37 時空を超えて――法華経は絶対平等の思想

 

 「大乗非仏説」という言葉がある。江戸時代、富永仲基等が唱えた、いわゆる大乗経典は釈尊が直接説いたものではなく、後世に釈尊に仮託して作られたものであるとする説である。

 われわれの立場からすると、そのような論議は不必要であって、天台大師や日蓮大聖人の仰せを素直に信じ、法華経を釈尊の経説の要諦として信仰するばかりである。だがもし、今日の考古学的研究の成果をもって、敵意やひやかしでなく真面目にそのことを問われたとき、どのように答えるのか。否、自分の心の中でどのように理解し、折り合いを付ければよいのかという事も、正直思うのである。

 私はこう考える。そもそも仏教が成立した大きな要因の一つとして、当時印度に蔓延し衆生を苦しめていた差別制度の克服があげられるであろう。平等な世界、あらゆるしがらみからの精神的解放を目指し語った釈尊の、様々な方法やアドバイスが後世に伝えられ文字化されたもの、それが経典である。その根本精神は、すべての衆生には平等に仏の性があるというものである。

 ところが釈尊滅後、その仏教教団に新たな差別が生まれてしまう。それは仏教教団の中心的存在であるエリート集団(上座部)と、その他の大衆との差別である。エリート達は大衆を成仏から遠い存在として卑下するようになる。一方大衆はそんな不平等で偏狭な精神は釈尊の教えを殺すものとして反発し、そんな高慢な彼らを永久に成仏が叶わぬ者と断じた。そして自らを大乗と称し、エリート集団を小乗・永不成仏の二乗と下して、徹底して敵視したのである。

 確かに小乗的考えは釈尊の教えに悖るものであったろう。だが、その小乗の人々を永不成仏と断じた人々の考えが、また釈尊の精神に反していることも明らかである。まさに泥仕合の中で釈尊の平等精神が失われつつあるとき、必然の要請で、もし釈尊が現在すれば、是くいわれるであろうとして出現したのが法華経なのではあるまいか。

 法華経が眼目としたのは、大乗経が嫌い続けた二乗を救うことにあった。

されば華厳経には地獄の衆生は仏になるとも二乗は仏に成るべからずと嫌い、方等には高峯に蓮の生ざるように二乗は仏の種をい(煎)りたりと云はれ、般若には五逆罪の者は仏になるべし二乗は叶うべからずと捨てらる。かかるあさましき捨者の仏になるを以て如来の本意とし法華経の規模とす。(『持妙法華問答抄』)

 法華経が仏の滅後に出来たものであると考古学が語るのであれば、それはそれでよろしい。

 すべての経典が釈尊の滅後に成立しているというのであるから、そういう意味で条件は同じである。だがもし、釈尊が語った言葉、ないし敷衍して、必然的に語ったであろう言葉を経典というならば、エリート意識が見えかくれする小乗経や、それを徹底差別する諸大乗経に比して、悪人、女人、そして二乗に光を当てた法華経を、仏の眼目といってどこ憚ることがあろうか。

 天台大師の立てた「五時八教」判は、現在の考古学的研究を踏まえたものではない。だが、仏が究極的に云われたかった「平等」という理念にもとづいて、諸経典を整理大系付けたものである点において、まさにそれは烱眼といえるであろう。法華経は時空を超えて、仏の根本精神なのである。

 

 

 

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