26 一通の書状

 

此の経文は二十八字、法華経の七巻薬王品の文にて候。然るに聖人の御乳母のひととせ(一年)御所労御大事にならせ給いて、やがて死なせ給いて候し時、此の経文をあそばし候て、浄水をもつてまいらせさせ給いて候しかば、時をかへずいきかへらせ給いて候経文也。なんでう(南條)の七郎次郎時光は身はちいさきものなれども、日蓮に御こころざし深きもの也。たとい定業なりとも今度ばかり、えんまわう(閻魔王)たすけ給えと御せいがん候。明日寅卯辰の刻にしやうじがは(精進川)の水とりよせさせ給い候て、このきやうもんをはい(灰)に焼きて、水一合に入れまいらせ候て、まいらせ給ふべく候。

 これは大聖人が弟子日朗上人に代筆させ、日興上人に送られた書状である。弘安5年2月25日付けであるから、大聖人のご入滅の年。この時大聖人はとても筆を取ることができぬ程に、身体的に厳しい状態にあられた。そして文面からは、若き南條時光ものっぴきならぬ大病に伏していたことが知れる。宛て名が日興上人になっているのは、時光が書状を読める状態でないことを意味している。つまり実質大聖人から南條時光へ宛てられたこの書状が、朗師の字で興師に宛てられているところに、お二人の病の重さをうかがうことができるのである。

 「薬王品の二十八字の文」とは「此経則為 閻浮提人 病之良薬 若人有病 得聞是経病則消滅 不老不死」の二十八字の経文である。「此の経は則ち為れ閻浮提の人の病の良薬なり。若し人病有らんに、是の経を聞くことを得ば、病則ち消滅して不老不死ならん」と読む。

 大聖人はかつてわが母が病に伏した時にしたように、右の『薬王品』の文を書き送り、それを焼いてその灰を、精進川(富士大石寺の近くに流れる清流)の水を朝一番に汲んで飲むよう指示されている。

 「大聖人様が病をおされて、今度ばかりは閻魔王たすけ給へとご誓願下さっておりますぞ。さあ大聖人のお心とともに、この経の灰を飲みなされ」という目興上人の声にうながされ、時光はこの命の水をいただいたことだろう。そして法華経の力と師大聖人の気塊によって、わが心の中にひそむ蘇生の力が、確かに揺り動かされていくことを実感したことであろう。

 時光は懸命に病と闘い、みごとそれを乗り越えた。それは妙法蓮華経の力であり、大聖人の気塊に満ちた祈りの力であることはいうまでもない。だが、それらによって時光自身の心身にひそむ蘇生の力――妙法の力が感応し呼び覚まされ、それによって病を克服したともいいうるであろう。つまり法と師と当人と三事相応した力ということである。

 今医療の世界で「自然治癒力」が注目されているという。近代医学はこうした力を全く無視してきた感がある。だが医学の進歩に限界が見えはじめて、改めて人間が本来持っている自から癒そうとする力が見直されているのである。

  『自然治癒力の高め方』(帯津良一著)によれば、それを高めるためには、ストレスをためない、クヨクヨしない、バランスのとれた食事をする、物ごとに積極的になる、自然を体感するなどいろいろあるが、何といっても大切なことは、自分の心身に自然治癒の力が厳然として存することを確信することであるという。

 この世に生を受けた以上、誰しもが老病死をさけることはできない。それが理ではあるけれども、直面すれば泰然としてはいられない。のっぴきならぬものであればなおさらである。

 だが我々は法華経の行者である。伏せる心をふるい立たせて頑張ろう。自分には蘇生の力――妙法がある、そしてその力を揺り動かしてくれる御本尊があり、心から祈ってくれる師や友がいるのだ、といい聞かせて。

 

 

 

 

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