24 大局観

 

 囲碁は今から約3000年前、中国でその原型ができたとされ、日本には5,6世紀ごろ仏教と殆んど前後して、朝鮮半島から伝えられたという。平安時代には僧侶や貴族など知識階級の間で流行し、「枕草子」や「源氏物語」にもそのさまが描かれている。鎌倉時代に入ると武士もたしなんだようで、江戸時代には京都にある日蓮宗寺院寂光寺本因坊の僧算砂を頂点として、坊さんがその主役的役割を果たした。

 日蓮大聖人が『法蓮抄』に、

  囲碁と申すあそびにしちょう(四丁)と云う事あり、一の石死しぬれは多の石死ぬ。

と仰せられ、囲碁の知識を披瀝されているのは、その筋では有名な話である。ご文の通りひとたび四丁にかかると、どこまで逃げても最後は全部の石が取られてしまう。俗に「四丁知らずの碁打ちかな」などと詠まれる、最も初歩的ルールである。

 日本最古の棋譜(碁の図面)が大聖人と台祥丸(弟子日朗の幼名とされる)との一戦であるとされているが、これはどうも江戸時代に囲碁界の頂点に君臨していた、日蓮宗僧侶によって作られたものらしい。建長5年に打たれたとしているから日朗は9才であるのに、素人目にも黒の目朗が大聖人を押しまくっているのがおもしろい。

 さてわれわれのヘボ碁とブロとの決定的な違いば、その一手が大局的、全体的な意味を持つか否かにあるといわれる。つまりヘボ碁の一手ば目先の局部にしか意味を持たぬような手が多く、ブロのそれば、全く関係がないと思われるような処にまで目のとどいた、大局観に立ったものなのである。私のようなものの目にも、なる程とうなりたくなるような、調和のとれた美しいプロの一着がある。

 話大きく変わって、わが身の廻りを見渡せば、ド素人の碁の如くなんと不調和なことがらが多いことかと溜息がでる。現代文明の根源的欠陥ば、その局部主義にあるのでばないだろうか。

 たとえば医療の問題。体というのば本来、全体として考えるべきものだろう。だが現代医学ば五臓六俯をあたかも自動車の部品の如くに考える。だから必然的に治療も部分的になりがちである。これば肝臓の薬、これば胃の薬、血圧の薬、何々の薬と馬が喰うばど薬を持たされるのばこの為であろう。この臓器をとりかえ、あの臓器もとりかえでば、その内サイボーグのような人間ができないとも限らない。

 最新医学ば随分こうしたことへの反省がなされているようだが、抜本的に考え方そのものを変える必要があるように思う。

 道路を作る、工場を造る。便利になるぞ楽になるぞとパンパン自然を崩す。オゾン層が危うい、温暖化が恐ろしいといって、その場しのぎの部分的対策ばするが、けっして抜本的な反省ばしようとしない。こんなことを繰り返していれば、その内オゾン層破壊などまだかわいいという程の、想像もつかぬようなことが起きるだろう。

 欲ばって欲ばって、目先のことしか考えず欲ばり続ける現代文明に、そろそろ見切りをつける時がきている。

 その代替となる思想ば、大局観を大切にし、全体としての調和を大切にし、欲ばることを誠めるものでなくてばならない。それにば仏教、なかでも諸法実相を説く法華経こそがうってつけだと一人気を吐く。

 では、どうしたら考え方の転換ができるのか。人間お得意の叡智をフル回転させて考える?

 いやいや遊戯の碁ならいざしらず、智に働けばロクなことばない。ここは一つ発想を換えて、智を捨てて愚に徹する覚悟が必要なのではあるまいか。愚に徹することができた時、人ははじめて自然の一部として溶け込むことができる。

 宇宙旅行をロマンでなく、不自然、不必要なことと、あたりまえに思えるようになれば、立派な愚者である。

 

 

 

 

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