23 忘己利他

 

  悪事向己 好事与他 忘己利他 慈悲之極

 これは伝教大師が『山家学生式』に記されたお言葉である。「悪事を己れに向けて好事を他に与う。己れを忘れて他を利するは慈悲の極なり」と読む。

 仏教の仏教たるゆえんは、まさにこの慈悲行にあるであろう。

 ところで声聞、縁覚のいわゆる二乗は、法華経に至る迄のすべての大乗経に「永不成仏」と嫌われた。われわれは二乗といえば不成仏と聞きなれているから、彼等は随分おかしな人達だと思いがちだが、今流にいえば声聞とは仏教を理論的に究明しようと勉学に励むインテリである。縁覚も自然の中で難行苦行し、覚りを得んと励む人達である。日の前にいれば思わず頭をさげたくなるような彼等が、こうも嫌われ続けたのは、彼等に利他行、慈悲行がなかったからである。

 これは、自分ばかりで覚っても他人を救う気持がなければダメだ、というのではない。そうではなくて、もし真の覚り、即ち幸福を得ようと思うならば、他を慈しむ心が不可欠である。否、他を慈しむ心なくしては己れの幸せは、あり得ないのだ、ということなのである。

 二乗はひたすら覚りのために自己錬磨に努める。尊いことのように思えるけれども、出発点が既に方向違いなのである。自己錬磨は他を慈しむためのものでなくてはならない。彼等が天と地がびっくり返っても成仏できないといわれたのは、彼等が精進すればする程自己の世界に深くはまり込んでいくからだ。そして慈悲の精神からはいよいよ離れていくからなのである。

 さて、慈悲と一ロにいっても、さまざまな形がある。慈父悲母といわれるように、わが子の病を癒すために、泣く子に強いてお灸をすえる父親の如き厳しい慈悲もある。お灸をすえられて泣く子を、深く懐にいだいて共に涙する母親の如き慈悲もあろう。

 その昔、不軽菩薩や喜根菩薩が大乗の法門を衆生に強いて説き聞かせ、あえて反発させることによって縁を結ばせたのは父の如き慈悲である。釈尊が『方便品』を説く最中、坐をった五千人の上慢の衆を、注意することによって更に法華経を謗ぜしめてはいけないと、止めなかったのは母の如き慈悲である。方法は異なれども、他を思いやる慈悲の気持に変りはない。

 日蓮大聖人は生涯、数々の法難に値われた。それは他でもなく、一切衆生に妙法を持たしめんと励むが故の難である。大聖人も人の子。こうした行動が、自分ばかりか親兄弟や弟子達に大難をもたらすことに、大いに悩まれたと自ら告白されている。だが、「いはずは慈悲なきににたりと思惟」されて、敢然と苦難の道を選ばれた。

 ご生涯の中で最も厳しく激しい難であった文永8年の竜ノロの首の坐、そして佐渡ご流罪。

その時厳寒の佐渡、雪中の三昧堂で大聖人はこう語られている。

されは日蓮が法華経の智解は天台、伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども、難を忍び慈悲のすぐれたる事は、をそれをもいだきぬべし。(『開目抄』)

 法華経の文々句々の理解は、碩学の天台、伝教両大師に遠く及ばないけれども、大難を忍び一切衆生の成仏を願う慈悲の心においては、誠に恐れ多いことながら……、と大聖人は仰せられる。ここには、先哲に対し一歩を退かれつつも、法華経の真髄が畢竟、慈悲行であるとの信念と、その精神を身をもって行じているという自負が溢れている。

 われわれは大聖人のような信念も力も当然ながら持ち合わせていない。だが、法華経を奉ずるかぎりは、せめて自分の力の及ぶ限り慈悲の何たるかを考え、そして少しでも実践したいものである。

 もっとも、己れを忘れる程に他を利すれば、慈悲どころでなく、「もうこりた」(忘己利他)になりかねない。

 あくまでも分相応に。

 

 

 

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