27 大地の慈悲

 

 大聖人が自らその後身といわれた上行等の菩薩方は、考えてみると不思議な方々である。

 その登場の一幕をえがく法華経『従地涌出品』には、

  娑婆世界の三千大千の国土、地皆震裂して、其の中より無量千万億の菩経摩訶薩有って、同時に涌出せり。

とある。

 お経にはいろいろな仏菩薩が登場するが、大地をゆり動かして地の下から登場というのは、この菩薩方ぐらいのものではないかと思う。

 でも、まさかもぐらや筍じやあるまいし、ニョキニョキ、ヒョコヒョコ、本当に地べたから顔を出した訳ではあるまい。これはいったい何を顕わそうとしているのだろうか。

 深遠な意味がそこにはあるのだろうが、その一つに慈悲の質を顕わしていると考えられないだろうか。

 慈悲にも目に見える天からの恵みの雨の如きものと、目に見えぬ大地よりの恵みの如きものとがあるように思う。どちらに軍配があがるということでは勿論ない。だが、天にばかり目がいっているわれわれに、大地、いや地の下に目を向けさせようという思いが、そこにありはしないかと思うのである。

 法華経『薬草喩品』第五には「等雨法雨」といって、仏の一切衆生に対する平等の慈悲を、雨が大きな木にも小さな草にも平等にふりそそぐことに譬えられている。誠にその通りなのだが、もし大地なかりせば、はたして平等に慈雨はすべての草木に及ぶだろうか。いろいろなものにさえぎられて、上からの水は期待できぬ草もあろう。だが、そうした草たちも、大地が雨を吸うことによって、地中より水はもたらされる。仏の等雨法雨も大地があったればこそといえなくもない。

 われわれの日常をふり返ると、日に見えるものを尊んで、見えぬものに対する感謝の念が薄いように思う。年頃の子供は親をありがたいどころか目ざわり位にしか思わない。たまに来るおじさんのお小遣と違って、小言・叱咤のともなう本当の愛情は見えにくいのであろう。子供ばかりを責められない。近頃は公共施設と称する、やたらと立派な箱物があちこちに建てられる。中には本当に必要なのか怪しいものさえある。本当に必要なものであるなら箱物だって悪くはない。しかし目に見えるハデなところに金をかけ、ゴミ処理、リサイクル、災害対策など、重要なことが後手にまわっていることは紛れもない事実だ。行政ばかりが悪いのではない。市民がハデなものを好むから、ウケをねらって愚かな行政が生れるのである。

 大地、空、水が危うい。人間にとって最も大切なこれらの恩恵があまりにも当然で身近すきるためか、少しもかえりみられない。こういうものは黙っていても常にあるものと信じて疑わない。感謝の念がないから大切にしようとも思わない。川には平気で生活廃水をたれながす。排気ガスや諸々の場所からはき出される二酸化炭素によって、空気は汚れ酸性雨が森林を枯らす。アマゾンなど大森林の伐採が続き、地球環境に重大な影響を与えている。かくして大地、空気、水は疲れ切っているのである。こうしたことが、結局自分の首をしめていることに、なぜ気がつかぬのだろう。

 地涌の菩薩方はわれわれ人間の愚行に警鐘をならしているのではなかろうか。地の底から大地をしっかりと支えている地涌の菩薩。そうとは知らず大地の上でハタハタと愚行を繰り返す人間。そんなことではいけないぞと、時には大地をゆり動かして警鐘をならされるのだろう。

日蓮が慈悲礦大ならば、南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。(『報恩抄』)

 大聖人の慈悲は今も、そして未来永劫に流れるという。だが、われわれはそれになかなか気付かない。親の慈悲なぞ気付かないであたり前などと、うそぶいてはいられない。それが自分の首をしめることになるのだから。

 

 

 

 

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