしてうたわしめた犀川の流れ。この二つの川をながにはさんで、東北の卯辰山、中央の小立野台、西南の野田山丘陵
――この起伏に富んだ景観をもつ金沢の地は、1月にわたしたちが訪れたときにはすっがり雪景色となっていた。前田家の墓(雪が深く墓まで行はながったが)のある野田山丘陵がら、金沢の市街地を一望しつつ、江戸時代中期がら後期にがはて、約150年ものあいだ風雪に耐え抜いた法難の主役たちに思いをはせた。
 法難は、今から約260年前の享保9(1724)年に始まる。この法難の特徴は、他に類例をみないはど長期にわたっていることだ。考えてみると、260年間のうち、法難のながった時期よりも、法難の時期の方がはるかに長いのである。わたしたちは、いくつがの問題提起をもって法難の舞台となった地におもむいた。
 法難の主役となった人たちは、そのほとんどが加賀藩(前田家)に仕える陪臣(家来のそのまた家来)、足軽(最下級の武士)といわれる武士たちであった。そうした武士たちが、封建時代のさまざまなしがらみのなかで、藩命が信仰がというギリギリの線で正しい信仰を貫き、長期の法難に耐え抜いたことは、驚嘆にあたいする。いったい彼らの信念を支えたものはなんだったのだろうか。
 また、真宗王国といわれた北陸の地、しかも封建時代の宗教がことごとく幕府
藩の下僕と化し、その変化を許さない固い地盤から、なぜ最盛時には推定八百世帯(数千人)、ある記録によれば一万二千人もの富士派信徒の誕生をみることができたのか。

 内得信仰で法華講中を結成

 この法難は、尾張法難と同じく、北陸の地に一が寺も末寺がないために起こった法難であった。内得信仰しかできず(封建時代は誰もが戸籍上の檀那寺に所属するため、他宗派の寺院に所属したままで当宗の信仰をしなければならなかった)、ときにはその内々の信仰すら厳禁されたのであった。
 そのため
――御本尊を正境として安置することができず、お巻きして筒の中に納めたり、壁をくり抜いてお隠ししたり、あるいは天井の裏に安置するなど、役人の目の届かぬ所に移し、命かけでお守りしたこともあった。さらには御本尊を拝する時は、城下の人々や隣人が寝静まるのを待って、夜中ひそかに御本尊を安置し声をころして、しかも真剣に唱題することもしばしばだった――という。
 このようななかで、どうして20近い講中がつぎつぎと結成されていったのか。ここに講というものの結束の力を、あらためて思い知らされる。金沢に初めて信徒が誕生した寛文年間(1670年ごろ)から今日にいたるまで、加賀の国(加州)の信徒へご下賜された御本尊は、350余幅に達し、また歴代上人のご消息も、現存するものだけで100通に達するといわれる。当時の信徒が、地理的にも、状況的にも恵まれないなか、いかに信仰の太いパイプで時の上人方とつなかっていたかかわかる。
 日本の屋根を越えての遠路の登山、それも文字通り死を覚悟して(見つかれば入牢か予想された)の旅に貫かれた心意気にも刮目しないわけにはいかない。こうした不自惜身命の信心のエネルギー源はなんだったのか。信仰の目的をはっきりと見つめ、全人生をかけなければ、けっしてできる
生き方ではなかろう。



 世々代々の信仰の燈火

 また、御本尊、ご消息文などの重宝か数多く残っている事実は、世々代々、信仰の燈火を絶やさなかったことを偲ばせるに十分である。彼らは、どのような思いで信仰の松明を次の世代から、また次の世代へと点火していったのだろうか。天明6(1786)年の老雄、竹内八右衛門の安祥とした牢死、そしてそのとき、後事を託された若き武士、中村詮量の目を見はるばかりの活躍など、この法難史のハイライトである。さらに特筆すべきことは、この金沢の地から第37世日璋上人、第47世日珠上人のお二人が貫主になられたことである。なぜ、こうした内得信仰の世界から、令法久住、正法厳護の大棟梁が出現せられたのであろうか。
 そればかりではない。あの総本山五重の塔の建立にあたっては、一か寺もない加州信徒の真心のご供養が江戸三か寺の信徒のご供養にも匹敵している。それは強制された信仰ではない。成仏を願う各人のひたむきな心の発露であった。そして末寺の建立をと心に刻んだ200余年にわたる加州信徒の願望には、頭の下がる思いがする。明治にはいってようやく一末寺の建立となるが、その間の忍耐強い信仰は、北陸人のねばり強さだけでは説明がつかない。
 いったい彼らの根底に燃えていた命はなんだったのだろうか。重要なテーマが、取材をしているわたしたちの心につぎつぎとよぎる。調査を進めていくうち、つぎのような問題、すなわち、藩が加州信徒に弾圧を加えて以来、この地はあいつぐ天変地異に見舞われ、藩主がつぎつぎと短命でこの世を去っている事実にもつきあたった。このことも、加州における「正法治国、邪法乱国」のテーマとして掘りさけてみたくなった。



 日寛上人の指南を拝して

 第一次取材のなかで、わたしたちは、彼らのなかに、必死に自分と人生と社会を見つめる、曇りなく澄みわたった眼を、かいま見た思いがする。
 最初の日の夜、松任市にある正信会布教所を訪れた。居合わせた十数人の方々と、住職を中心に、厳粛な思いで勤行をした。そのあと、この地に展開された法難を偲び、そこに示された道標をたよりに、その信心の一分たりとも再びこの地にとどめようと、互いに誓い合った。その際、弾圧の暗雲がたれこめ始めた亨保9(1724)年ごろ加州の一信者にあてられた第26世日寛上人の次のご消息を読み合った。

 

 かならずかならず信の一字こそ大事にて候。たとへ山のごとく財をつみて御供養候とも若信心なくばせんなき事なるべし。たとヘー滴一塵なりとも信心の誠あらば大果報を得べし。阿育王の因縁など思ひ出られ、(ふして)かならずかならず身のまづしきをなげくべがらず。唯信心のまづしき事をなげくべけれ



 身のまずしいことを嘆いてはいけない、信心のまずしいことを嘆きなさい、とのお言葉が、現在のわたしたちの胸につき刺さってくる。自身の名声欲、権勢欲に身をこかし、信心を失い、信仰を悪用する人もいる。また、その力の前に屈伏し、一時の見せかけの富貴にひたっている人も多い。

そのなかにあって、わたしたちはどんな状況であろうとも、いや状況が厳しければ厳しいほど、正信を信条とし、正信を拠点として邁進していかねばならない。法難史は、その信仰の尊さを教えてくれる。法難の勇者たちは、副業をしなければ生きてゆけないようなまずしい下級の武上たちであった。だか、その信心の豊かさは
260年たった今もなお、時の隔りを感じさせず、わたしたちを圧倒する。
 彼らの厳しい、苛烈ともいえる境遇からみれば、わたしたちはあまりにも恵まれすぎている。少なくとも法難などといえるものは、わたしたちにはない。しかも彼らの残した精神的遺産は、あまりにも豊饒で、巨大である。その信心の一分でも学びとり、わたしたちの精進の糧としていきたい。
 わたしたちが見た真冬の犀川、浅野川の二つの川は、真っ白な白山の雪の山波を遠く背にして、美しく澄んで流れていた。風雪の厳しさの中を生きた先達の心を、二重映しにしているように思えた。

 

 

 


 

 

 

第二章 正法興隆の夜明け


          藩主の理解で安穏に信徒増大


 百万石文化を象徴する石川門


 真冬の金沢は、静けさか漂っていた。いかにも静寂な、懐の深い街である。この街は、駅を中心としてつくられていない。金沢城址を中心として発展しているのが特徴だ。わたしたちは、金沢城(本丸は焼失してすでにない)の数少ない遺構の一つである石川門を、兼六園側からながめ、それから門の前にしばし立ち、ある種の感慨に胸をときめかせながら門の中へと入った。
 この門は気品をたたえつつ、しかも重厚で豪壮な構えのなかに威厳をもっている。その大きさにも驚嘆したが、なによりも、歴史の風雪のなかにそびえ立つ毅然とした風情が印象的だった。鉛の屋根、目にしみいるような白壁、それが雪に映えて、美しさと豪快さを増していた。石垣もみごとだ。
 わたしたちの感慨
――それは、ひとつには加賀、越中 (富山)、能登三国を支配し、かつ日本随一の百万石の雄藩=加賀藩の権力の象徴ともいうべきこの門に刻まれた、有為転変、栄枯盛衰への思いであった。もう一つには、この門から入って藩に仕えつつも、常住不滅の妙法に帰伏し、権力の門の威圧に屈することなく、敢然と信心の門へ入って動じなかった中村小兵衛(詮量)たちの、けなげな姿への思いであった。

 五代目藩主が正法を聴聞

 加賀の地に、初めて富士派信徒が生まれたのは寛文年間(1660年代)といわれる。寛文11(1671)年に、加賀の信徒杉本小左衛門に、第17世日精上人から御本尊が下符されている。さらにそれから9年後の延宝8(1680)年には、金沢法華講が誕生し、そのころから金沢の地で入信する人々が多く、飛ぶ鳥を落とすような教勢となっていた。これには、名君の誉れの高い第5代藩主前田綱紀(初代藩主は有名な前田利家)の、富士派信仰への深い理解があったことか挙げられる。
 綱紀は、徳川幕府の大名統制である参勤交代の制度のため、江戸で生まれ育った。第4代藩主光高が、31歳の若さで病死したため、綱紀は3歳の幼児でありながら第五代の藩主となった。

その治世は79年にもおよび、82歳という前田家歴代藩主のうち、最も長生きした大である。
 学問を愛し、有能な学者を集め、また日本全国はおろか、中国、朝鮮の書籍も数多く蒐集し、新井白石をして「加賀は天下の書府なり」とまでいわしめた。また、有名な加賀象眼、加賀蒔絵などの美術工芸にも寄与し、さらに農民を大切にし、善政を施した。まことに、加賀百万石文化の土台を完成させた英主である。綱紀自身もすぐれた学者であり、数多くの著書を残している。その旺盛な学問を求める心が、大石寺法門へと傾いていったのは、彼が23歳の時、寛文3(1663)年といわれる。後に、幕末から明治にかけての金沢の信徒・辻量義が著した「北陸信者伝聞記」(以下「伝聞記」と略す)には、大略次のよに記されている。
 
――大石寺法主日精上大が江戸下谷(いまの東京・上野近く)の常在寺(院)に出張され、日蓮大聖人の三大秘法の御法門を説かせられた折、綱紀公が聴聞し、側近く仕える家来たちにも、「日本国に文武二道に達した英才士(すぐれた才能の人」は日蓮御坊であると、つねづね水戸の黄門公とも話合っている」「おまえたちも往って聴聞してごらんなさい」と仰せられていた。若い藩士たちで、この仰せにしたがって正法を聴聞し、内得信仰をするようになった人々が、どれほど多かったことであろうか。
 このとき以来、宗門において内得信仰が始まったということである。その後、江戸づめの武士から国(藩)おもてに正法が伝えられた。これが、北陸の国々に正法が弘まった根元である
――


 藩臣も次々に内得信仰


 江戸の加賀藩邸(現在の東京大学構内は、加賀藩の屋敷あとである)の近くに常在院(現在の常在寺)があり、綱紀はその門をたたき、説法を聴聞したのであった。第31世日因上大が竹内八右術門に与えられたお手紙によると、綱紀は、当宗の秘伝書である「本因妙抄」「百六箇抄」なども拝し、つねに本門の題目を唱え、内心では仏法の邪正をわきまえ、また藩主の立場を考慮しつつも、人々に正法を信受せしめたことがうかがわれる。
 また、「この秘法(三人秘法)をよくよく信行する時は、国土もおさまり栄え、人々もよく身をたもち、家も断絶することなく安穏であり、快楽である」と語っていたという。この藩主の信仰(内得信仰)が、北陸の地に、正法が流布していく第一期(綱紀の時代)の要因、史的背景といえる。事実、この時代は平和であり、安穏であった。また、正法を信ずる人たちも、内得信仰とはいえ藩主という強力な後楯かあったために、ほとんど苦難らしい苦難を味わうことがなかった。
 華保12(1727)年に第28世日詳上人か、前田家領内に末寺創建の願いを出したが、そのなかに「領国において数十年来、累代信受(代々の信徒の合計数)数千人」と記されている。この数千人は、ほとんどが武士であった。当時、藩に所属する武士は6、7万人の大世帯であり、あるいは1割に近い人信者かあったのかもしれない。家老(加賀藩の家老は他の藩の大名と同じくらいの力をもっていた)の奥村家、横山家も内得信仰をしていたといわれ、わずかのあいだの急速な発展には目を見はるものがある。この時期を、北陸における正法興隆の夜明けといってよいであろ
う。

 幕府の最盛期
元禄文化の花開く



 社会、国土が平和、安穏であったのは、加賀藩ばかりではない。綱紀の治世は、幕府においては、三代将軍徳川家光の終わりから、四代家綱、五代
綱吉、六代家宣、七代家継、八代吉宗の初めにまでおよんでいる。この時代は幕府の安定期であり、とりわけ五代将軍綱吉の治世(1680〜1709年)の、この約3分の1世紀は、幕府の最盛期を迎え、いわゆる元禄文化といわれる豪華けんらんたる江戸時代の文化の花が咲いたのであった。

 こんにちでも、戦後の一時期、高度成長の時代を
昭和元禄と呼んだことがある。あたかも人平洋戦争か終わって20年くらい経ってからは、戦争があったことかまるでウソのように、人々は大平ムードのなかで生を謳歌し、いつまでも生きながらえ、死ぬことさえ忘れはててしまったかのような時代風潮にひたっている。元禄文化という時代の空気を呼吸していた人たちも、一世紀以上前、戦国の動乱があったことを夢のごとく思い、平和と安穏を謳歌していたであろうと推察できる。財政も豊かで、農村の生産力は増大し、また儒学、国学、俳句や小説の世界、歌舞伎、工芸などあらゆる面で名大・大家が続出した。町大文化も隆昌していった。
 加賀藩は、かって外様大名として、幕府からもっとも警戒され、藩もまた、幕府の目を最大限に気にしていたが、この綱紀の時代になり、元禄2(1689)年、将軍綱吉より前田家を徳川御三家に準ずる、という破格の親藩扱いとなり、幕府と心を許し合える仲となった。すべてが順風満帆であった。

 藩主他界で信仰に嵐が
……

 しかし、その後、時代は大きく崩壊の足音を高めていく。だれもが考えていなかった苦難の時を藩全体の人々も富士派信徒も迎えていくのだ。
 享保9(1724)年、綱紀が他界した。その前年に、第六代の吉徳が藩主となり、これを契機として、急転直下、正法信仰者に対しての弾圧も始まり、激しさを増していく。まさしく「月に村雲、花に嵐」(『伝聞記』)であった。法難のため 1時期はヽ第32世日教上人の「既に正法の信仰者滅尽しおわんぬ」とのお言葉のように、少数の人々を除いて、正法は絶えたかにみえた。信仰の本当の強さ、深さにおいては、幾多の試練をへなければならなかったのであろうか。
 綱紀というあまりにも大きい後盾があっての信仰であった。そのための安心感からか、寺院創建の申し出も遅きに失した上うである。ある意味で、ムードに乗った信仰であり、後援を失ってみてヽはからずも挫折感を味わったのである。しかし、やがてそこからいかなる風雪にも動じない、正法信受の大樹が育っていこうとしていたのだ。
 時代もまた、大きな曲がり角に立ち、かってのバラ色の未来は消え、不安と焦燥に満ちたものとなっていった・「死とは」「生きるとは」という本源的な問いかけを、一人一人が持っようになる。とくに、下級武士たちほど冷厳な目で、生死の問題に立ち向かわなければならなくなっていくのだった。

 

 

 


 

 

第三章 暗雲と光と



          幕藩の弱体化で宗教統制強化



 藩の砲術師範が信者に

 わたしたちを乗せた車は、能登に向けて海岸線を走っていた。途中、千里浜という所で降りて、しばしたたずんだ。空も海もうす暗く、鉛色をしている。波の音は、ざあ
――っとも、ごお――っとも吠えているようだ。海岸の砂のつぶは小さくてかたく、観光バスやトラックが走ってもタイヤが食い込まないことに驚いた。この辺では、青空が広がることはめったにない。ちょうど正午近く、海岸線の遠くに青空がみえ、鉛色の海の彼方は金色に輝き、海の上も金ぱくが舞うように金色に煙った。鉛色の空と海、そして青色と金色の空と海。その二つがくっきりとしたコントラストとなり、幻想的な世界を現じていた。
 暗雲と光
――権力による弾圧と民衆の信仰の強い光線、そんなドラマを思わせる世界にひたっていた。
 享保9(1724)年、前田家の家老・奥村丹波守の重臣で稲富流の砲術師範、禄百十石という重責にある福原次郎左衛門の信仰が表沙汰となった。福原氏は、寛文(1660年代)のころからの富士派の大信者であり、多くの人を折伏し、教導し、加賀の地における最初の講頭となった人である。この人と並んで大信者として挙げられる人に、五十子善右衛門がいる。やはり福原氏と同じく「大法最初の大信者」(『伝聞記』)であって、奥村家に仕える禄二百石の重臣であった。
 この二人の活躍ぶりには目をみはるものがあったようだ。たとえば、五十子氏においては、授与された御本尊を根本に、毎月二回、お講を務めていた。奥座敷の御宝蔵前(御本尊ご安置の場所)で勤行し、大勢の人を教化していった。記録によると、毎月23日と26日の夜に行なわれたとされている。これによって、時には奥村家の家中数十人の信者が生まれたとも記されている。福原氏の活躍も、およそこのようなものであったと考えられる。
 内々の信仰とはいいながら、さして秘することもなく、公にお講をしていた。第5代藩主のときはそれでよかった。しかし、第六代の吉徳が藩主となるや、領地に末寺のない大石寺信仰は、取締まりの対象となっていった。福原氏は、宗門改めの詮議において、「大石寺信仰をやめては」との意見に対して、「絶対にやめることはいたしません」と主張し、自分の信念を曲げることはながた。かりにも藩の砲術師範となれば重要大物である。その信念の強さは、藩内に大きな波紋をなげかけた。

 身延派が寺社奉行に虚偽の答申
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 いったい富士大石寺は公儀認可の宗門なのかどうか、宗門改方奉行から寺社奉行に問い合せがなされた。ところが寺社奉行には資料がなく、直ちに配下の役寺である妙成寺に照会したのである。同寺は、羽咋市にある日蓮宗身延派の寺で、前田家に由緒深く、能登の滝谷にあって、北陸の日蓮宗全体を取りしきっていた。
 同寺からは、「大石寺は、江戸方面では名を富士派にかりて公儀が厳禁している不受不施派および三鳥派を、陰に信行するものがいる。したがって表向きは大石寺派を名乗っているが、本当は邪宗である。この邪宗はめだたないため、なかなか表面では知りがたい」といった趣旨の、虚偽の答申が二回までなされている。この答申は、この地における大石寺信仰を弾圧するには、実に巧みなロ実になっている。というのは、大石寺派の信仰は、大下に認められた公のものであったので、それをこの国(藩)に限り禁ずることは直ちにはできない。そのため、公儀禁止の不受不施派とか三鳥派にことよせているからである。つまり正面からの批判ではなく、幕府や藩が禁制している宗派と結びつけて、大石寺信仰を闇から闇へと葬り去ろうとする意図が露骨にあらわれている。            
´
 暗雲は深くたれめてきた。幸いに家老の奥村家では内得信仰の伝えも下士で福原氏を庇護したのであろうが、寺社奉行も宗門奉行も、福原氏の内得信仰を妨げようとはしなかった。しかし、この答申が、翌々年(享保11年)の国禁の原因になろうとは。このころ、享保年間の幕府の宗教政策は強まり、宗門改め、さらに寺請制度はいちだんと厳しくなっていた。幕府からは巡検使が、また大目付の放つ隠密が目を光らせ、百万石の大藩である加賀藩も内部の統制を強めていた。
 福原氏の信仰が表沙汰になった前年の享保9年には、大石寺信仰に対して藩から「改宗警告」が出されていた。この警告に応ずるかのような妙成寺の答申は、法難を加速させるに十分であった。

 享保9年には、福原氏は難をまぬがれたものの、翌々年の享保11年には、大石寺に登山したとい理由で林源右衛門、中島津左衛門、音田次兵衛、松本弥兵衛などの幾人かの下級武士が閉門の刑にあっている。

 寺請制度で民衆締めつけ

 

こうみてくると、金沢法難の根本にあるものは幕藩体制における宗教政策と、そこに身を置きつつ、真実に目を開いた人々の、やがて起こるであろう激突であった。まず、わたしたちはこの点を重視して、金沢法難を位置づける作業が緊要であると考えた。それには、幕藩体制と当時の仏教界の状態、そして大石寺信仰がどのように鼓動していたかを見る必要がある。
 江戸時代の封建体制け、鎌倉時代以来、積み上けられてきた一つの集大成であった。士・農・工・商という身分階級に分けられ、これを個人か勝手に動かすことは許されなかった。こうした動きは、仏教一般においても同じであった。仏教の教団は、幕藩体制下にあって、その支配機構の一端をになわされるようになった。そこには、あの鎌倉仏教にみられたような息吹もエネルギーもなかった。
 真宗王国といわれる北陸の地にあっても、かっての一向一揆は、戦国動乱の時代を通じて大名たちに利用された形で起きたもので、やがて権力の前にあえなく屈していった。のみならず、江戸幕藩体側の時期においては、真宗はまったく権力の下僕となりさがっていったといってよい。
 江戸時代の人々は、たれ人といえども、もれなくいずれかの仏教寺院に所属しなければならず、その証明をしてもらわなければならなかった。これを寺請制度という。寺院は藩に宗旨人別帳を提出し、戸籍役人となって、キリシタン狩りがなくなった後も、民政の基礎を掌握する役所の役割を任じていた。
 こうした制度は、寛永14(1637)年の島原の乱後、逐次全国的にしかれていったが、寛文9(1669)年の不受不施派(日蓮宗の一派)禁制、元禄4(1691)年の悲田派(不受不施派から分れた宗派)禁制、不受不施派69人の伊豆配流などによって、宗教統制を強めていった。

 それでも、きわめて限定された形の布教は黙認されていたが、元禄以後、享保年間に人り、急激に衰運に向かった幕府や藩では、自由な布教はその支配秩序を乱すものとして、脅威となっていったのだった。
 このような状況にあって、仏教一般の寺院は、民衆がその救いを仏教に求めても、それに応えうとはしなかった。いな、その秩序を守ることのみが、生きのびるための最善の方法であった。とりわは崩れゆく幕藩体制にあってはい権力側も、その一端をになう寺院も、新しい民衆の要求を押えることに汲々としていた。仏教は、もはや民衆にとって重苦しい荷物と思われるようになっていったのである。

 真の求道導く富士派信仰

 享保年間を境にして、人心の乱れ、天変地夭、経済状況の悪化はとみにまし、危機状況は深まっていった。こうしたときに人々の心を、仏法の求道へと導いた宗教があった。それが大石寺法門であり、富士派信仰であった。そこには、仏教寺院が忘れはてていた「民衆」そのものが脈打っていた。すなわち、三世にわたる救いとともに、現実を生き抜く人々に対して、苦しみを喜びに変える人生の豊かさと、この信仰こそか安国への道を開く、との確信を与えるものであった。
  封建時代を貫く支配思想は、「知らしむべからず、依らしむべし」であった。それに対して日蓮人聖人の仏法は、
  「真実以て秘文なり真実以て人事なり真実以て尊きなり」(全集515
P
  とあるように、体制とか、権力とか、権威などを超越して、全衆生の根底にある真実に立脚したものであった。
 これから述べる池田宗信、西田元信、竹内寿覚(八右衛門)、中村詮量などの信仰をみるとき、このような背景があったことを前提として考えておきたかった。権力の暗雲、そして正法の光−そこにこそ金沢法難の木当の意味を見究めるカギがあるように思えたからだ。

 

 

 


 

 

 

第四章 僧了妙の改宗


          富士派の不屈の信心を形成



 法悦感じながら石段登る青年僧

 享保11(1726)年10月13日(新暦の11月中旬)、一人の青年僧が、卯辰山のふもとにある慈雲寺に向はて、曲がりくねった細い坂道を登っていった。やがて五本の細道の分岐点に立って石段を見上げた。吹きすさぶ風は、厳しく冷たい。だが、その青年僧は込みあげてくる熱い感情をおさえるかのように、またすべてをかなぐり捨てた人間に特有の、一種のゆとりさえ感じさせる、すがすがしい表情をたたえていた。
 一呼吸するとその僧は、22の石段を一歩一歩荘重な足どりで上がっていく。その心には、何ものにもかえがたい正法を持ちえた法悦があった。その間、僧は、しばしこの一年間の出来事を静かに振り返っていた。

 ――きょうは10月13日、宗祖日蓮大聖人が滅不滅を現ぜられた重大な日だ。受けがたき人身を受け、値いがたき正法にめぐりあえた私は、なんと幸せなことか。半年前の4月17日、富士大石寺に帰伏し、富士門流の碩学で大石寺貫首であられた日寛上人の門弟となることができた。もはや私の心は動かない。慈雲寺の住職日義は猛反対するだろう。権力による弾圧も必至だ。しかし、たとえ身命におよぶようなことがあっても、この私の奔流のような心をとめることはできない――


 成仏の法への思いつのる

 

 


 その青年僧の名を了妙といった。了妙は11年前の享保元年、富士大石寺の内得信仰をしていた林源助という人が病死し、その法要の折、息子の源太夫と会った。その時の源助の成仏の姿に驚嘆した。また、源太夫の語る「富士太石寺の教えこそ成仏の根元の法」との言葉が胸に焼きついて離れなかった。大学者といわれた福原式治(『伝聞記』では第二章に登場した福原次郎左衛門とは別人として扱われている)も富士派に帰伏したとの話も聞いた。それもみな「富士大石寺は成仏の法」ということからであった。福原式治は、日寛上人から本因妙抄をいただいたほどの人であり、その博学、人徳を同上人から賞嘆されていた。丁妙は、「私も成仏の根元であれば帰伏したい」旨、源太夫に語った。
 その後、了妙は福原方ヘ赴き、「なにとぞ富士門流の教えを承りたい」と望んだが、いったんは、「出家の方に教えることはできません」と断られた。しかし、思いはつのる一方であり、しばしば寺を忍び出て福原氏をたずね、ようやくにしてさまざまな話をうかがうことができた。話を聞くたびに大石寺法門の正しさ、深さに胸打たれる自分を感じていった。8年前の享保2年に、京都の日蓮宗学問所である小栗栖談所で仏法を学んだのも、正邪を究めたかったからだ。しかし、そこには期待していたものはなかった。大石寺法門を学びたい、という了妙の気持はさらにつのった。
 加賀へ帰れば必ず福原方へ寄った。他に誰かこの門流について語ってくれる人はいないかと尋ねたが、ことのほか秘しているとのことで、丁妙も他の人がいるときは、大石寺門流のことはロに出さないように慎重を期したのだった。
 源太夫の継母が病死した享保10年9月、慈雲寺に所属している檀那であったので回向した折にも、了妙は富士門流をしかと承りたいむね源太夫に申し入れたが、「俗である私が出家のあなたに勧めることはできません」ときっぱり断られた。そこで「富士門流をこれ以上承ることはご当地加賀では不可能なため、上総(千葉県)の国にある細草檀林へ行きたい」と源太夫に語ったところ、源太夫は「それがいちばんよいでしょう。幸い継母の衣類等を売って作った銀子があります。これを使って下さい」と申し出たのであった。

 これより先、住職に細草檀林に行きたいと願い出たが、住職からは「お金がない」との理由で断られていたのである。しかし了妙の求道心に、響の音に応ずるように源大夫という外護者があらわれたのだった。了妙はうれしかった。さっそく住職にこの話をすると、「学問増進のためであり、助力さえあれば、いっこうにさしつかえない」との答えが返ってきた。丁妙はさっそく、細草檀林に行き、富士派の学俊という所化僧に会い、大石寺の法門をつっ込んで聞くことかできた。
 心は改宗へと動いた。その間、八品派の所化僧から「富士の所化とつきあってはならない」などとの反対にもあい、また「たとえ学俊を頼んで富士派に帰伏しようとしても、国許からたしかな請合い (保証)かなくてはダメだ」ともいわれた。             
了妙にはこの一年余の出来事が走
u馬燈のように浮かんでは消えた。
 
――忘れもしない去年(享保10年)の12月27日、寒風吹きすさぶなか、富士大石寺派への改宗を了解してもらうべく、やはりこの石段を登っていた。あの時と今と、自分の心は同じようでもあり、違うようでもある。あの時は心の葛藤があった。なにか大きなものに当って砕けよといった若さゆえの情熱かあった。今け葛藤もない。情熱も信念へと昇華している。以前は厚い雲がかかっていた。今は澄みわたった青空のようだ――



 改宗が藩の重大事件に発展


 了妙は享保11年4月17日、すでに日寛上人にその固い決意を認められ、富士派への帰依を許されていた。慈雲寺は、京都の本山本隆寺の末寺であり、本妙法華宗(別名日真門流)という日蓮宗八品派の寺であった。了妙の富士派への改宗を知った本山本隆寺も、慈雲寺も驚きあわてた。了妙の投じた一石は、あまりにも大きかった。さっそく慈雲寺は、藩の寺社奉行に訴え、了妙に対して直ちに帰国するよう命じた。その命に応じて了妙が加賀にもどり、慈雲寺に登ったのか奇しくも10月13日だったのである。
 藩では、かっては砲術師範の改宗が取り沙汰されたが、在家だったこともあり、こまかくは詮索していなかった。しかし今度の場合は、出家の改宗である。幕藩の宗教制度をくつがえすほどの重大事件であった。加賀藩におはる大石寺信仰の強さに脅威を感じた宗門改方は、八方探索を開始した。調べを進めていくうちに、驚いたことに数千大もの信徒がいるという事実につきあたった。
 一方、了妙は10月19日、師僧日義に対して陳状を提出した。そのなかには、「たとへ身命に及ぶほどのことあり候ても帰伏の心底相改め申す義、いささかもって御座無く候」との不退の決意が披瀝されていた。風雲急を告ける大地にあって、その信仰の根は深く、微動だにしない大樹の強さがあった。そしてこの一言こそ、法難を通じて金沢法華講の中に、不屈の信念を形成していった根源だったといえる。
 身命が軽かろうはずがない。どんな宝よりも、身命こそ有情第一の宝である。しかし、三世を通暁し、世界を無限の慈悲の光で照らす仏法においては、その正法に生きるものこそ真に命を輝かしいものとすることができるのである。「数千大の信徒」は、法難によって一時は瓦解したかにみえたが、それを蘇生させ、やがて一万二千人もの信徒を誕生させていくのは、ひとえにこの了妙の一言に込められた、身軽法重の精神であったといっても過言ではない。


 藩内での大石寺信仰は禁制に


 さて、これを機として、ついに宗門奉行、寺社奉行から藩の大老へと大石寺禁制献言がなされ、国家老から江戸家老を経て太守(藩主) へ披露され、大石寺信仰は国禁となった。時に享保11年12月。藩主は第六代吉徳であった。理由は、「藩に大石寺の末寺がなく、キリシタンや不受不施派、三鳥派と紛らわしく、宗門改めが行き届かない」というものであった。
 了妙は、このとき何らかのとがめを受はたようであるが、はっきりしない。その後の史伝にもその名は見当らない。しかし生涯、あの一言に託した決意を貫き通したことは想像にかたくない。
 第59世堀日享上人は、「この了妙の事寛師状(日寛上大の手紙)中に見ゆれば万難を排して(大石寺へ)入門したりと見ゆれども、終る所明らかならず、但し後日改名のために知る能はざるものか」と考証されている。

 

 

 


 

 

 

第五章 臨終見つめる澄んだ目


          生きることに真実の意味を見いだした人々



 加賀での寺院建立はかなわず

 享保11(1726)年12月、ついに加賀藩における富士派信仰は、公式に国禁(藩の禁ずる信仰)となった。総本山は、これに対して藩の領地内に末寺建立を願い出ることにした。翌年3月、第28世日詳上人は、願書を認められ、常泉寺住職日儀師を使僧として加賀藩の江戸屋敷(現在の東京大学敷地内)に届けさせたが、前田家はこれを拒絶した。総本山としても、前田家の強硬な態度をみて、これ以上刺激してはならないと判断し、事態の推移を見守るしかなかった。
 これより後、前田家の大石寺信仰禁止は幕末まで続き、元文5(1740)年、寛保2(1742)年、明和7(1770)年など、合計6回にわたる禁制の触れ状が出されている。この間約150年、金沢城下における大石寺派の信仰取締りは時に厳しく、時に寛大ではあったが、明和7(1770)年、7、8名が閉戸の実刑、天明6(1786)年には2名目が投獄され、一名が牢死し、寛政3(1791)年には一名が人牢している。これは明確な記録の上のことで、『伝聞記』ではさらにおびただしい人々か難にあったことを伝えている。


 講名称に「臨終」の名冠す


 それにしても150年もの間、一末寺ももたぬ彼らが禁制下の信仰を続け、たくさんの講を生み、強信者をつぎつぎと輩出していくことかできたのは、なぜであろうか。それは、臨終正念という仏法の最も重要なことが、次第に平素の信心に確立されていったからではなかろうか。僧了妙が富士派に改宗し、不退転の決意を披瀝したのも、大石寺法門が成仏の法であることをかたく信じて疑わなかったからである。
 まず、加賀の法華講のなかに「臨終一結講」「北郷臨終一結講」などの、臨終の名を冠したものかあるのに驚く。さらに、歴代上人のご指南のなかにも、『臨終正念大事』(日因上人)「宗有臨終相の事」(同)、『臨終作法の事』(日堅上人)、「臨終の根本と未来の御示」(日量上人)など、臨終に関するご教示か多い。
 日寛上人は、『臨終用心抄』を著され、日蓮人聖人の「されば先づ臨終の事を習ふて後に他事を 習ふべし」(全集1404
p)とのご聖訓を挙げられ、「臨終の一念は多年の行功に依ると申して不断の意懸けに依るなり、樹の先ず倒るるには必ず曲れるに随ふか如し」と仰せられている。こうした精神が、金沢の法華講の人々に法難のゆえにこそ浸透していった。いかに生きるかは、いかに死ぬかと無関係ではない。いかに死ぬかも、いかに生きるかと密接不可分な関係にある。
 死への畏怖を乗り越人、本当に生きることの意味を見つけたものの強さ、尊さを、わたしたちは彼らの信仰の中に見いだすのだ。


 信心の確信を歌に託す加藤了哲



 明和7(1770)年に信徒の張本人7、8人が法難にあったとき、そのうちの1人、加藤了哲は、自分たちの心境を歌に託した。
 「おちこちの人は御触れを聞く毎にまことののりのえにしをとどむL」ここかしこの人々は禁令の触れを聞くたぴに、かえっで真実の法の縁をとどめるのだ、との意)
 「法難の年月ながきふじのはなみのりの頃を待つぞ楽しき」(藤の花を富士にかけ、必ず大法か弘まることを信じた歌)
 「咲く花をちれとの風はつよくとも時ぞ得れば実り結ばむ」
 「さく花の路にはむすぶ法のみを風もあらしもいかにさらさん」
 いずれも、いかに権力の嵐が吹き荒れ、無常の花を散らそうとも、真実の常住の法はどうすることもできない、との強い確信に立った歌である。しかも「決定成仏の金言有難く侍れつ」として歌ったものであった。そこには、法難に対するにくしみも不満も感じられない。むしろ法難をつつみ込んでいくような、淡淡としたなかにも強い力を秘めた心か響いてくる。
 わたしたちは再び、犀川、浅野川の二つの美しい流れを思い浮かべた。彼らこそ清き
水のごとき信仰の人々ではなかったろうか。


 中山右門の臨終の行法


 法難の初期、中山右門という強信者がいた。この人は後に活躍する中村詮量を大成させた人であるが、その詮量の「法難の記」には、「先達了妙院(中山右門のこと)は正法の内得を黙止せず国制の難を被れり」とあるので、いずれの時期かに法難にあっていることは確実である。中山右門は、かなりの年輩で、金沢弘教の先駆的な役割をになった人であるが、この人の臨終の行法(法を行ずること)はすばらしかった、と伝えられている。記録によると、「病気のあいだすべて病苦がなく、勤行も止むことがなく、題目をロ唱しながら亡くなった。その臨終の顔、体も白く和んでいた」むね記されている。
 これに対して第三十一世日因上人は、金沢法華講の人々へ長文の手紙を寄せられて、中山右門の臨終の行法を称嘆され、次のようにご教示されている。「最後臨終の夕に到って、朝暮の勤行絶えず、昼夜の題目怠らず乃至臨終の砌に心静かに題目口唱したまふ、誠に以って当世日本国には北国第一即身成仏の手本なり(中略)請い願は北州の同行(一緒に信仰している仲間たち)等は宗有(中山右門のこと)最後臨終の行法を以って手本となし臨終正念に寂光土に入らせ給へ」。
 金沢の法華講の人々は、中山右門の泰然自若とした安穏な臨終の姿に、正法のすばらしさを汲みとったことであろう。そして、時の上人の指南を互いに銘記し、正信に生きることをひたぶるに念願したと思われる。その意味で亡くなった人たちもまた、その後の法難史を刻む立て役者であったのだ。


 母の死で池田宗信は奮起


 また、同じく、ほとんどいったんは表面的に壊滅状態になった金沢の法華講にあって、ひときわ光る信仰の巨星ともいうべき人がいた。あとでもたびたびふれる池田宗信である。彼は、犀川の近くの幸町に住む早飛脚を任務とする武士であり、総本山との往来、また信徒間の連絡の総責任者的役割をになっていた。よほど立派な信徒だったようで、日因上人は「面面は俗人の御事(藩への)御奉公をこそ人切と習い来り候はんに、不思議の因縁にて池田宗信と申す党人(仏法の道理をわきまえた人)に値い候て御書の文の心をも少々も御心得候事、殊勝の至りに存じ候」と、小川貞性という人への手紙のなかに記している。

この池田宗信もまた、母親の臨終正念の姿を強い信仰へのバネとしていったのだった。第32世日教上人が、法難の由来について認められた文献のなかにも、池田宗信のことがふれられている。


  少々の子細ありて御国(加賀藩)において騒動(法難)起こり、これにより年来信仰せる人々も悉くもって停止せられ、すでに正法の信行者滅尽しおわんぬ。しかりといえども、たのもしきことかな不惜身命の蓮祖大聖の厳命を重んじ、かつまた自分の現未(現世と来世)を恐れ、なおまた主君並びに先祖等の将来を深く悲しんで身業は一往は国法に任すといえどもロ意の二業は全く当出興尊(日興上人)の付弟と申し、無二信受の大賢人あり、すなわち名を池田宗信といい、ここに八旬 (80歳)に過ぎたる老女あり、晩年のいたすところ終に病患の床に打臥してただひとえに正念臨終の事のみを念ず、孝子(宗信)その心を感じてただ希くは(母の)存命の内に一句の法門を示す事を、よってこれかため粗々当体義抄の肝文を示すをもって臨終の助とするなり


 当体義抄の肝文をいただき、安祥として亡くなった母親か、その安らかな眠りを通して、その宗信に伝えたものは何か。
宗信よまけてはてはならない。お前がこの北陸の大地に大法を弘める粒の種となるのだ。宗信よ真実の信仰に生きよ、試練にうちかて”――そう語っているような臨終の母のロもとには、笑みさえ浮かんでいるようだ。
 死して死にあらず、永遠に大法に生きゆくものの荘厳な死。宗信は奮い立ったことであろう。最初の法難後、わずかな強信者が残ったにとどまったか、この臨終正念の信仰から、再び新しい水脈をたたえはじめたのであった。

 

 

 


 

 

 

第六章 躍動する法華講



            賢明な生活態度で信行増進



  弾圧の中でも講を結成

  ひとたび弾圧によってめざめたゆるぎない信仰は、もはや権力によってはどうすることもできない折伏弘教の流れとなっていった。享保11 (1726)年に最初の触れが出てから9年の歳月が流れた。同20(1735)年6月、新しく講が結成された。その名も「法華本門大講」。第29世日東上人から講中に、「現当二世大願成就万歳救講」の授与書きのある御本尊が下付されたのだ。さらに2年後の元文2(1737)年、「本因妙講」が結成され、同じく日東上人から御本尊が授与された。金沢の信徒の喜びはいかばかりであっただろうか。
  こうした講の名称や、講結成にちなんだ御本尊の授与書きを拝するにつけ、当時の信徒たちが、再び「よし、これからだ」との強い意志を抱いていたことがうががい知れる。
 加賀藩では6代藩主前田吉徳の時代から、世相は物情騒然となり、だれもがいかに生きるかを剣に考えなければならなくなっていた。また、この世の不幸の原因を見つめざるを得なかった。これに対する答えが、大聖人の仏法にあると知った金沢の信徒たちは、敢然と自身に戦いを挑み、また立正安国の道へとつき進人だのである。
 こうした時期、元文5(1740)年11月13日、日因上人が31世の嗣法として登座された。金沢法難史は、この日因上人なくしては講れない。以来30年間、金沢の信徒の信心の支えとなり、弘教、その他生活万般にわたって根本的な指針を、日因上人は与え続けられたのであった。寛保元(1741)年には、「池田宗信講」を結成。教線は加賀にとどまらず奥能登にもおよんでいった。同年9月13日、能登の国、珠洲郡飯田村住人の柳瀬弥吉に、同上人の御本尊が授与されている。


 藩は取締りに躍起

 

こうした法華講の進展を、藩や他宗門が黙視したままでいるはずはなかった。元文5(1740)年、寛保2(1742)年と2回(最初を含めると3回)、たて続けに富士大石寺派信仰禁止の触れが出されている。堀日亨上人は、「吉徳代には頻々たる制禁の文献存在す(中略)これあるいは
 奉行達の故意のみにあらずして、富士信仰の瀰漫したるものにあらずやと思はる」と記されている。まさしく富士派信仰が弘まった結果、藩権力が取締りを強めたのである。
 とりわけ寛保2年の触れは、大老本多安房守、横山大和守の、藩内最高権力者二名による禁制の通達であり、藩の武士、町人、百姓にとってまことに重大なものであった。当時の信徒の活躍と、藩の対応がどのようなものであったかを知る上で参考になるので、禁制の通達を現代語訳で紹介しておく。


  富士大石寺派信仰のやからが近年多くなっており、俗人たちが宗義を勧めている現状だ。右宗派は、加賀藩内に末寺がないため、邪正紛らわしく、宗門改めが正しく行なわれにくく、その信仰をしてはならぬと厳重に命ずるよう、一昨年も宗門奉行を通じて、すべての人々に統一的な触れを出した。
  ところが、今にいたるも富士大石寺派信仰はやまず、それどころか非常にたくさんの人が信仰していると聞いている。たびたびのお触れに背くなど不届きのいたりである。たしかな証拠があれば厳罰に処する。その意をよく心得られ、組支配(=組頭、大名を補佐した年寄り)、与力(=諸奉行)、家来の末々まで申し渡していただきたい。

 この禁令の通達の中に、当時の金沢の信徒か、どれほど真剣に弘教に励んでいたか、また、大の名をもって弾圧しなければならない勢いとなっていたことなどかわかる。この強圧的な藩の姿勢に対して、金沢の信徒はひるまなかった。そしてより以えに賢明に弾圧に対処していった。
 ます第一に、不自惜身命の決意をいよいよ固めた。第二に、信仰は現実の生活の姿としてあらわれるもの、ということから、武士であればいよいよその務めに励んだのであった。藩としては、信仰を理由にするより、できれば世間的な過ちを口実として弾圧したかったのであるが、富士派信徒の信仰態度に、つけこむスキかなかったのである。第三に、こうした信仰、生活のあり方は、総本山の日因え人などにこと細かに報告された。金沢の多数の信徒が重刑に処せられぬよう慮って、慎重さ、用心、端然とした生活態度を植えつけていった同上人等の懇切きわまる指導が、彼らをして英雄主義的な火の信仰へと進ましめることがなかったのである。
 第四に、なんといっても金沢の法華講の人々の緊密な連けいか、異体同心の信仰の増進と冷静な判断を可能にしたのだった。彼らの信仰は、五代藩主前田綱紀の厚い庇講のもとにあったときのような、ムード的なものではなかった。日常的にはしっかりと生活の足元を固め、しかもいざという時には、自分の命とひきかえに正法を守りぬく決意を心に秘めていた。それゆえに、藩の家老をはじめ宗門奉行、寺社奉行の躍起の弾圧に対しても、
信仰をとるか藩命に従うかとのギリギリの線では、藩命を拒み、入牢する人々も多かったのである。

 


 ここで大事なことは、金沢の信徒が人牢したのは、信仰という自分の魂まで抹殺されることを拒んだからであって、それ以外の理由ではなかったということだ。のみならず、彼らは弾圧されながらも、その藩の安泰、人々の安穏を心から祈ったのであった。
 「願くは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん」(全集509p)と仰せられた大聖人の精神は彼らの胸中に脈打ち始めていた。彼らの信仰は、名聞名利、野心とはまったく異なるものだった。大聖人の仰せのごとく生きよう
――そう肚をすえると、そこには真実の世界が開けてくるのだった。


 戒壇本尊へ
抜け参り

 


 今に伝わる有名な
抜け参りの話も、真実に生きるものの喜びを物語るものといえないだろうか。
 禁制下において、江戸に向かう藩主の参動交代の時、行列の一行は必ず富士の吉原(東海道吉原術)に泊まった。幸いその行列に加わることのできた信徒(武士)たちは、藩主の到着したその夜半から翌朝にかけて、この吉原宿をこっそり抜け出て、約20粁の道のりをへだところにある大石寺に参詣したのだった。
 陣屋が寝静まるのを待って、ひそかに三々五々と抜け出し、やがて一団となって大石寺へと向けて必死にかけつける。そして大石寺へ着くと、石畳の上に端座して、戒壇の大御本尊に向かって、一心に数時間唱題したあと、藩主の一行が目覚める前に帰宿すべくかけもどる。このころ夜も白々と明けはじめる。ことに真冬の時などけ、凍てつくような石畳の上で、寒さを忘れて唱題を重ねた
――という。
 ここには現今の
登山会と称するような、利害や打算はみじんもみられない。この人たちこそ、本当に戒壇の大御本尊を眼前に拝した人たちだった、といえないだろうか。この人たちばかりではない。金沢法華講衆の大多数の人々は、一生の間、一度も大石寺へ参詣できなかったが、心は大御本尊を拝していたのである。だからこそ日囚上人は、「各々常に唱ふべきはただ南無妙法蓮華経なり。朝夕勤むべきは勤行なり。(中略)しかるに各々北の国に居ながら大日蓮華山の仏法を持ち奉ること有難く覚え候、いよいよ信心強盛に勤行唱題をつとめられ最後臨終の時を御覧あるべし(中略)是の人仏道に於て決定して疑い有ること無しの金言疑うべからず」と仰せになり、金沢の法華講衆を、北国にいながらにして戒壇の大御本尊を持っている人、と称せられたのであった。

 

 

 


 

 

 

第七章 堅固な土台の上に



          不退転の家庭築く婦人信徒



 池田宗信宅が類焼

 金沢法難は、150年の長きにわたるのだが、その間にはさまざまなことがあった。そのなかのいくつかの事実を紹介し、金沢の法華講の人々が自己の試練をどう乗りきっていったか、またその陰にはどんな支えの力があったかなどにふれてみたい。
 延享3(1746)年6月、池田宗信宅が類焼に見舞われた。彼は、それより5年前に結成された池田宗信講の講頭であり、金沢の信徒の重鎮の一人であった。犀川の岸辺にある現在の幸町付近、当時早道町(藩政の頃にはここに飛脚をつとめる足軽の邸があったのでこの名がある)に彼の邸宅があった。
 『石川県災異誌』(金沢気象台編)によると、「金沢の新竪町から出火、足軽町にかけ97軒が焼けた」と記録されている。なにしろ、総本山との間を往来し、指導のお手紙、御書、法門書の写しなどを伝えてくれ、杖とも柱とも頼んでいた池田宗信の邸が火災にあったのだ。それは、金沢の信徒の大きな悲しみであったことだろう。それに彼は、富士派信徒の中心人物の一人として、藩の要人や他宗に恐れられていた大物であり、この出来事によって周囲の人々から「日ごろ正しい信心といいながら、なんとしたことか」と冷やかな目で見られたと思われる。
 もとより宗信は、このような出来事で信心がぐらつくような人ではなかった。しかし、これを一つの機とみられた第二31世日因上人は、信徒がより深い信へと進むように、長文の筆をとられたのである。


 日因上人が問答で指南
 お手紙の中で、上人は一つの問題を提起された。
――――池田宗信は、法華本門の行者として年久しく信行を深めているので、よもや災難はなく、無始の罪障が消滅して現当ともに安穏なはずた。その池田宗信宅が類焼に見舞われたのは一体どうしてでしようか。――――この問いかけは現代にもそのままあてはまる。信心しているのになぜ交通事故にあったのか、なぜ死んたのか、病気になったのか、貧乏なのか、火災にあったのが、等々。

 

 

 この設問に対して同上人は、およそ次のように自答されている。まず世間の人々の悪業深重の与同罪、次に転重軽受を説かれ、この火災によって池田宗信は、加賀全体の人々を救う力をもつようになる。また成仏への誓願によって、この火災を縁として速かに仏身を成就して、常寂光土にいたることは間違いない、と激励されている。
 さらに
――わたしたちは「三界の火宅」にいるので火災はまぬがれがたいが、しかし、「如来の種子妙法蓮華経の心神を焼失せずんば終に即身成仏を臨終の夕べに現はし常楽我浄の四徳波羅蜜を霊山参詣の晨朝(=朝の勤行)に顕はし候はんこと努々之を疑うべからず」と仰せられている。また入念に追伸され、「世間の劫火は世事の器財を焼くのみにして仏種を焼き失うことなし」等と指導されている。
 わたしたちは、長期にわたる金沢法難をはねのけたものは、金沢信徒の信仰そのものにあったこ
を見てきた。日因上人け、何かにつけ、こうした根本の信仰姿勢の確立を教示されたのだった。上人は決して「信心がない」の一語で信徒を裁断されるようなことはせず、むしろ悲しいにつけ、うれしいにつけ、より深い信仰へと人々を導かれた。
 池田宗信もこのお手紙に接し、「そうだ、大事なものは
世事の器財ではなく、成仏の種子だ。この大切な種子を、大聖人のお力を得て、より多くの人々のなかに発芽させ、育人でいくお使いをはたそう」と奮い立った。宗信は、再び折伏弘教に力を入れた。彼の手によって、「池田宗信講」のほかに、もう一つの講が3年後にでき、「池田講」と名づけられた。

 歴代上人と緊密な連繋

 日因上人をはじめ、歴代上人と金沢法華講衆との間には、他にもきわめて多くの細かいやりとりがあり、興味深い。一例を挙げると、時代は下るが、天保6(1835)年に金沢の信徒から第48世日量上大(当時御隠尊) への「伺状」が記録されている。それによると、
 
――正法の信者が、盗みをはたらいたり、虚言で人を欺いたりするなど、世間的な不正を犯しても題目さえ唱えれば悪事が消え成仏ができるとして、悪事をなしては題目を唱え罪を消し、また悪事をなしては前のように繰り返していくというごとく、題目の力によって悪事を働く者がいるとすれば、本当に成仏できるのでしようか――
  それに対し、日量上人は、「当家の信者として悪と知りながら題目を楯として無晰無愧(=反省しないまま)に悪業をなす事大罪の至り、堕獄の極り言語道断沙汰の限りに御座候」と答えられている。不正を犯しても、それを信仰の名で正当化する人々もいるが、それに対する明快な回答がここにあるように思われる。信仰は、有為転変の世間相を超えたものである。しかし、と同時に、それは現実の生活のなかに道理としてあらわれてこなはればなるまい。
 金沢の法華講衆が、法のために死をも辞さない覚悟を決めながら、しかも自分の社会生活、家庭生活を大切にしていったのは、こうした上人方のキメ細かい適切な指南があったからである。法難に対するに、最も大切なことは、みずからの足元をしっかりと固めることであった。彼らは、社会的にも、家庭的にもしっかりとした上台を築きあげていった。
 そのためか金沢の地における婦人の信仰のすばらしさにも目を見はるものがある。婦人の信仰の輝きが、こうした強靫な法華講衆を形成した要因と思われる。
 夫が入牢などの罪に問われれば、世間的にはどんなにか苦しいことであろう。悪人の一家としての汚名を着せられ、物質的にも精神的にも、その家庭を崩壊させてしまいかねないほどの辛さに直面する。法難にあって退転ずる場合は、まずその家族の動揺によるといってよいくらいである。それほど正法を守りぬくには、家庭がその礎石となるものなのだ。いかに強烈な嵐があっても、その礎石さえ揺るがなければ、必ず耐えぬいていくことができるであろう。


 富涌女にみる女性の信心


 記録によれば、日寛上人がら「お富涌」と名づけられた女性がいた。富上山の「富」と涌出の「涌」をとってつけられたという。この人がどういう人が詳らかではないが、歴代上人から数多くのお手紙を頂戴しており、現在知られているものでは日寛上人「一通」、日詳上人「二通」、日忠上人「一
通」、日因上人「五通」、日教上人「一通」がある。時期は、享保年間から文政6(1823)年の100年間に及んでおり、おそらく若い時から、亡くなったあとまでも富涌女に、また同女にちなんで、代々の上人からお手紙が寄せられたものであろう。一人の女性が、これほどまでに、歴代上人に見守られている事実は、まことに驚くべきである。
 「伝聞記」には、「此の人女教員の始なり」とある。ここでいう「教員」とは、金沢に富士派の末寺がないため、信徒のなかでもとりわけ徳行の高い人を、リーダー格として任じた名称であろう。いがに女性の信心が大切であったかがわかる。このほかにも
「もしおごぜんお返事」「新井彦右衛門御内室状」「松田伝左衛門女房妙信状」「女人称歓成仏抄」ほか、数多くの、婦人に対する上人方の指導のお手紙がある。


 女性信徒が歴代上人へ真心の供養


 なかでも感動的なのは、唱題しながら真心をこめて一所懸命に袈裟を縫い、あるいは男女54人が白木綿単衣二つを仕立てて、時の上人にご供養したことなどが記されているお手紙があることた。また、このご供養に対して、「袈裟つける紋一つに五百遍の唱題と(中略)10月12日のお逮夜の御名代のみぎりにこれを着て」との御返事があるなど、時の上人方と女性信徒との美しい真心の通いが、わたしたちの胸にそくそくと伝わってくる。
 大変地夭、それにともなう凶作に加えて、藩財政がひっぱくし、ただでさえ家計が厳しいなか、夫を励まし、法難をしのび、信心のまことを法のために捧げた彼女たちのけなげな姿こそ、その子供たちが正法を受け継いでいくにあたって、不可欠の信心の大地であった
.

 

 

 


 

 

 

第八章 険しい尾根を越えて



          戒壇本尊への渇仰心が行動へ



 決死の覚悟で本山参詣

 第6章で
抜け参りの話を紹介したが、当時の人々が大石寺参詣をくわだてたのは、藩主の参勤交代の時を利用した場合だけではなかった。金沢から大石寺への参詣は、それこそ決死の覚悟の長旅だったにもかかわらず、それをあえて行なった人々がいた。早飛脚の池田宗信は当然のことながら、西田元信、加藤了哲、本沢宗清などの各講のりーダーたちである。そして、それらの人々とともにひときわ胸打つのは、齢70に達した妙厳日宗という老婦大の大石寺参詣である。おそらく、西田元信の講(宝暦3=1753年に彼を講頭とする一結講が結成)に所属していた婦大なのであろう。日因上人が元信にあてられた手紙のなかに、この参詣のもようが伝えられている。


  今妙厳日宗は本門直機なり。先年の登山は誠に以って千里の山川を越え、此の大日蓮華山に参詣し、本門戒壇の大御本尊を拝見、即座に当体蓮華仏と申す仏に成らせ給う。さてこそ70歳に及び500万遍口唱題目、又金玉 (財宝の意)を宝塔(五重の塔)に差上けられ、今度又世間の上衣(うわぎ)を捨て、宝塔の御供養を入れ、旁々以って功徳増進せり



 70歳を越えた老婦大の500万遍の唱題といい、五重の塔への真心のご供養といい、大石寺参詣といい、大聖大の時代に鎌倉から佐渡へわが子の手を引いて訪問した日妙聖人を、ほうふつとさせるものがある。

 

この道、この山河か当詣道場

 当時の金沢の信徒の大石寺参詣については、次のように伝えられている。
――加賀から東海道に出るには、どの道を選んでも、けわしい日本の屋根を越えなはればならない。多くは加賀から越中(富山県)五箇山、飛騨(岐阜県北部)白川村を経て美濃(岐阜県南部)に出たようである。駿州(静岡県)上野の大石寺までは150里(600km)はある。道なき道をかきわけて数日、やっと東海道に出る。信者だちは皆ひだすら富士大石寺の大御本尊を渇仰し、懸命にただ歩くのみであった。加賀を出て13日目、ついに富士の麓に着く。裾野より輝く日が昇る中に多宝富士大石寺を見て、皆、流れ出る涙を止めることができなかっだ――
 東海道に出ても、天竜川、大井川、富士川などを渡らなければならず、そこには橋もかかっていない。
 江戸時代の幕藩体制は、交通をすべて難儀なものとさせていだ。こうしたなかを、大石寺参詣をくわだてる金沢信徒のひたむきな行為は、現今のわたしたちの想像を絶する。わたしたち取材班は、彼らの求道の姿をそのまま文章として表現することが不可能であることを知った。それでも、なんとか一文にしたい欲求にかられ、5月中旬の2回目の取材で彼らが通ったと思われる加賀
越中五箇山飛騨白川村のコースを車でたどってみた。
 昼ごろ、わたしたちは五箇山に登る峠にさしかかった。あえて舗装された街道を避け、旧五箇山街道を走った。曲がりくねった道が続き、踏みはずせば下まで転落してしまいそうな断崖、車は左右上下に激しく震動した。藤の花が目にしみいり、ウグイスの鳴き声も晴天にひびき、さわやかであった。ほとんど人通りがない。自然のなかに吸い込まれていくような思いに、しばしひたっていた。美しい山水がそこかしこにあった。
 五箇山に登る入口の左下に、若杉という名の部落があったという。いまは人の気配も感じられない。昔は馬できて荷特をおろし、そこから五箇山に登ったといわれる。「旧五箇山道登り口」と印した標識も、ほとんど見落とすほど目立たないものであった。そこに人ひとりようやく通れるほどの急な坂道がある。獣道ともいわれ、ほとんど道なき道である。あの当時、金沢信徒が富士大石寺をめざして登ったかも知れない道を歩いたときは、感無量であった。近くに夫婦滝という大きな滝があった。涌水は冷たく清らかであった。
 わたしたちはたまたま晴大に恵まれたが、彼らが歩いたときは、こんな晴天のときばかりではなかっただろう。昔の人たちはよはどの健脚だったのか、ただ一本の狭い道を強い意志でひだすら歩いたと思われる。思いは富士大石寺ヘ
――それは一本の成仏への道でもあった。この道、この山河、この谷、この峠、それらがすべて当詣道場への修行の旅路であった。「道のとをきに心ざしのあらわるるにや」(全集1223P)との大聖人のご金一言が脳裏をよぎった。
 こうした大石寺参詣の姿は、常に仏とともに生きる、大聖人の御命にふれて生きようとする彼らの信心が、崇高な形となってあらわれたものであった。

 
五重の塔建立に多大な寄与


 彼らの信心は、五重の塔建立の際のご供養にもいかんなく発揮された。五重の塔は、地水火風空の五大を象徴する堂塔であり、本宗では妙法蓮華経の表徴である。一般仏教界で、七堂伽藍の一つである五重の塔が南向きにつくられているのに対して、本宗では仏法西漸の意義にちなんで西向きに建てられている。釈尊の仏教が西から東へ伝わったのに対して、大聖人の仏法が束から西へと流布していくことを形にあらわしている。それは、全世界に向けて、大聖人の仏法をここに立てたという宣言でもあった。
 同塔建立については、第25世日宥上人、第26世日寛上人、第27世日養上人の三師が常に話合われ、毎年50両ずつその基金をたくわえられていたが、第30世日忠上人のときに建立の達しがあった。いうならば、五重の塔の建立は大石寺歴代上人の宿願だったのである。大法流布への願いを強くいだいていた金沢法華講衆は、この達しを知り、心躍らんばかりであったろう。末寺がないゆえに、またその建立を藩から禁止されていたがゆえに、その思いが塔建立の熱誠へと高まっていった。
 寛延2(1749)年、五重の塔は完成した。金沢信徒のほとんどが、この晴れの法要に参詣できなかったが、感無量の思いで、自身の心のなかにそびえ立つ宝塔を仰いでいたことだろう。翌年に日因上人が認められた『宝塔建立之由来』には、「勧化金(仏寺建立のご供養金)惣高(全体額)一覧の覚」として、ご供養の一覧が記されている。それによると、大石寺の地元の人々が156両、江戸三か寺の信徒が348両、加州の法華講衆が307両2分ご供養したと記録されている。当時の江戸三か寺とは、常泉寺、常在寺、妙縁寺である。末寺もなく、厳しい禁制下におかれた金沢信徒のご供養は、江戸三か寺の信者のそれに迫るものであった。


 金沢の地から二人の貫主

 こうした記録をみると、加賀の人たちには財力があったかに思われがちだが、決してそうではない。前にも述べたように、彼らのほとんどが下級武士であり、あいつぐ天変地夭で生活がひっぱくしていたのである。金沢信徒のご供養は、義務感で行なったのでもなく、自分たちの名声のためでもなかった。ただただ大法流布への願いに貫かれ、しかも、信仰の燈火を継いでいくであろうわが子、わが孫のために、その未来を託すべく、信心の遺産を残そうとしたのであった。
 このようなたくましい信仰の息吹満つ北国から、二人の大法護持の棟梁が輩出していったのも、必然といえないであろうか。金沢出身の第37世日璋上人が安永5(1776)年に、同じく第47世日珠上人が文化11 (1814)年に貫主の座に就かれている。日璋上人の場合は第1回から50年後、日珠上人の場合は88年後である。

 

 

 


 

 

 

第九章 立正安国の調べ



          相次ぐ災害直視し救世に立つ



 繁栄から下降の時代へ

 藩内の大石寺信仰を禁じた大代藩主吉徳の時代から、天変地夭、飢饉、疫病などが続発するようになった。加賀藩ばかりではない。この時期を境に、日本の国そのものが繁栄から下降線をたどっていくのだった。もちろん天変地夭はそれ以前にもあった。しかし、一つには頻度が少なかったことと、卓越した指導者の善政が、それらを乗り越えてきた。たとえば、大石寺の法を内心では持ち、歴代藩主のなかで最も長命だった第5代綱紀は、百姓を非常にいつくしんだ。元禄8(1695)年、同人年の加賀での凶作、飢饉のときには、江戸から帰国するや米蔵を開いて百姓の救済をはかった。しかもそれから1年間、彼は城中の本御殿には入らず、翌年の秋の豊作を見届けるまで、手狭な蓮池亭(城外の離れ屋敷の一つ)ですごした。彼の救民と善政は、その後の尊い教訓として残っている。
 時運に恵まれたこともあろうが、やはり彼の心の中に、仏法の慈悲の精神が脈打っていたと思われる。なお、彼の時世から殉死(藩主の死とともに臣下が死ぬこと)も禁止されている。
 これに対して吉徳の時世以後は、幕藩の体制維持に汲々となり、百姓から年貢米の苛酷な取り立てをして、彼らを
"生かさず殺さず"の劣悪な生活環境においた。正法を執拗に弾圧したことに象徴されるように、そこには民衆への思いやりや信頼もなく、治政も、自己保身に強く支配されていったようだ。そのため徳もうすくなり、不幸な出来事が重なっていくのである。


 続出する藩主の横難

 


 老雄竹内八右衛門の入信は日因上人の代のようであるが、こうした世情を直視したからであった。ある時竹内八右衛門が、日因上人に問うた。「加賀藩で大石寺派を禁止しているのは、謂れがないわけではない。昔から加賀、能登、越中の三か国の内に末寺がないゆえ、宗旨改めの場合、邪正の区別が紛らわしいので厳重なお触れがあったのだ。まったく大石寺の正法に敵対しているのではありません」
――藩の武士として、藩主の側に立つのも当然であった。
 それに対して、日因上人は第五代藩主綱紀の信仰と善政にふれられ、対照的に第六代吉徳以後の 「藩主の横難」「お家騒動」「天変地夭」の不幸な姿はなにを意味するのだろうか、とじゅんじゅんとさとされている。そして、「近代北国に邪法を受くる故に正法を失ひ、先に内得信仰の人々も今は還って邪見謗法の者と成るかの故に、国中皆安んぜず、上下ことごとく害を懐き、ゆえに三代の国主横難を招く者なり」「今北国の家臣等日蓮大聖人の尊像を体無き(強引)に取り上げ土蔵に捨て置くはあに邪見謗法の罪科にあらずや。もし邪見謗法を改易(直し改めること)せずんば弥国中邪見盛んにして正法を失う謗法の者家内に充満して正法の行者を治罰し、結句は国家久しからず、人民を滅亡すべし」等と仰せられている。
 『加能読史年表』(日置謙編)でみると吉徳は、延享2(1745)年、金沢城で死去した。56歳。江戸からの帰途、足のはれもので苦しみ、その後1か月間、名医の治療のかいもなく、痛ましい死だったようである。そのあとを長男宗辰が継ぎ、7代藩主となったが、わずか1年半、22歳で夭死した。ついで次男の重煕が8代藩主を継いだが、これまた6年後、25歳で死去。そのあとを5男の重靖が継ぎ、6代藩主となったが、わずか5か月後、19歳で亡くなった。8年間で、4人の藩主がたてつづけに亡くなったわけである。
 また、第10代藩主重教は、吉徳の7男であるが、この時世もまたあとに記すように不幸の連続であり、藩財政の決定的な悪化に悩み続け、歴代藩主のなかで、この宣教ほど悲運な人はいないといわれるほど、失意とそれにともなう奇矯な行状のはて、46歳で亡くなったと伝えられる。


 お家騒動と天変地夭


 これらが日因上人の指摘する藩主の横難であり、次にお家騒動というのは、有名な大槻騒動をいう。これは大槻伝蔵の異例の出世と専横とを喜ばない家老などが、藩主吉徳の死後、伝蔵と吉徳の妾お貞たちがお貞の子を後継者として主家横領を企てた、として訴えを起こし、伝蔵は配所で自殺、お貞は暗殺され、伝蔵の関係者すべてが処刑された事件である。講談や芝居では、伝蔵がお貞と共謀して吉徳、宗辰の二人の藩主を暗殺し、さらに重煕を毒殺しようとして失敗したことになっている。多分脚色されたものであろうが、そうした暗いうわさが人々の間に広まるほど、藩内には不信がうずまくようになっていたのである。
 大変地夭については、『石川県災異誌』(金沢地方気象台編)によると、大火、地震、暴風、疫病、洪水、飢饉など、享保14(1729)年ごろを境にして、極端に多くなっている。こうした現象は、加賀藩を含む日本国全体の特徴となっている。「この江戸幕府中期の、100年に近い期間(1730年ごろから1830年ごろまで)は、不思議に、あらゆる大変地夭の災害がわが国を襲って社会不安をもたらし、人民は塗炭の苦しみを味わっている」(原谷一郎著『百万石物語』北国出版社)と指摘されている通りである。

 社会経済の混乱が極度に


 加賀藩が大きな打撃を受けたのは、先に述べたように第10代藩主重教の時世の出来事であった。大槻騒動の後遺症も癒えないまま、財政赤字がふくらみ、3代にわたる藩主の若死が続いたことによる予想外の出費が重なっていた。そこで宝暦5(1755)年、2万貫という膨大な借金のあな埋めのため銀札(藩札)を発行したが、これが失敗してたちまちインフレをもたらし、金沢内外に餓死者が充満した。さらに、各地に百姓一揆が蜂起するにいたった。翌年、銀札は廃止されたが、藩財政の破たんはいかんともしがたかった。
 そうしたなかで、わずか3年後の宝暦9(1759)年4月10日、金沢の地は空前の大火に見舞われた。火は2日間燃え続け、金沢城下の大半を焼きつくした。焼失家屋は10508軒に及んだ。猛火は本丸、二の丸、三の丸、大手門、坂下門なども焼き、米蔵にあった38万7千石の米も跡形もなく燃えつきた。この劫火は、処刑されたお貞の子、勢之佐のたたりだというデマが飛び、それがまことしやかに信じられるというように、社会不安、人心の荒廃は進んでいたのである。
 相次ぐ災害は民衆を大きな苦しみへと追いやった。
三界は安きことなし、なお火宅のごとし
――
金沢の信徒たちは、すさまじい現実を直視し、立正安国のために立ち上がっていった。「旅客来りて嘆いて日く近年より近日に至るまで天変地夭・飢饉疫癘・遍く天下に満ち広く地上に蔓る牛馬巷に斃れ骸骨路に充てり……」(全集17P)との有名な一節に始まる立正安国論は、彼らの胸に鋭くひびいたことであろう。
 この北国の地に正法を流布するしかない
――その信念は、牢死をも恐れぬ、やむにやまれぬ救世の折伏行へと金沢信徒を駆り立てていった。彼らはまた、自身の一生成仏を願って必死に唱題を続けた。
 加賀の講中に、「金沢題目講」「法華本門題目講」等の名称があるのも注目に値する。日因上人をはじめとする歴代上人は、加賀の諸講中に対し、常に異体同心、唱題、随力演説とを指南された。金沢の信徒は、何ものにも動かされない自身の不屈の信心、心の豊かさが、人々の魂を動かし、北国の幸せと安穏をもたらすと固く信じ、またそれを、自らの責任として感じていた。
 それは当時の為政者が、信を失い、猜疑心にさいなまれ、それゆえにこそ必死に権力の座をめぐって葛藤し、天災・人災のしわよせをすべて民衆におしつけていたのとは対照的である。正法の弘教は、明和7(1771)年ごろまでに南に小松方面、北に越中(富山県)岩瀬方面にまで伸び、加州小松講、越中岩瀬講が結成された。こうした動きを憤った藩は、さらに弾圧に厳しさを加えたのであった。

 

 

 


 

 

 

第十章 逆縁流布の確信




           法難は正法流布の証しと実感



 代表数名が閉戸の刑に

 明和7(1770)年、大老前田駿河守、本多安房守の名のもとに大石寺信仰禁止の触れ状が一般に出された。『加能読史年表』には、加賀藩の大きな出来事が記されているが、そのなかの明和7年の項目にも、「12月29日 加賀藩、日蓮宗富士大石寺派に帰依するを禁ず」とあり、藩全体に厳重な取締りを実施したことがうかがわれる。
 このとき、信者のリーダー格数人が閉戸の実刑にあった。『加賀藩資料』(前田育徳会編・発行)にも、「1、12月29日、富士大石寺派宗門之事に付、小立野にまかり有り候(小立野に住んでいた)西田丈右衛門(元信)等張本人7、8人閉戸致し候。陪臣或は足軽等の由」と記され
ている。陪臣とは家来のまた家来、すなわち臣下に仕えている者のことであり、足軽とは最下級の武士であり、弓組、鉄砲組などの構成員である。富士大石寺派の信仰をしていた人たちが下級武士であったことが知られる。
 ただでさえ下級武士であり、禄高が低いにもかかわらず、閉戸の刑にあえば無禄となり、しかも人の出入りが禁止されるため、他の人々との連けいもとれない。近所からも物笑いになり、陰口をささやかれ、苦しい思いをしたであろう。閉戸の刑にあった人のうち、西田丈右衛門元信、加藤三右衛門了哲、竹内八右衛門寿覚、桧物屋市右衛門、鳥羽幸右衛門の5名は、それからまる3年後の安永2(1773)年12月、11代将軍徳川家斉出生による大赦で赦免されるまで、閉戸がつづいた。
 なかでも西田丈右衛門元信はその赦免を知らず、実刑に甘んじたまま、その年の3月に病死した。彼は寛保3(1743)年に入信した。それから9年後の宝暦2(1752)年に西田講が、翌宝暦3年には西田元信一結講が結成され、それぞれ日因上人から御本尊が下付されている。当時、その人の名前を冠した講が結成されたのは、その講中の人々がほとんど名を冠せられた人による折伏の縁で入信したことを示している。そしてその後20年間、死ぬまで北陸の地で正法興隆に身を挺したことが記録に明確であり、西田元信の尊い生涯が、青年武士中村詮量などの心に生き、受は継がれていつたであろうことは疑いない。

 

 

仏法の真髄に迫る

 第5章で紹介した加藤了哲の歌は、西田元信が亡くなる半年前の明和9(1772)年の夏に詠まれたものである。了哲も西田元信も信心の心は一つであり、う一度次の歌を深くかみしめたい。
――おちこちの人は御触れを聞く毎にまことののりのえにしをとどむ――この歌を詠じた心を、加藤了哲は次のように記している。

 

  駿州富士山の麓大石の精舎に日蓮大聖人の出世の大事、己証の正法がとどまっていることは、加賀、能登、越中三か国の貴賤男女僧俗を問わずあらゆる人々が知ることがない。゛しかしながら、たびたび大石寺派の信仰をしてはならないとのお掛れが出ることは、人力のおよぶところではない。まぎれもなく仏神  が告知せられたものであり、逆縁の流布というべきである。例えば神力品における諸天の告〈神力品で諸天が虚空から、裟婆世界にあって妙法蓮華経を受持すべきであると高声を発したこと〉のようなものである。されば当時末法の弘法は逆縁を正意とするのである。故に予が一門(大聖人門下)は順縁(逆縁の上の)なりと示され、蓮祖を而強毒之の大導師と仰ぎ奉り、不軽菩薩のむかしを承継するのである。まことに信謗(信ずる者も謗ずる者も)彼是(相手も自分も)「決定成仏」の金言の通りみな成仏できるのであり、このご金言をありがたく拝して、その心を歌に託す。



 大石寺から遠く離れた北陸の地で、しかも一末寺もないなか、そして閉戸の実刑のさなか、加藤哲は実に日蓮大聖人の仏法の真髄にせまっていたのである。大聖人の仏法は一切衆生を救済す法門である。それは逆縁を正意とするからできるのであり、信ずる者も謗ずる者も、ともに成仏させる大法であることを、彼は、そして講中はきわめて自然に受けとめている。したがって大石寺信仰禁止のお触れをも
仏神の告知としてとらえ、逆縁の流布として正直に喜んでいるのであった。
 これはただごとではない、とわたしたちは思った。大石寺法門の真髄を彼らの信仰の姿のなかに、生き方のなかに感じたからである。彼らにとって、法難はもはや法難ではなかった。それはむしろ正法流布の証しであって、彼らは「決定成仏」を実感として受けとめているのだった。西田元信も、このような心境のなかに生涯を閉じたのだろう。法号は元信日泰。その名は永遠に記録にとどめてしかるべきである。

 

 無疑曰信の信仰の強さ


 すでに日因上大は、北陸の信徒に遺言にも似だお気持で、次のようなお手紙を寄せられていた。


無疑曰信に南無妙法蓮華経と唱へ奉る事尤も犬切なり。かつ又臨終の事は平生忘るべからす、別して一結講中異体同心未来までも相離れ申すまじく候、中に於て一人地獄に落人り候はば講中寄合て救取るべし、一大成仏せば講中を手引して霊山へ引導すべし、其の後北国中の同行(連れだって一緒に行く大、同志)乃至日本国中一閻浮提の一切衆生をも救い取るべく申し候、衆生無辺誓願度と申すはこれなり


 この日因上大のお言葉は、そのまま彼らの信心の指標であり、生きるよすがとなっていたことであろう。まず第一に、彼らは、いつわりのないまことの心で信仰を貫いていた。わたしたちは、彼らを理想化したり、美化したくはない。彼らも赤裸々な大間である以上、苦しみや悩み、時としては疑いの心もあったことであろう。しかし幾多の試練は、刹那に起こる「無疑曰信に南無妙法蓮華経と唱える」ことの強さと尊さを知らしめだのではなかろうか。現実の修羅葛藤、なによりも自分との戦いにゆれ動く心を、扇の要のように、あ一点が支えたのだ。それは、疑惑を断破したときの一瞬の心であった。大聖人のお心を、「一句一句感涙歓喜合掌南無妙法蓮華経」(第29世日東上人が池田宗信に与えられたお手紙のなかのお言葉)と拝する信心に不動の一点を見いだしていたのだ。


 異体同心で仏道に精進


 第二に、そうした信心を開かせたものは、生と死を直視する真剣な生き方であった。法難を法悦にかえ、泰然自若として死を迎えた西田元信もまた「臨終の事は平生忘るべからず」との言葉を自然のうちに身につけていたからであろう。そうした平生の信心を犬切にした彼らは、第三に、総じて人のことが他人事ではないような温かい心情を養っていた。おのれ一人よしとする独善、われ賢しとする僑慢、そこからくる嫉妬などが、臨終正念の信仰の前にはいかに空しいものであるかを知っていた。
 また、彼らには異体同心の姿があった。もちろん長期の法難に耐えるには、異体同心しかなかったのである。そして、それは一人一人をこよなく大切なものとして守り合い、啓発し合い、喜びも悲しみも分ち合って仏道に精進した。第四に、彼らは自分たちの生き方を社会の人々の手本とするように心がけていた。権力による弾圧を怨みで返すことなく、仏神の声として聞く彼らには、すべてのものへの報恩の念があったと思える。
 わが身一人は、北国の人々、いや日本国、全世界の衆生を含んでいる。その自分自身が正法を立て、一人、また一人と法を伝えていく行為そのものの中に、「一閻浮提の一切衆生をも救い取る」とのお言葉が、強く心奥にまで響いていたに違いない。

 

 

 


 

 

 

第十一章 竹内八右衛門の牢死



          正法に捧げた尊い生涯



 藩の安泰願つて入信

 安永2(1773)年12月、加藤三右衛門(了哲)ら5人の閉戸の刑が解けた。満3年の実刑であった。このうち、西田元信はすでに亡くなっており、竹内八右衛門は老齢にさしかかっていた。彼は無私の人であった。およそ、この人ぐらい世間の名聞名利に無縁であった人も珍しい。彼は、長い間足軽の小頭 (30人ぐらいの足軽の組の長)として若い下級武士たちの尊敬をうけ、また、たんたんと藩に仕えていた。彼の入信動機は、第6代前田吉徳以来、藩にうち続く災難への疑問からであった。知人の芝野源兵衛から正法治国、邪法乱国の教えを聞かされ、日因上人に伺いを立てた上で、まことの法が富士大石寺にあることを知り、うちふるえるような感動で入信したのだった。
 もともと、自分のために信仰したのではなかった。藩のため、人々のため正法を立てるしかないとの信念は、入信後、日ましにつのり、彼の周囲には同信の人々が広がり、いつしか講頭になっていた。八右衛門の入信から講頭への時期は、宝暦年間(1750年代)であったように思われる。文献は存在しないが、堀日亨上人によると、「宝暦年間に追込(閉戸の刑)を申し渡され、それが37か月(約3年)におよび、その刑がゆるされたあと一生妻をもたず、吉村清左衛門の家に寓して、追込中無禄であったためつくった負債を償却したとのこと」と記されている。
 下級武士であった彼にとって、1回目の宝暦年間の3年余にわたる閉戸の刑は、重いものであった。なによりも、この間の収入がなく、相当な借金を背負いこんだようだ。しかし、実直な彼は、その返済のために妻をもつこともなく、知人宅に寓して禄のほとんどをつぎこんだ。自分の生活の破たんが、人々に富士派信仰を疑わせることを憂えた彼は、全力をあげて借財を返済し終えたのである。藩の安泰のためには正法の信仰を、と声を惜しまず叫んだゆえの閉戸であった。それだけに自らの生き方をも厳しく律した。自身の姿が、藩の人々の鏡とならなければ、との信念から、清廉な人生を貫いたのであった。
 宝暦年間の37か月の刑を受けてから約20年、再び彼は加藤了哲らとともに3か年にも及ぶ閉戸の刑を受けたが、このときは1回目とは異なり、準備を整えていた。どんな法難にも耐えるだけの肝ができていた。彼は、この3年間も、無禄ながら辛抱に辛抱を重ねた。長い清貧の生活は、法難をはねのけるに十分な力を養っていたのである。

 

 国主諌暁書を上呈

 

 安永2年12月の大赦から12年後の天明5(1785)年、再び竹内八右衛門は藩から厳し                        い監視をされるにいたる。この時、おそらく彼は70歳後半ぐらいの年齢に達していたのではなかろうか。「自分の目的は、藩主に正しい信仰をさせることしかない、いま自分にできる藩への最後のご奉公は、この一書を上呈することだ!」――この一書とは、日因上人からいただいた主君諌暁書と呼ばれる一冊だった。

 日因上人が遷化されてから10数年、竹内八右衛門は、同上人が生前認めて授与してくださったこの書を、大切に保管していた。そして、機会あらば藩主に上呈しようと思っていたのだった。天明4(1784)年には、春夏にわたり飢饉・疫病が流行し、立正安国論に示されたような様相が北陸の地に現出していた。「もう余命いくばくもない。この余生を尊い正法のために捧げよう」――足軽の小頭でしかなかった彼は、命がけで藩主への上呈のツテを求めて運動した。今もって、
日因上人のお言葉が耳朶に残る。
 「藩がこのような理不尽な仕打をしている限り、50年のうちに大変事があるであろう。国恩のため身命をかえりみず、ここぞという大事な時にこの書をさしあげられるように」
 ついに竹内八右衛門は、この念願の一書とともに「正法に御帰依なさいますように」と、国主(藩主)を諌暁する書状を、同信の人で藩の上層部にツテのある田中長左衛門を通じて上呈したものと思われる。日因上人の認められた主君諌暁書と呼ばれる書は、第9章でも一部紹介した。竹内八右衛門が同上人へお伺いしたことへの御答書という形をとったものである。「・・・もし邪見謗法を改易せずんば・・・結句は国家久しからず、人民を滅亡すべし
……」。それこそ渾身からほとばしり出る国主諌暁のお言葉で綴られている。

 

 若き同志に後事託す

 この諌暁書の上呈の結果、天明5年10月、竹内八右衛門はついに3回目の閉戸となった。翌天明6年3月にいたるまで、なんの音沙汰もなく、閉戸の刑は続いていた。田中長左衛門は、こうした藩の仕打ちにひどく腹をたて、「竹内氏は不惜身命の精神で御国へ恩を報じようとしている人である。この人を咎められ、しかも言上の趣を用いられないというのは、あまりにもご政道が一方的不当である」「竹内氏言上の趣を御用いあるべきである」との諌暁および催促の状一巻を藩へ上呈した。
 竹内八右衛門は、田中長左衛門の行為とその気持がありがたかった。しかし、このことが富士の信徒への大弾圧のきっかけになるのではないかと心配したのであった。「早晩信徒に一大事が及ぶだろう。自分もまた死を覚悟しなければ・・・」老いの身の彼にとって、入牢は死を意味していた。もとより
国恩のために身命に及ぶことは、彼自身覚悟の上であった。彼は、自らの死が、同志の人々が生きて活躍することとつながるように、とひたすら祈った。そして、後事を高瀬順高、中村詮量、永山業山、山田真妙等に託したのであった。
 八右衛門は、将来のために用意した末寺建立の資金、講中および自分に授与された御本尊等を、これらの後輩に託し、また、一巻の自筆の書を遺書としてとどめたのであった。その書状中の、「この正法を持つ時は一切邪欲を断ち切り、少欲にして万端淳直に心得・・・」との言葉は、彼の真骨頂をいかんなく発揮している。

 

 安心の境地で逝去す

 案の定、竹内氏は田中長左衛門とともに3月6日、割場(足軽支配の部署)預けとなり、4、5日を経て入牢となったのであった。彼は、どこにあっても御本尊の尊容を心に拝し、端座合掌していた。だから他門の者たちが彼の姿をみて、「読経絶やさず候」と驚きの声を発したのであった。
 4月28日、立宗宣言の日、彼は死期の近づいていることを知った。その心にはもは
冬の金沢はなかった。すべてをなしとげた安心の境地――それは、わたしたちの見た犀川峡の風景にも似た心象風景が広がっていたのではなかろうか。
 
――私たち取材班は、初めは冬の金沢を訪れた。2回目は5月の中旬であった。
 その朝、金沢市街から車でわずか40分位行ったところにある犀川峡に立っていた。遠くの白山連峰は、なおも残雪をいただいていた。
 近くの山々の新緑の美しさ
――それは清冽なまでの新鮮な色彩であり、空の青さとマッチし、そのなかを濁りのない雪解け水が、速い流れとなって上流から下流へと向かっていた。美しい山並、清澄な空気、間断なき犀川上流の川音、平和な田園風景、野火の煙、トンビの静かな旋回、小鳥
のさえずり
――それらのすべてが初夏の喜びを歌っているようだった。私たちは、こうした雰囲気のなかで、しばし竹内八右衛門の牢死に思いをはせていた。
 天明6年4月29日、彼は安祥としてこの世を去った。堀上人は、「牢死直後の葬は数100の信徒集りて共に悲しみたりと」と記されている。世間でいえば、
罪人である竹内氏の葬儀に数100人の同信の人々が集い、題目を高らかに唱えたのである。この前代未聞の事実に、彼の人格の光を感じる。そして後事を託された若き信仰者たちの胸の中で、その光はさらに強さを増していったと信ずる。彼の法名は、遠寿院寿覚日門である。

 

 


 

 

 

第十ニ章 法燈は若き人々の心に



          一万ニ千の信徒守る青年武士



 老雄の死が多くの人々を感化

 竹内八右衛門の葬儀に「同行数百人」が集いえたのは、彼の死があまりにも厳粛であり、役人の心さえ動かしたからであろう。他門の人々も、その従容として、一種の威厳さえたたえた死のなかに、まことの武士の姿をみたのであろう。だからこそ、その後の5年間は、憂慮されていた「信徒への一大事」は起こらなかった。また、ともに入牢した田中長左衛門も、直ちに出牢できたのである。
 長左衛門は、出牢後「御扶持召放(扶持米の禄をとりあげられること、実際は領外への追放)」のために本山に登って出家得度し、宗和房日安と号し、その後京都住本寺の第19代の住職となった。おそらく長左衛門の心には、竹内八右衛門の勇姿が刻まれて、それが後の修学の原動力となったと思われる。一人の老雄の死は、多くの人々を感化し、教導の師を生み、かつ中村詮量などの若き強信者を育んでいったのである。

 もはや、正法流布の流れはたれ人もとめることができない勢いとなり、内得信仰とはいえ、寛政の頃(1790年前後)には、その数は1万2千人にも及んだといわれる。このころの金沢の人口は、10万人に満たない(100年前の元禄10年の金沢の人口調査68636人)と推定されるところから、一末寺もない、しかも藩禁制の信仰者数が一万二千人にのぼったことは、藩にとって脅威であった。この信仰者数は、寛政3(1791)年の記録に、「先年岩田伝右衛門の調の時富士派1万2千人」とあり、役人が富士派信徒の1人を取調べた結果、浮かび上がったものである。

 

寛政年間が法難の山場

 これに驚いた藩は、またも厳しい弾圧を加えるようになるのだが、『伝聞記』には、寛政年間に法難にあった人の名前などを、次のように記している。


 一、寛政 遭難者          古森津右衛門
 一、寛政 遭難者          古倉次右衛門
 一、寛政 遭難者          沢原安左衛門
 一、寛政 遭難者          松村清蔵
 一、寛政 遭難者          若林庄兵衛正円日就
 一、寛政 遭難、享和        河崎権右衛門道樹日久
 一、寛政 遭難、享和文化     下田富右衛門寿讃
 一、寛政 此頃は極厳禁の頃   法真
 一、寛政 成可く俗名秘の事にて 宗真
 一、寛政 俗姓名不知事      法玄
 一、寛政 法難の砌成りしなり   寿慎
 一、寛政 其余風目録にも     寿源
 一、寛政 今尚法名斗り      正順

 この記録を読むと、金沢法難は寛政年間に最大のヤマ場を迎えたことがうかがわれる。中村詮量の自筆の記録によって法難にあった人の名前がとどめられている以外、当時の人々の名はほとんどわからない。富士派信徒は俗名を秘して、法真、宗真、法玄、寿慎、寿源、正順といった法名で活躍していたのだっだ。こうしだ名もない大々こそが法難を乗り越えた勇者であり、彼らはひたすら信心の名をとどめるべく精進し、名聞名利とは無縁の生き方を送った。


 中村詮量が信徒の中心に


 こうした1万2千人にも及ぶ信徒の中心となったのは、親から子へと信仰を受け継いでいた青年武上たちであった。法燈は若い人々の心にしっかりと相続されていた。その一人に、竹内八右衛門から後事を託された中村詮量(小兵衛)がいた。彼は当時、割場付足軽小頭であった。割場というのは、およそ1500人ぐらいの足軽を50組に分けて、それぞれ小頭を置いて支配し、その全体を統括する人を支配頭といっていた。彼は、そのうちの小頭であったから、約30人ぐらいの足軽の責任者であった。竹内八右衛門も足軽小頭であったから、下級武士とはいえ、若くして重責をになっていたことになる。
 彼の縁故で、惣組(組全体)および配下に多くの入信者を出していた。また、富士派信仰が各方面にわたって多くの入信者を出している事実をつきとめた宗門改方奉行、井上井之助等は、これを一大事として全員を自白させ、捕えようとしたのである。
 その意図は、藩における富士派信仰を根絶やしにすることにあった。しかし、どんなに調べても、表面に出た信徒の名は町人を除いて足軽等わずかに10数人にすぎなかった。そこで井之助は、まず最も重立った人物と目される中村詮量に的をしぽって取調べることにした。詮量は役人の魂胆を知っていた。大石寺の時の貫主は、金沢出身の第37世日琫上人であり、また日純上人、日堅上人のお2人のご隠尊もおられ、万般にわたり連絡をとり、ご指南を仰ぎ、取調べに応じたのであった。


 改方役所で堂々と応答


 寛政3年7月2日、中村詮量をはじめ9名が宗門改方役所に呼び出された。この時の模様は、彼自身の自筆の記録が現存していて、今に伝わっている。第5世堀日亨上人は、彼のこの記録の文章について能筆能文と激賞され、宗学要集に多くを掲載されている。
 役人井上井之助と中村詮量との問答は、圧巻である。なんとか藩全体に広がる富士派信仰を禁止しようとする役人の意図と、それに対して下手に出ながらその意図を巧みにかわし、しかも富士派信仰の正統性を主張する中村詮量の堂々たる応答ぶりとが浮き彫りにされている。宗学要集にしたがって、現代語訳(意訳)を試みた問答記録を紹介させていただくことにする。

 

 


 井之助    今日お尋ねの一件は、他でもない、其の方は何宗門に属しているのか。
 詮 量    私は、日蓮宗野田寺町にある実成寺の手継(戸籍上の所属寺院)です。
 井之助    右宗派(実成寺)の信仰の義はともかく、大石寺派の信仰をしている様子

         との風聞がある。この宗派については、御国表 (江戸屋敷に対して領国

         の方)には末寺がなく宗門改めの筋が立ちかねるため、信仰停止になって

         いることは承知のはずだ。どのような理由から信仰しているのか、明白に申し上げよ。
 詮 量    かしこまりました。元来、日蓮宗門において本迹一致派、勝劣派などと種々に宗派が
         分れています。ところで実成寺の場合は勝劣派です。大石寺の場合は、勝劣派のの惣本寺で

         あり、公儀朱印(幕府認可)にもなっている本山であり、日蓮宗門の正嫡 (本家)に相
         違ありません。今は亡き実父、中村源兵衛も内心は帰依して、正法であるから私にも内得
         信仰をするようにといわれ、御本尊等を受け継ぎ所持しており、意業には帰依しておりま
        す。
        しかしながら御国制(藩の法律制度)の趣旨にそって身業、ロ業には受持せず、心内に
        は帰依し、ロ外はしておりません。
井之助   いちおうそのように聞こえるが、軽き身ながら御扶持もいただき、身口意ともに国(藩)命に

       随い奉るべきところ、まことに不心得ではないか。
詮 量   ご不審の趣きかしこまりました。しかしながら、仏法は邪正を糺して正法を信仰するのが掟

       です。また四恩報謝のために信仰をいたすものですから、いちおうはご国命に背くには似て

       いますが、正法を撰び取ることはかえって国恩を大切にすることになる、との仏法の教えに

       まかせて心中帰依しているのです。
       しかし、今お咎めによって意業もご国命にしたがわないのは不心得であると仰せられ、初めて

       気づきました。今までご迷惑をおかけしたことは、まことに申しわけありません。

 

 ます詮量は、いちおう役人を立てつつも富士派信仰の正統性を訴えることから始めた。そしてこの応答が、次章で紹介する問答の続きの複線となり、金沢における信徒の名を総ざらい挙げさせようとする役人の意図をみごとにかわしていく前提となる。

 

 


 

 

第十三章 役人を折伏する信仰者の姿




      禁圧の口実与えぬ配慮で主張



同志の名探る役人

井上井之助は、急に質問を変えた。一番聞き出したいことを尋ね出したのだ。

井之助   其の方と同復(心を同じくすること、同志)の者も多くいる様子はほぽ分っている。そ
        の名前を申せ。
詮 量   かしこまりました。しかしながら、これについては先ほどから申し上げている通り、私
       とても心に帰依しているだけで、御国制を重んじ口外しておりませんので、人々に誰が信
       仰しているのか直接聞くことができず、誰々と名前を申し上げることはできません。
井之助   其の方は現在、小頭役を仰せつかり、人の裁許(裁決し許可すること)をしている役 

 


    であるから、人の腹の内のことも見察できなくてはならないはずである。御国制の宗門を
    内得信仰するものを見察すれば、それを究明するのが役筋である。しかし自分自身が信
    仰してはそのような改めも行き届かないであろう。こちらはそなたたち内得信仰をしてい
    る者の腹の内をことごとく見察しているがら尋ねているのだ(強い調子で咎め立てしてい
    る)。
 詮 量 かしこまりました。私はたしかに人の裁許を仰せつけられても、腹のなか、心の内が表
    てに顕れないことには見察しがたく、今日指図すべき配下の者が、ご奉公懈怠か、あるい
    は自分の利養だけを考えている者であれば、貪欲多き者として身心ともに改めさせること
    ができます。
     しかしながら正法を信仰していれば、その腹の内の信心がそのまま姿に顕れ、今日のご
    奉公もまったく偽りもなく誠があらわれています。そんな彼らに大石寺派の信仰をして
    いるかいないか、しているならば止めなさいなどと申渡すことはできません。

 この詮量の応答に井之助はつまってしまった。正しい信仰は、まじめな生活態度となってあらわれていく。もし怠けたり、名聞名利の人であれば、それを詮議することも可能であろうが、大石寺派の信仰をしている人々の生活態度はみな立派である。間違った信仰をしておれば、それが姿にあらわれるはず、どうして偽りない真心のご奉公を尽くしている人々の心の内の信仰を糺すことができようか、と詮量は逆に詰めよったわけである。

 


 詮量と役人の一対一の問答


 井之助は「まあ、あとで聞こう」といって座を替え、詮量を除く8名を帰し、重ねて別室で一対一の取調べを開始した。ここで井之助は、「先ほどの取調べは与力などもいて、いちおうの表て向 きのものであったが、今別席へ呼び出し尋ねるのは、詮量の心の内をはっきり聞くためだしと語った。井之助は、他の大勢の人々と一緒の取調べでは、詮量にしても面子があり、本当のことをいわないであろうから、できれば一対一で、詮量の口から藩内の大石寺信仰の実態をつかもうとしたのだ。
 ところが詮量は、この言葉をつかんで、
よし、それならばと、自らの信念を、入信のいきさつからことはじめて諄々と説き聞かせ、披露するのであった。


 詮 量   元来、仏法を信仰した目的は後世菩提のためだけではありません。私は22歳のとき
        掃除裁許定役(城内清掃の指図役)を仰せつかり、ほどなく人割(足軽の人事を司る
        ところ)に転役となり、その後今の小頭役を仰せつけられました。いずれも人の裁許の

                 役であり、年若くして定役を仰せつかり、人間の私利私欲が多くては、人間関係をうまくと
        りまとめることができません。
        およばずながら、そうした役を全うするためには何らかの依り所もなくてはならない
        と考え、儒教、仏法、神道の内の善を撰び、依り所をきわめたく思い、かれこれ少々学
        びました。所詮仏法は三世を教える極説と承りました。それゆえ仏法に来り少々勝劣
        浅深を尋ねたところ、最上は法華経と承り、そのなかでも日蓮宗門の正嫡の法が大石寺
        に伝わっていると知り、心中に帰依しております。もともと亡き父が語っていた心中とも
        符合しています。


 正しく、強く、生きる・・・


 この詮量の応答は、重要な意味をもっている。一般の人々の仏教観が「後世菩提のためだけ」といったものであったのに対して、詮量は「仏法は三世を教へ候極説」であることを前提として、現実生活・社会を正しく生きるための教えであることを主張している。自分がおよばずながらまじめにご奉公できるのも、この正しい信仰あればこそ、と彼は語る。このようにいい切れるのは大変なことである。
 信仰はみずからが生きるよすがであることを、役人に向って身をもって説き聞かせる詮量の姿に、信仰のあり方が示されている。彼を含めて当時の大石寺派信仰の人々が、どんな思いで信念を貫いたか、この一日を、この一瞬をこよなく大切なものとして、わが身とわが生活をより正しく、より強く、より豊かに真剣に生きようとし、その根本を正しい信仰に求めていたことが明らかではなかろうか。それが、また役人に禁圧のロ実を与えず、逆に事実の姿をもって折伏する詮量の言葉となってあらわれたのだ。

 だからこそ井之助は、「なるほど、勤仕(藩への奉公)の身の上、貴賤ともに依り所がなくては勤めがたいことはもっともなことである。そなたの前々からの勤め方など風聞もくわしく聞き、ご奉公を大切に心懸けている様子も逐一承っている」と述べざるを得なかったのである。そしてとにかく藩禁制の法であるからやめよを繰り返すしかなかった。また、「もしも同じように信仰する者がいたとしたら、そなたからやめるように言い渡せ」にとどまり、役人がねらった交名 (人名を書きつらねたもの)の自白をさせることはできなかったのである。
 詮量は、事件が拡大してその累が大きくなれば内得信仰の大老や藩の重鎮に及び、さらに多数の下級武士、町人に及ぶことを恐れて、なんとしても交名の自白だけは避けたのであった。7月2日の取調べのあと詮量は、いざというときのため、また表向きの
改心の証拠として、役人より名前の挙けられた11名の御本尊、御影、過去帳等を本山へ返納した。
 一方井之助は、先年、岩田伝右衛門の取調べのときに「富士派一万二千名」とあったので、このたびの11人ではあまりにも粗末で、いつ不祥事が突発するかも知れず、役儀上大いに憂慮した。そこで、詮量が所属する割場支配頭等と懇談して、この上役の手で詮量を口説き、交名を自白させようとした。8月28日、29日、9月1日、9月5日、10日と5回の呼び出しを受けた。詮量は7月2日の取調べの結果井之助より、交名の自白をせずともよいとの了承を得ていたので、その不当性を強く主張した。


 用意周到な心の準備


 この5回の応答についても、堀日亨上人は「小兵衛(詮量)の周到なる考慮の改信より以上は一歩たりとも譲らぬ条理整然たる答弁は中々歎賞すべきものなり」と賛嘆されている。詮量が正法の偉大さを述べたあと、いちおうとってつけたように、自分は改心したむね役人に述べたのにはわけがある。一つには累が他に及ぶことのないよう自分一人で一切の責任をとる(事実、詮量は当時の北陸地方の信仰の中心者であった)こと、2つには、みずからやがてくるであろう死罪を覚悟し、そのための準備をととのえる時間が必要であったこと、3つには、総本山の指示を仰いでいたこと、第4に、詮量の折伏の対象は禁圧の張本人である藩主にあり、その諌状を認める必要性から、第5に、御本尊等の重宝を守りぬくことであったと考えられる。堀上人が「周到なる考慮の改信の答弁」といわれたのは、こうしたことを指しているのではないだろうか。
 中村詮量は、後顧の憂いなきよう打つべき手はすべて打って、9月26日に投獄される直前、1冊の諌状を藩主に対して綴った。

 

 


 

 

第十四章 中村詮量の藩主への諌状



          正法正義にほとばしる情熱

 父の遺言を胸に秘めて


 卯辰山のふもとにある天神橋の近くに立って、金沢市中を見おろすと、街を覆う黒い釉薬瓦が、五月の太陽の強烈な反射を受けて波間に浮かぶ銀鱗のように美しく輝いていた。金沢は、このいらかの波と街の間をぬって流れる用水、曲がりくねった小路が特徴的だ。金沢の城下町は、森の都、水の都といった感じがする。
 寛政3(1791年9月26日、中村詮量は、この城下町の一角にある尾山町(旧下松原町)の町会所の牢に投獄された。今は、その跡はなく、近くに銀行や証券会社などが立ち並んでいる。往時はこの辺は森林におおわれていたようだ。堀の水と森によってかこまれた牢獄の中で、85日のあいだ、彼は何を思い、どんな心境にあっただろうか。
 彼は20代で足軽小頭として金沢城に出仕し、信仰の面でもずばぬけた力をもち、金沢の全信徒から信頼を得ていた。彼の不屈の信念は、父親ゆずりの気骨にも由来していた。今は亡き父、中村源兵衛の遺言は、詮量の胸にいつも去来していた。「お前にたった一つゆずれる大切な宝がある。それは大石寺の信仰た。どんなことがあってもこれを離すのではないぞ」。
――もう10年も前になる。あのときはまたわたしは10代たった。おぽろけながら教えてもらった大石寺の法門が、なんと深く、すばらしかったことか。藩内には複雑な人間関係、苦しい財政、たびかさなる天災や人災に痛めつけられた人々の苦悩の声がうずまいていた。わたしはあれから、微力ながら自身の成仏、藩の繁栄のため正法を習学した。信仰に励めば励むほど、習学すればするほど、正法の正法たるゆえんが身にしみてくる。今はもうこの法のために殉ずることこそが名誉であるとまで自覚できるにいたった。
 わたしを牢につないた井上井之助殿や藩主の迫害も、成仏のためと思えばありがたいことた。5年前、竹内八右衛門殿の牢死は実にみごとたった。思いおこせばいろいろなことがあった。ともかく生死は不定である。わたしは死罪になるのも、生きて幾多の先大の遺志を継ぐことができても、ともに本望た。いずれにせよ、わが生死は御本尊にお任せしてある
――
 彼は、竹内八右衛門と同じように、日々御本尊を心に思い浮かべ、牢獄のなかで報恩と誓願の祈りを捧げていた。詮量が投獄されたきっかけとなったものは、藩主に上呈した諌状である。「恐れ乍ら添書を以って申上奉り候」に始まるこの諌状(詮量自筆の記録)こそ、正法に生きる彼の面目躍如たるものがある。


 詮量白筆の諌状の内容


 彼はまず、役人井上井之助が、前言をひるがえして「信仰の者どもの交名を申し出さないことはふらちのいたりである」と咎めたことの不当性を、取調べの経緯の上から訴えた。そして、
 「大石寺派のことは、日蓮法華宗の骨髄であり、およそ末法今時の導師日蓮大聖人出世して教機時国教法流布の前後の上から一切経を取捨選択し、別して法華経の明文をもって時機相応の宗旨を建立されたのです。なかんずく正嫡日興上人以来古跡の霊場を修理し勤行を致し、数100年の今に至り法水写瓶して一滴の誤りもなく、末師の私意を加えざる正法の門流が富士門流なのです」
 と諄々と正法正義を訴えていく。世間の五常(仁・義・礼・智・信)という人の守るべき五つの道も、根本本有の五常を説いた法華経本門寿量文底久遠名字の妙法によるのであり、それを信仰することにより仏天の応護を得て深重な国恩に報ずることが大切である、と詮量は主張する。
 「恐れながら藩主のご寿命の長遠、藩の安穏、万民快楽のため、ひたぶるな信心をもって御本尊に祈り、信仰しているのです」
 「この功徳は王にも属するのであって、棄恩入無為真実報恩者(恩を棄て無為=まことの道=に入るは真実の報恩者)の教えに任せて内得信仰をしており、それもこの地ではすでに134年にもなりましたが、時節が到来していません」
 「護国院様(六代藩主吉徳)の代の初めから信仰しないようにとのお触れもありましたが、それはそれなりの筋道がまたありました。・・・・・ところが今度の場合は、何らの理由もなく、まったくこの宗派を御国において断絶せしめんがためのお改めと存じます」
 「仏法は国土の浪費であるなどと(役人が)申され、漫荼羅なども表具を切り抜いて火に焚き、あるいは川へ流したりしようなどと言うものもあります。このようなことをしたらまことに仏説によればはなはだ不祥事があることは前例からも明らかです」
 「いかほど正教を制罰し、静謐(世の中が治ること)を得たとしても、仏天の加護がなくては三災七難が起こり、かえって国土不静謐になることは、その例を四経の明文をもって日蓮聖人が立正安国論に述べ置かれた通りです」
 さらに詮量は、「世上の妄談にしたがって理不尽な宗門改めをしたこと」の非をつき、最後に自らの本心の覚悟を披漫していくのであった。この最後の部分については、あえて原文を紹介させていただく。



  
身命に及ぶも覚悟の上


 尤も御触相背き候御咎を以てたとひ身命に及び候とも自業自得覚悟罷在り候得共、国に正法滅亡仕り候儀は御国の御為恐れ多く存じ奉り候。早々本山(大石寺)え仰せ遣わされ宗義の邪正実否御糺の上正義相立候へば鎮講国家の御為にこれに過ぐべからずと存じ奉り候。
 此節段々と御国中御糺これ有り、御勘気を蒙り候故是迄内得信仰の志趣も相顕れ申さず、且は追々本尊を打捨て正法御国に滅亡仕り候ては御為に甚だ以って恐れ多く存じ奉り候。
  其上、御番代様(歴代藩主)に於ては不思議の前瑞これ有り、たしかなる来萌申し置かれ候証文御座候故恐を顧奉らず言上奉り候、上聞達し奉り候上は今生の本懐に存じ奉り候間身分の儀は御国制の通り仰せ付けなされ下さるべく候。何分御慈悲を以って達せられ、御聞下さるるよう恐れ乍ら願上奉り候。以上
     御割場附足軽小頭 中村小兵衛


 国(藩)に正法が滅亡すれば、国の命運が尽きることは必至である。したがってすみやかに、本山へ問い合わせ宗義の邪正をただして、一国に正法を立てるべきである。この諌状が藩主に達し、お聞きくだされば今生の本懐であり、たとえ身命に及ぶとも覚悟の上である
――烈々たる気迫の諌状である。なにせ200年前の封建時代のこと、足軽小頭といった低い身分の武士が、これほどの国諌をなすことは、死を覚悟しなければできないことであった。国を思い、人々の幸せを願い、同志を思いやり、藩主を折伏する若き青年武士の姿。それは、わが門流の尊い信心の一つの結晶であるとともに、末代の鏡である、といえよう。



 役人、詮量を禁牢に処す

 しかし、これに怒った井之助は、彼を禁牢に処したのだった。寛政3年9月26日のことである。井之助は詮量に対し、「お前のつけあがった言いたい放題の振舞いは言語道断」「大罪人め!前後を忘却したのか(狂ったのかの意)」と罵声を浴びせたが、彼は最後まで理を尽くし「正法を信教する者を制禁すれば不祥の先例がある」等と、どこまでも正法治国・邪法乱国を訴えたのであった。
 堀日亨上人は、「再問の時井之助始めより激怒して申付違背の条をもって直ちに禁牢に処し、町会所牢(下松原町)に入れられ他は指控え(閉戸)の微罪、又は構無しにて間もなく翌年正月16日赦免出牢に及び他は指控え御免(許されること)にて、本件全く解決したりしが爾後70余年間多少の苦情はありしも法に当てられたるの文献なし」と仰せられている。詮量のこの勇気が、藩の信仰に対する見方を大きく変えていったからである。
 
――こんな詮量の姿に深い感慨をおぽえつつヽふと気づくとヽ金沢市中の銀鱗のいらかは、さらにまばゆいばかりに陽光を反射していた。

 

 


 

 

第十五章 富土門流の命にふれて



          本因妙、観心の法門に生きる

 大聖寺藩主夫人の入信

 


 中村詮量が出牢した寛政3(1791)年後も、藩の大石寺信仰禁止の方針に変わりはなかったが、信徒が罰せられたという文献はない。おそらく、詮量の諌状が藩主の心の奥をつき動かしたからであろう。なによりも信徒たちの清水のような信仰、真摯な生活態度が、宗門改めのロ実を与えなかったのではなかろうか。藩権力の中枢にいた人々の心まで動かしたものは、決して政治的な立ち回りなどではなかった。いかなる権力者とて、一個の人間である。幕藩体制が衰運に向かいつつある時代にあって、本特の信仰の強さが、ひときわ人々の心をもとらえたからではなかったか。
 加賀藩の支藩である大聖寺藩で、第10代藩主利極の正室・寿正院が当宗に入信した事実も、こうしたことを象徴している。この夫人は、加賀藩12代藩主の娘で、なかなか賢い女性であったようた。しかし嫁いで出生した女子はまもなく死亡、夫もまた27歳という若さで他界している。自身も病床に臥し、つくづくと世の無常を観じているときに彼女の目にとまったのは、大石寺信仰をしている人たちの、けなげな、清らかな信仰とその生き方であった。
 「身命を厭わず大法御信仰の義申し上ぐべきかと心づき」と、病床の彼女に大法を知らしめようとした江戸詰武士・小塚与平。その志に応じて日量上人の指南を仰ぎ、病気平癒を願った国許の講頭・窪田善領、そして彼女のそば付きで無垢な信仰に生きる桑島老女。そうした人たちの姿に心打たれ、寿正院は入信したのであった。
 最初は、病気がなおったときに「近ごろはやりの魔術ではないのか」と疑ってみたり、「藩禁制の信仰であり、お咎めの上、一族への法難ともなれば面倒なことになりはしないか」などと心を痛めたりしていた彼女だが、以来30数年にわたって寿命を延べ、やがては本当の信仰のあり方に気づき、安穏な生涯を閉じている。明治2(1869)年2月22日逝去、法号を寿正院妙量日詮大姉という。
 第55世日布上人の記には、「御平生御信心強く在せられ候故、臨終の一念は多年の行功に依る御信力の顕れ候か。御望み通り御尊骸小梅常泉寺へ罷り入れられ此段有難く・・・・・」とあり、遺言により常泉寺へ葬られたことが知られる。また「駿河大石寺に碑を建てて其の遺髪を納む」(大聖寺藩史)とも記録されている。なお、大聖寺藩第12代正室、さらには第14代藩主利鬯も大石寺の信仰に縁したたいわれる。大聖寺藩主・前田家の墓碑は、大石寺の旧大納骨堂の横にあったた
 寿正院も、最後に到達したた地は臨終正念の信仰であったた臨終を前にしては、権力や権威、名声も特の数ではない。寿正院が、一末寺もない、しかも藩禁制の信仰に入ったいうことは、現代では想像もつかぬ出来事であり、大石寺信仰がただならぬものであることを身をもって示した事例といえよう。


 なかった
法難意識


 明治12(1879)年、金沢に大石寺の出張所(妙喜寺)が設けられたが、寛文年間(1660年代)に金沢の地に富士門流の信徒が誕生してから、実に220年近くたっていた。その間の150年は、法難の連続であった。しかし、金沢の信徒たちには不思議と法難意識がない。
 わたしたちは当初、150年にわたる法難に耐えた力とは何だったのか、というテーマに挑んたのである。ところが、取材、調査を進めていくうちに、彼らにはどうしても「法難と戦っているんた」との
力みが感じられず、その面では少なからず肩すかしをくったようた。それとは別に、わたしたちが彼らの中に見、ふれたものは、富士門流の命であった。臨終正念の信仰といい、逆縁流布の確信といい、また親子兄弟よりも親密な同志の心の触れ合いといい、法燈相続といい、そこ
に脈打つ命を一言でいえば、本因妙の仏法、そして当家の観心の法門に生きるということであった。
 第39世日純上人が中村詮量にあてられた手紙(内容は難しいので、ここでは略す)には、第14世日主上人の「蓮目興」の相伝の内容が認められている。日蓮大聖人から日興上人、日興上人から日目上人へと次第するところを「生の付嘱」「順次の次第」とし、日興上人が遷化されるにあたり、日目上人が導師をつとめられたところから「蓮目興」と次第するとされ、それを「死の付嘱し「逆次の次第」と説明されている。一つの形の上で、大石寺法門が三祖一体、本因妙の仏法であることを示しているのであろう。その意はさておき、これほどの法門を、中村詮量たちが拝受していたことは驚きという以外にない。


 再び日寛上人の指南を拝して

 


 本因妙だからこそ刹那を大切にし、
ただ今臨終との思いが、信仰の核を形成したのであろう。本因妙だからこそ親から子へ、子から孫へと世々代々、大法が受け継がれていったのであろう。また、第1章で紹介した日寛上人の「かならずかならず信の一字こそ大事にて候・・・・・かならずかならず身のまづしきをなげくべからず、唯信心のまづしき事をなげくべけれ」とのお手紙は、彼らのなかに確実に根づき、彼らは、信の一字のみが御本尊に合掌しゆく唯一の力であることを、ごく自然のうちに体得していたようである。
 日寛上人は、その著『観心本尊抄文段』で「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」と仰せられ、『当体義抄文段』にも、「我が身全く蓮祖聖人と顕るるなり」「我が身全く本門戒壇の本尊と顕るるなり」と甚深の法門を記述されている。

彼らのひたぶるな信仰心は、これらのお言葉を感涙歓喜合掌の心で拝していたことであろう。
 また、日寛上人が金沢の信徒・福原式治に与えられたお手紙に、「我が山(大石寺)の法水、北国加賀州福原昭房の心中に流入し法水則ち信心を潤し、信心則ち墨に染て文字とあらハれ、身は北海の辺り千里の外に有ながら心は駿河州富士の麓大石之原本門戒壇の霊場に参詣せし如く也」と記されているが、実に大石寺法門の骨髄を教えられているように思えてならない。
 本因妙、そして観心の法門に生きた人たちにとって、大石寺信仰禁止の金沢の地は、そのまま仏道修行の道場であった。そんな雰囲気のなか信仰禁止の触れも、ごく自然に仏天の告知と受けとめられたのではなかろうか。すべてが歓喜と、感謝の心につつまれた世界
――それは、人によって一瞬の境界かもしれない。しかし、その瞬時をもった人の人生は、つねにそこへ帰り、そこから出発していくことができる。
  わたしたちがヽ金沢の風雪の大地に生きた先達を幸せに感ずるのは、そうした、心の息づかいまでもが、わたしだちの胸にそのまま伝わってくるからである。

 

 

 

 


資料」に続く

 

 

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