33 強きもの「信」――さかしらな知恵にたよるなかれ

 

 日蓮大聖人を最も早い頃から信仰し、生涯外護され続けた富木常忍は、教養のあった方だから大聖人から多くの難解な教義書を給わっている。そしてまた富木常忍の方から仏法についての質問をされたことも一再ではない。

 建治3年3月、富木常忍は鎌倉にいる日昭師を介して次のような質問をされた。「肉食をした後、あまり時間を経なくとも行水を行い身を浄めれは経を読んでもいいか。また、翌日になれば行水はせずともよいのか。不浄の身でも毎日不退に読経するのがよいのか、それとも1月に一度精進潔斎して読経するのがよいのか」などなど。この質問に答えられたのが『四信五品抄』である。

 結論的にいえば、末代の法華経の行者は基本的に持戒は不必要であり、ただひたすら愚直に題目を信ずることが肝要である、というのが大聖人のお答えである。

 勿論、汚い格好や不浄であることを全く省みなくても良いということではない。できるかきり身を清浄にして御本尊に端座合掌することを心がけるのば当然のことである。しかし、世間に身を置き日常の生活に追われるものとしてば、清浄を徹底することはむつかしかろう。それよりも、どんな状態であっても唯一無二に信ずることが大切である、と仰せなのである。

 『四信五品抄』にはそのことを、教義的にも実に明快に理路整然と説かれている。「以信代慧」の法門である。

 菩薩が仏道を成ずるためにする基本的な行が六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)である。これらのすべてば最後の智慧に集約される。つまり、前の五つは最後の智慧を得るための修行なのである。

 我われ凡夫はこのいずれをも行じきることはできない。だが、我われの信の一字は、六波羅蜜の修行が集約された智慧に代えることができる。一本の木に例えれば根や幹や葉は五波羅蜜である。それらはやがて果実たる智慧を実らす。そして根・幹・葉、就中その結実たる果実は、一粒の釈、すなわち信の一字より生じている。逆に言えば信には智慧等の総てが備わっているという訳なのだ。

 話変わって日常に目を向けても、信ずることの重さというか強さというか、そういうものは確かにあるような気がする。人間はそのさかしらの智恵で多くの問題を起こしている。それをまた智恵で解決しようとするから、いよいよややこしくなる。仏様のような透徹した智慧ならいざ知らず、それには程遠い。

 日本はピストル社会ではないが、いったん持つことが許されれば、なかなかそれを放棄することば難しいだろう。それどころか相手に対する不信感はいよいよつのり、武器と防御がエスカレートしていく。兵器も国家間の不信からどんどん拡大成長していった。どうも人間は考え始めると、自分は攻められているという脅迫観念を懐き、そしてその対応にとてつもないエネルギーを発揮し、智恵を働かせる動物らしい。

 このような悪循環を断ち切るには、不信を取り除き信を築く以外に方法はない。その為にはまず、さかしらな智恵を捨てる努力をすることである。智恵は良い方にまわせはすばらしいもの、などという妄想を捨てて。そして、信ずることは智恵をめぐらすことよりも強いと言うことを、信ずることである。

 

 

 

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