40 性悪の法門――誰しもの心に仏と地獄がある

 

 法華経の一念三千の法門は、いわゆる性具の思想により成り立っている。性具とは性質が備わっているということである。つまりどんなに愚悪の凡夫にも、その性質においては仏の心が備わっているというのである。だが、性具論の面目はそのこともさることながら、仏にも性質においては悪が備わっているという点にあろう。これを性悪の法門という。

 日蓮大聖人は『治病大小権実違目』にこう仰せられる。

善と悪とは無始より左右の法なり、・・・法華宗の心は一念三千・性悪性善、妙覚の位に猶備われり。

 凡夫に仏の心があるというのはまだしも、仏に猶、たとえそれが性としてであれ悪の心があるというのは、一般的な仏のイメージからすればギャップがありすぎて受け入れにくい。だが仏とはそもそも世間のあり様を如実に知見した方をいうのであって、完全無欠な絶対者というのではない。否むしろ、悪と善とは無始以来左右一対の法であり、ご自分を含めてこの世の存在はその上に成り立っている事を知見された方なのである。

 人はとかく絶対的な存在を作りたがる。その理由は、不完全で危うい自分を絶対的な力で正しく安全に導いてもらいたいという願望、さらにスーパースターに憧れるのに似た感情、はては自ら絶対者として君臨したいという欲望などなど、さまざまであろう。だが、少なくとも仏教は、中でも法華経はそれを否定している。

 現実世界には絶対的存在などありはしない。完全無欠などということもありえない。無始以来善と悪は個々にも、そして集団にも備わっているという、当たり前の事が前提となって、成仏や寂光土は考えられなければならないのである。

 最近未成年者を襲う残虐な事件が相次いでいる。ことに加害者が未成年者であった神戸の事件(平成9年、神戸連続児童殺人事件)はさまざまな議論をよんでいる。社会のあり方、地域のあり方、家庭のあり方、学校のあり方等々、いろいろな方面から問題点が挙げられ議論されている。また法律の面でも、少年法の見直しや、どこまで少年のプライバシーは守られるべきかなど、甲論乙駁連日テレビをにぎわず。こうした議論はもっともっと、それこそ国を挙げてされるべきである。そして、その直接間接の原因が発見されたなら、社会的なことから家庭の問題に至るまで、国や個人が、根気と勇気と決断をもって改善にむけて立ち上がることを望む。中途半端な議論や改善では、忌まわしきこの風潮の根を断つことはできない。

 しかしながら一方で、この事件を安易に相対化させることは間違いであるとも思う。社会や家庭に問題があったとしても、そして犯罪者が少年であったとしても、あのような残虐な犯罪を犯した以上、それはしっかりと裁かれなければならない。凶暴で残虐な犯罪が、低年齢化していることが現実ならば、社会的改善を目指す一方で、現実問題として少年法を見直すことも考えなければならないだろう。

 しかしその際、私は法華経を奉ずるものとして願う。どんな凶悪な者の心にも一分仏の心があるということが、前提となって改正されることを。そしてまた、裁く側の者の心にも、消し難く残虐な心を持ち合わせていることが自覚されながら裁かれることを。

 

 

 

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