25 医師の話2題

 

 死に関する二人の医師の話が、自然さを大切にする法華経や、大聖人のお言葉に通ずるように思えたので紹介する。両方共に死に臨む患者を看取る中、体験的に得た話である。

 まず、河野博臣著『生と死の心理』から、死の受容の話。

死の受容の仕方は皆同じではない。自然を相手に仕事をしてきた人、例えば農夫や漁夫などは、比較的死を自然に受け容れられるが、ジャーナリズムに取り囲まれ、非常に野心的、攻撃的で時間に追いまくられて仕事をしている人、即ち反自然的な環境で仕事をしている人にとって、死を受容することはなかなか困難なようである。

 すべてがこのようにあてはまるか否かは別として、こうした傾向があるとすれば、それは何を意味しているのだろうか。

 現代人の環境はおおむね後者である。現代社会の特徴として、現実の死がなかなか見えぬことがあげられるだろう。家で死ぬことが殆んど困難な今日では、昔のように家でおじいさんおばあさんを看病し看取るということがまずない。

 人の死ばかりでない。昔はニワトリなど家でつぶすことが結構あった。肉を食うということは鳥が死ぬというあたり前のことが目の前にあった。今はパックの中に、始めから食われるためにあるかのように並んでいる。子供の遊びの中にも虫やカエルなどの死が身近にあった。今ではゲームやマンガの中ではやたらと死ぬが、現実の死はそこにはない。

 かように死を隔離し遠ざけて死の恐怖が薄れたかといえば逆で、自然の死が無い分、妄想の中での死が横行する。いかがわしい宗教が魔界だ霊界だといって一層恐怖心をあおる。免疫のない衆生は手もなくそれに踊らされるのである。

 自然の中の死に接している人にとっても、死が怖くない筈はない。だが、本来人間にはそれを受け容れる能力があって、その能力が発揮されやすいのではなかろうか。逆に反自然的に生きる者は、妄想の中で、不自然で異常な死の恐怖を作りあげ、それがその能力を阻害するのであろう。どうも現代人は、このいかがわしい妄想の中での死の恐怖から解放され、あたり前の死を見つめる必要があるようだ。

 次にアメリカの女医、キュープラー・ロスの話。

 氏は何人もの臨死体験者からの取材により、死に向う時に共通の体験をすることを見出す。それは次の四段階であるという。

 第一に体と意識との分離。死は体が修復不能になることを意味するからその肉体と意識が繭から蝶が離れるように、まず分離する。第二に意識の中で体が全く無傷の元気な時の状態に復す。そして時空を超えて生前信頼し愛した人達が、その順に現われるという。それは現実に愛した家族から、宗教的に尊敬する想像上の人に至るまで様々であるという。第三に一つの境界を越える段階。それは文化により川であったり門であったり色々である。そして第四にそこを越えると光り輝く物があって、それに包みこまれていく、というのである。これは宗教とは無関係の医学上の話だけに、一層興味を引く。

 私はこれを読んでとっさに日蓮大聖人の『上野殿御返事』の一節を思い出した。

相かまへ相かまへ自他の生死はしらねども、御臨終のきざみ生死の中間に、日蓮かならずむかいにまいり候べし。

 死は確かに恐い。だが妄想による不自然な死の恐怖に翻弄されずしっかりと生きるならば、やがて来る死を自然の内に受け容れる能力をわれわれは持っている。そして死に臨んでは幸せな死を招きよせる能力も備えているのである。

 死後のことはわからない。だがそんなことより、大聖人様が迎えに来て下さる様な人生を送ることが大切である。大聖人様が来て下さるか否かは、ひとえに日常の巳れの信仰にあることを、医学も証明している。

 

 

 

 

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