28 絶対者の否定

 

 オウム真理教の悪行が次々に明るみに出てくる。その実態は驚くべきもので、今後、更なる実態の糾明が望まれるし、彼害者や教団の今後など、山積する問題がしっかりと解決されていくことを心から望む。

 同時に、そうしたいわば直接的な対処に加え、なぜこのような教団ができ事件が起きたのか、社会的見地、宗教的見地等々いろいろな角度から原因を糾明し、反省改善することが重要であることも忘れてはなるまい。

 社会的見地とは、たとえば学校教育のあり方、学歴・成績偏重の雇用のあり方、家庭問題などなどさまざまである。これらについては今はさておき、宗教にたずさわる者のはしくれとして、宗教的見地から一言もの申さればなるまい。

 もっとも私は、彼らの教義をよく知らない。ヒンズー教の破壊の神シバ神を仰いでいるとか、キリスト教のハルマゲドンよろしく世紀末の恐怖をあおるとか、イスラム原理主義に似た絶対者にはむかう者への処刑など、いろいろな宗教の危険なところが取り入れられていて、実に危ない教団だという、今では誰もが知っているばどの知識しかないのである。だが彼らが本当に危険である理由ば、こうした教義もさるこのながら、その体質にあるのではないだろうか。

 その体質とは、教祖への絶対服従である。彼らは学習、修行といった台典的な手法から、現代科学の粋を駆使した科学的手法まで、あらゆる方法で教祖に服従し命令通りに動くことのみが、幸せをつかむ道であることを、徹底的に洗脳される。更に教祖に疑問を抱いたり自我的行動をとれば、地獄に堕ちて苦しむ、乃至現実的に死を合めて制裁が加えられるという恐怖感を植えつけられる。こうしていわばアメとムチによって、教祖への絶対服従という構図ができあがるのである。

 このような権力者ひとりにすべてが集中し、自己批判、自浄作用の失われた団体が危険であることは誰の目にも明らかである。ことにそれが宗教であれば。オウム真理教の数々の悪行は、それをあらためて実証している。

 だが、こうした絶対者への服従という体質を、「ノー」と言い切れる、あるいはいう資格を持つ宗教や教団がどれだけあるのだろうか。最近の、雨後の筍のごとく乱立する新宗教、新新宗教といわれるものば、すべてが教祖絶対である。キリスト教、イスラム教、ユダヤ教など、生きた人間でこそないが、やはり絶対的な神の存在があり、それへの絶対服従を強いる。ほんらいそのような絶対者を置かぬ筈の仏教までが、どうもあやしい状態である。

 以前聞いた話だが、アメリカの信者さんにある人が「当宗においては未断惑の導師を本尊とするのです」と説いたところ「日蓮正宗では完全な方、絶対的な方でなく、煩悩を断じていない迷いのある方を信じるのですか」といわれたという。あながちにその人をおかしな人ということはできまい。むしろ今や宗を問わず世界的に、絶対者への信仰が当たり前になっていることを示しているのであろう。

 たしかに「絶対者」に服従して幸せをつかむという構図にくらべ「師弟共に未断惑」の者同士が、一体となって幸せをつかんでいくというのは、わかりにくい。しかし今、わかりにくくばあるけれども「絶対者」を否定するこの教えが、重要な意味を持つのではないだろうか。

 これはけっして手前みそでも自慢話でもない。それどころかそうした富士の立義を標榜する筈のわが日蓮正宗に、オウム顔負けの絶対者が二人も三人もいることを恥ずかしく思う。そしてまた、自分達の信仰、生活を省みるとき、富士の立義が生かされているといえるだろうか。

 絶対者を立てぬ信仰観とはいかなるものか。またそこに説かれる幸せへの道とはいかなるものか。未断惑の世界の法門が、現代社会に求められている。

 

 

 

 

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