32 一方に偏しない――中道実相という考え方
忙しいなどという言葉は自分にはあまり縁がなく、また好きではないのだが、このところやたらと忙しい。
ああもう少し時間があればもっといい仕事ができるのに、時間がない時間がないとばたばたしながら、一方で、でもまてよ、時間がタンとあったら私のことだ、ぼーつとしていて少しもはかどるまい、時間がないからいいんだとも正直思う。
晴れがいいのか雨がいいのか。水不足が深刻になったり、作物が危くなったり、嫌な運動会(当然好きな人も多かろうが私の場合)があるなど特別なことがない限り、たいがいの人は晴れればいいと思う。だがそれも人間の勝手な都合で、自然の方は多少の長い短いはあろうはれども、晴れと雨を営々とくり返すことによって成り立っている。
中道実相という言葉がある。これを説明せよといわれれば、聞いている方はおろか、いっている方だって訳が分からなくなってきそうだから、一往「一方に偏しない」と定義すれば、晴れだ雨だというのではなく、晴れと雨とをくり返しながらこの世を成り立たせている姿こそが中道実相というのだろう。そしてあえて人間側からいうとすれば、晴れは晴れとして、雨は雨としてその良さを見るということではないだろうか。今の私の境遇でいえば、時間があるのがいいのか、ない方がやれるのかというのではなくして、あればあるように、なければないなりにその環境をよしとして仕事をすることが、中道実相的精神というものではなかろうかと思うのである。
話変わって日蓮大聖人当時のこと。檀越の四條金吾は主君江馬氏に、極楽寺良観への信仰を止めて大聖人の法華信仰をするよう強く勧めた。主君は、潔癖で主君思いの四條金吾を信頼していたが、そのことを妬む同僚の、信仰に関してのくり返される後言により、ついに蟄居を命じ、さらに当時の武士にとって命にも等しい所領を没収した。
大聖人は窮地にある四條金吾に多くの書状を認められ、事細かにその心構えを指導されている。その一説。
一生はゆめの上明目を期せず、いかなる乞食にはなるとも法華経にきずをつは給うべからず。(『四條金吾殿御返事』)
いかに所領ををししとをぼすとも、死しては他人の物、すでにさかえて年久し、少しも借しむ事なかれ。(『四條金吾殿御返事』
あくまでも法華経の信仰を第一とし、ゆめ所領などに執着してはならぬという厳しいお言葉である。四條金吾は大聖人のお言葉をよく身に体し、やがて主君の不興はとけ、そればかりか以前より多くの所領を賜ることになるのである。
その時の大聖人のお言葉。
ご一門の御房達又俗人等にも、かかるうれしき事候はず、かう申せば今生のよくとをぼすか、それも凡夫にて候へばさも候べき上、欲をもはなれずして仏になり候いはる道の候いはるぞ。
「所領が帰って来てこんなにうれしいことはない」といわれるのだから、場合によってはいうことが違うじやないかといわれかねない。しかしいっている大聖人も、それを聞く四條金吾も少しも矛盾とは思われていない。私たちもおかしいと思わない。そこには自然さがあり、相手を生かそうという気持ちがある。これこそ中道実相の本領ではあるまいか。
これはいい加減とは違うのである。