41 本能と理性――本来あるべき姿に戻ろうとする力
秋はいい。いろいろな意味で秋はいいが、今の私はひとえに茸が採れるからいい。山菜もいいのだがやはり茸にはかなわない。今年も2度ほど連れていっていただいて、いろんな茸を採った。塩漬けにしておけば寒い間くらいは充分茸汁が楽しめる。
だが、茸にも欠点がある。毒をもったものがいくらでもあることである。中には死に至るようなずごいのもある。それにしても食えるものと毒茸とを、今日ではしっかりと判別されているが、それは多くの犠牲者があってはじめてなしえたことであろう、とこれまで漠然と思って来た。だが最近、茸採りに行って鹿が茸を食べた痕跡と遭遇し、断然考えが変わった。 鹿は茸の本を持っていない。にもかかわらず鹿が毒茸を食べて死んだという話を聞かない。 鹿はその判別がつくのである。人間も大古の昔、今日のようにこざかしい知識を振り回す以前は、鹿や猪のように食えるものとそうでないものとの区別ぐらい、造作もなくできたに違いないのである。
本能と理性は一般的にはその対極にあるように思われているふしがある。しかも理性が人間の知的良心であるのに対し、本能は放埓で欲望むきだしという語感を持つ。たとえば「本能のおもむくままに」などといえば、そこにはけっして良い意味はない。その本能を押さえるのが理性であり、宗教や道徳教育によってそれを養うというのである。
しかし、そのような本能はけっして本来の本能ではなかろう。知識に目覚めそれを得意けに振り回すようになってから、人為的に作られた偽りの本能というべきである。
大自然は常に本来あるべき姿を維持しようとしている。人為的大規模な自然破壊がなされ ても、自然は大いなる力で元に戻るうとする。目を覆いたくなるような今日の惨状も、本当は当の人間にとって一大事なのであって、大自然からすればちょっとしたかすり傷程度なの かもしれない。何億年の後人間がいなくなった頃には、何もなかったかのように元の姿に戻っているだろう。
人間だって本当は、本来あるべき姿に戻ろうとずる力があるのだ。ケガをすれば血が出て、 かさぶたができてやがて元のようになる。精神的なダメージさえ、なんとか立ち直って元の 状態になろうと頭脳はプル回転する。それをこそ本当の本能というべきなのである。
ただ、人間は世の中でその本能が一番弱い生き物といえるだろう。何が良くて何が悪いの か、右に行くべきか左に行くべきか。それを決する、本来誰に教えられるでもなく持ってい たはずの生きる力が、人間は知恵に頼ることによって限りなく鈍くなってしまったのである。 毒茸か否かを、教えられなければ解らなくなってしまったように。
宗教とはさまざまな脅しや讃め言葉で、人間を知的に抑制することを本意とすべきなのだろうか。人間が好むと好まざるとにかかわらず、知的な生き物である以上それも全否定すべきではない。だが宗教が、本来誰しもが持っている、あるべき姿に至ろうとする力、心の奥
底にある本当の声を開発することを目指さぬならば、それは進むべき方向が根本的仁誤っているというべきである。
「諸法実相」――本来あるべき姿に蘇ろうとする蘇生の力を妙法という。法華経はその力を開発することをわれわれに教えている。