39 時を習う――冬のキュウリはうまくない

 

 現在の大石寺客殿に安置されている、日興上人の御影が手にされている書物は『観心本尊抄』である。しかし近来お色直しをずる以前は『撰時抄』であったと聞く。なるほど、どこのお寺だったか詳しいことは失念したが、ある日興門流の寺院で拝した掛け軸の日興上人御影が持たれていたのは、まさに『撰時抄』であった。一説によれば御影の右手の、親指・人差し指・中指の3本が、あたかも1・2・3と数えるように開かれているのは、宗教の五綱(教・機・時・国・教法流布の先後)の第3、「時」を顕わされているという。つまり日蓮大聖人の仏法、そしてそれを受け継がれた富士の立義にとって、「時」がいかに大切であるかがこれによって解るのである。

 読誦や書写から荒行に至るまで、そうした一切の広略の修行を廃し、ただ妙法五字を受持唱題することのみを成仏の為の行とされたのも、摂受を捨て折伏をもって本とするのも、煩悩を断じた仏を目指ずのではなく、未断惑の凡夫の成道を目指すのも、そして色相荘厳の仏を本尊とせず、未断惑の本仏日蓮大聖人の魂魄たる妙法蓮華経の五字七字の大曼荼羅を本尊とするのも、我々が下根の凡夫であるということもその大きな理由であるが、それよりもなによりも末法という「時」なるが故なのである。かの天台大師伝教大師が、此の御本尊を顕わされなかったのは、時が至らぬ故であった。それ故に大聖人は『撰時抄』の冒頭に「夫れ仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし」と仰せられたのである。

 時を習い時を知るということは、仏法に限らずずべての基本である。花を咲かせ野菜を育てるのも時が大事である。いくら良い種を手にし、手をかけ肥沃な土壌を作っても、時期をわきまえずに蒔いたのでは何にもならない。日常使う言葉一つとっても時は大切である。お祝いの席でお悔やみをいい、お悔やみの席でお祝いをいうなどというのは論外としても、ある時には大変相手を勇気づけた言葉が、ある時には決定的に傷つけてしまうこともある。受験勉強に精を出す子にとって、親の「頑張れよ」という言葉は励みになるだろうが、鬱病で苦しんでいる人にとってはまさに禁句である。

  「啐啄」という言葉がある。「」とは鶏卵が孵化するとき、ヒナが殼の中から殼をつつくこと。「啄」はその合図を親鳥が察知して外から殼をつつくことである。長い間抱き続けてきた卵がいよいよヒナに生長し、殼の中から親にかずかながらサインを出ず。そのサインを逃さず、親は外側から殼を破るのを手伝う。この親子の生命誕生の阿吽の呼吸を「?啄」というのである。この呼吸が合わなければヒナは無事に生まれない。早過ぎれば未成熟であるし、遅ずぎれば中で餓死してしまう。ちょうど良いその一瞬の時を逃してはならないのである。

 時とはただボーつとして待っていたのでは掴むことはできない。親鳥がするように、愛情や努力をもってはじめて掴むことが出来るのである。逆にあせったり自分本位に掴もうとするのもいけない。人間はせっかちでおまけに多少の智恵があるから、傲慢にも時すらも強引に手にしようとする。冬にキュウリやトマトが、夏にみかんやほうれん草が店頭を飾るが、時に逆らって強引に実らせた物がうまいはすがない。

 仏法は時によって定まる。大自然は時に従って運行している。それを諸法実相というのであろう。世出共に時を知ることが肝要である。

 

 

 

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