35 最後の一人に――社会的通念と法華経精神のギャップ

 

 1人の荒くれ者がいてさんざんに暴れまわる。皆が大変な迷惑をしている。あいつがいたんでは安心して生活ができない。こんな場合人々の平穏な生活を確保するためには、方法は二つしかない。一つは彼を排除すること。もう一つは彼を更生させることである。

 前者はわりあい簡単である。いくら荒くれであっても皆が力を合わせれば、彼を排除することなど造作もない。警察に頼んでも良い。その他の社会的機関にお願いしても良い。現にわれわれの社会では日常毎日のようにこれがおこなわれている。だが、後者はなかなか難しい。荒くれ者をおとなしくさせること自体もさることながら、時間をかけ根気をもって、つまり多くのエネルギーを1人のくだらぬ者につかうことに、人々はなかなかナットクしないのである。クラスの落ちこぼれを何とかしようと先生が一所懸命になれば、先生の時間と労力を奪われた他の生徒の父兄は怒る。「なぜうちの子があんな落ちこぼれの犠牲にならなくてはならないのだ」と。

 社会というものは1人のために多くの者が犠牲になることを嫌う。皆が犠牲になって1人の者を救うなどということは、なかなか受け入れられない。そしてそれはある意味では一理も二理もあるのである。

 社会のありようはそれで、ある程度しかたがないとしても、では宗教ばどうだろう。おおむねはやはり同じように思える。他の宗教はさておこう。仏教がそれでいいのだろうか。

 菩薩の四大誓願のひとつに「衆生無辺誓願度」というのがある。衆生は無辺に存在するが、そのすべてを救うまで成仏はしないぞという菩薩の決意である。言葉をかえれば世の中の一番救い難い最後の一人に菩藤は照準をあわせているということになろう。

 伝教大師が「一隅を照らす」(『山家学生式』)といわれたのもこの謂であろうし、諸経に嫌われた衆生を救った法華経は、最もこの精神が生きた経典といえるだろう。宗教であるならば、仏教であるならば、大乗仏教であるならば、そしてなにより法華経を奉ずるならば、社会でこぼれた最後の一人を救う決意が無くてはならぬと思う。

 では現実はどうか。世に宗教は数々あれど、そうした精神が生きているものは見あたらない。われわれはどうだろう。残念ながらやはり社会の論理が先行しているというのが現実である。教団や講はある意味では社会なのだから、1人の者のために皆が犠牲になるなどということは許されない、という意見もあろう。それも又一理のあることである。だが、仏教とりわけ法華経が最後の1人に光を当てることを命としている以上は、そして集団を形成することが、必然的にその理念と抵触してしまう現実があるというのなら、われわれは集団を構成するにあたって、そこに決定的な原罪性があるということを自覚する必要があろう。

 その自覚がなけれは、一隅を照らし得ないという現実に、何ら反省の念もわいてこないだろう。反省がなければ理念と現実のギャップを、少しでも埋める努力をしようなどとは思わない。

 こうした自覚と努力と工夫を心がけるのと、そうでないのとでは教団乃至講のありようはかなり違ってくるだろう。これは一つの提言である。

 

 

 

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