30 同一の苦

 

 日常われわれは「頑張」という言葉をよく使う。相手を激励する時にも、自分を鼓舞する時にも、時には単なる挨拶がわりにも使われる。お相撲さんなどは、インタビューの半分ぐらい「頑張ります」である。多くを語ることをよしとしないこの世界にあっては、誠に便利な言葉なのだろう。この種のものは、右から左へ抜けて行く程度のものであるけれども、時にこの言葉は大いに力を発揮し、そして場合によっては相手を傷つける。

 以前、知人との話の中で、話題がこのことに及んだ。彼は「頑張れ」という言葉は使いたくない。特に子供に対しては絶対に禁物だと思う、と主張した。それは単なる意見なのではなく、何らかの経験による信念なのだろう。いわれてみれば確かに、言う方は何気なく激励したつもりでも、受けた子供には場合によっては大変なプレッシャーとなる。時には深くきずつけることにもなるのである。

 逆にその一言が、希望を与え、心からの励ましになることがある。

 先日、すばらしい「がんばれ」を見た。

 友人はホスピスで残りわずかの命を、お題目をあげながら懸命に、しかしながら泰然と生きていた。

 娘は、その母と呼吸を合わせるかのように、つきっきりで看護をしていた。その娘さんが「本当に頑張ろうと思いました」といって見せてくれた一通の手紙。それはダウン症の妹と、今施設で一緒に暮らしている同じダウン症の「ようこちゃん」という16才の少女からのものであった。

みきちゃんは、おかあさんのことはやくなおしてほしいからしんぱいしてるんでしょう。

みきちゃんは、ものすごくなやんで(いるで)しよう・・・ のんちゃん(妹)のうしろにみんながおおえんするから、みきちゃんはおねえさん(なんだ)からおかあさんをたすけなさい。みきちゃんのうしろに私がおおえんするからあんまりおちこまないでください。私はのんちゃんもおおえんをします。

 少したどたどしいが、しっかりした字で書かれたこの手紙は、最後に、「みきちゃん、がんばれ、ファイト」 という言葉で結ばれていた。

 私は目頭が熱くなった。そして胸が熱くなった。なんとすばらしい、そして重みのある言葉だろう。私なんかの軽々しいものとは、訳が違う。共に苦しみ、ほんとうに一緒になって心配し、そして一緒になって闘っている姿がそこにはある。

 日蓮大聖人は『諌暁八幡抄』に、

涅槃経に云く、一切衆生の異の苦を受くるは悉く是如来一人の苦なり等云々。日蓮云く、一切衆生の同一苦は悉く是日蓮一人の苦なりと申すべし。

と仰せられている。

 仏様は一切衆生の苦を、すべて受けおってやろうといわれる。但しご自分には迷いや苦がないから「異の苦」と仰せである。これを「代受苦(代わりに苦を受く)」という。それに対して大聖人は「同一苦」と仰せられた。

 大聖人は完全無欠の、迷いを断じた仏様ではない。いつも迷い、悩む仏様である。妙法蓮華経の正法を信じ他の邪教を捨てよ、と叫ばれるに際しても「いい出せば親兄弟、弟子達に難が及ぶ。だがいわなければ一切衆生に申し訳がない。さあどうしようか」となやまれた揚げ句に、いわなければならぬと決断されたと告白されている。松葉ヶ谷のご草庵において捕らえられた時、少輔房は大聖人のふところから法華経の巻物をうばいとって、それでさんざんに額を打った。その時も、「なさけなく、それをうばい取って折ってやりたいと思った」と仰せられている。

 我々と同じく迷い悩みながら、正法流布のために懸命に頑張る大聖人にとって、一切衆生の苦はけして他人の苦ではない。悩み苦しみながら、共に頑張ろうではないかと仰せられる故に、われわれの心にひびくのである。

 

 

 

 

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