44 求める心――「不足」には大切な意味がある

 

 

 今から5、60年ほど前(平成10年時点)の世の中は、戦争によって絶望的に物が不足していた。食べることは勿論、医療・学問・娯楽等すべてに事欠いていた。

 戦後20年。日本は驚異的な復興によって物があふれるようになった。親たちは苦しかった自分達の青春時代の反動で、子供たちにさまざまな物を与え続けた。食べ物・おもちや・教育等々、与えることは良いことであると信じて疑わず与え続けた。だがそれは本当に良いことだったのだろうか。

 今や大学に行くのは当たり前。そういう環境を作った親や社会は当然のごとくそれを素晴らしいことと誇る。しかし、与えられた側は必ずしも喜んではいない。いや、心の奥底では抜きがたい反撥や不安を懐いているのである。

 何を贅沢なことを、私たちは勉強をしたくてもできなかったんだ、学校に行きたくても行けなかったんだぞ、と親はいうだろう。今日食べる物を確保するのにさえ苦労するような、不足の苦しみを嫌と言っほど味わった親たちの言い分には一理も二理もある。だが、子等もまたいうであろう。学校に行きたい、勉強がしたいと思えることはむしろ幸せなことだ。なんの意味も見いだせず、しかも絶対的に良いこととして押しつけられることの苦痛に比べれば、と。そしてそれをふざけた意見だと誰が言い切ることができようか。

 与え続け、物が満ち溢れて決定的に失われたものは「自立的に求める心」ではあるまいか。人は、良し悪しは別として目的を持たなくては生きることができぬ生き物である。そしてまた退屈をもっとも嫌い恐れる生き物である。その人間から日的や生きがいや求める心を奪ったらどうなるか。若者はその溜まりに溜まった于不ルギーを、くだらぬものに向けることだろう。老人は生ける屍と化すだろう。今日われわれのかかえるさまざまな社会問題は、このこととけっして無関係ではない。

 不足の極限を生き抜いた方々には失礼と知りつつあえて言えば、人間にとって「不足」は大変大切なことではないだろうか。大聖人は

このやまいいは仏の御はからいか、そのゆへは浄名経涅槃経には病ある人仏になるべきよしとかれて候。病によりて道心はおこり候なり。(『妙心尼御前御返事』)

と仰せられている。

 健康がいいか病気がいいかという問題ではない。健康であることが良いのは解りきったことだが、体調の問題とは別に、人としての生き方に照準を合わせたとき、病には立派な意味があると言うことなのだ。

健康であるが故に人は時に傲慢である。健康である故に退屈し悪さもする。健康である故にさまざまなことに不満を懐く。健康を損ねてはじめて健康であることの有り難さを知り、人の痛みを知り、命の尊さを知り、そして求める心を持つのである。

 もっとも、健康でありながら道心をもてれば最高なのだが、どうもそうはいかないらしい。ガンにおかされた人が物の考え方ががらりと変わり、見る物が皆涙が出るほど美しく見えたのに、治ってしまうとまたもとの自分に戻ってしまったということを聞いたことがある。人間とはそういう動物なのだ。ならば人生の中で何度もあるであろう、さまざまな意味での「不足」の時を、道心を持つチャンスと心得る事が肝要であろう。

 

 

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