34 永遠の本因妙――未熟を自覚することが大切

 

 絶対者という言葉には、大きく分けて二つの意味があるように思う。一つはイスラム教やキリスト教における「神」のような存在。これはこの世はおろか時空を超えてすべてを造りだしたという、文字通りの絶対者である。それに対し仏教的な絶対者とは、人間的な完成者、世の中の真実を覚知した者という意味である。

 人間がいかに生きるべきかというようなことを考え論じようとするとき、前者の場合、神はその手本とはならない。なぜなら神は人間を超越した存在、否人間の上に絶対的に君臨する存在であって、もし人間がそのような存在になろうとしたならば、そのこと自体が神を冒涜する重罪となるからである。神に成るとは言わずとも、神の意志にそった生き方をする努力が必要だということはよく耳にする。しかし神が宇宙全体を造り、すべてを意のままにできるというならば、人間の努力など入る余地はまったく無いともいえよう。

 では仏教の場合はどうだろう。仏は人としての完成者であるから私達の目標となり得る。しかし根本的な問題がそこには横たわる。過去呼吸をする人間がそうなった例は釈尊しかいない。釈尊が亡くなって3000年、一人も仏になっていないのである。これは釈尊がいかに偉大であったかを示すと同時に、いかに努力をしても、釈尊のように今世で息をしながら悟りを得ることは、できないということを証明していよう。

 もし仏教が、釈尊のような覚者にならなければ救いは無いというならば、今日までの歴史にかんがみて、仏教には根元的な欠陥があるという他はない。なにせ釈尊以降3000年もの間一人も救われた者がいないのだから。

 だが、仏教はもともと釈尊のようになることではなく、釈尊のようになる努力をわれわれに求めているのではないか。そう考えれはそのように努力をし、すばらしい人生を送った人は沢山いるはずである。

 もっとも「自分は覚者である。絶対者である。」という者はいくらでもいる。しかしそのようなことをいう者が、いかにいかがわしいかということは、今日掃いて捨てるほどいるそういう人達を見ればよく解る。

 落語の小話に、酒に酔ってない人ほど「ああもうすっかり酔いました」といい、酔っばらいほど「ヨッチャイネエヨ」などといってくだをまくというくだりがあるが、「悟った」などという者ばどいかがわしく、人格者はたいがい「まだまだ未熟です」というものなのである。

 そのようなげすな話はさておいて、芸術の世界でもなんでも完成されたと思ったとき、その人の進歩は止まるという。勝れた人は死ぬまで己れの未完成を自覚して、精進を続けるものなのだ。

 人格においても同じことが言えるだろう。己れの未熟を生涯自覚し続け、精進を重ねるところに現実的な人格者の存在を見るのである。

 修因感果という言葉がある。修因とは仏を目指して修行に励むこと。感果とは仏の境地を得ることである。いまだ仏の境地に到達し得ぬ修行者は未熟者に他ならぬ。だが、己れの未熟なることを自覚し、懸命に精進するところに現実的な「悟り」を見ようというのが日蓮大聖人の本因妙思想である。

 未熟、未断惑大いに結構。それを自覚して、生涯前を見、歩み続ける永遠の本因妙の行者であり続けたい。

 

 

 

もどる