22 鯉のぼり

 

 鯉のぼりの季節。最近はいくぶん少なくなったのだろうか。それでもあちこちで、五月の風をいっぱいに吸いこんで大空を泳いでいる。

 鯉のぼりは中国の鯉の滝登りの故事に由来している。黄河の上流に龍門という高く急峻な滝がある。この滝を登りきれば龍になれるというので多くの鯉が集まって挑む。だが、ただ登るのも大変なのに、急な流れに逆らって殆んど静止状態にあるところを、漁師がこれさいわいと捕っていく。鷲、鷹なども群るように集まってこれを食らう。だから万に一つも登りきる鯉はいない。それでも龍になるべく、次から次へと挑む。

 この勇猛果敢な龍門の鯉の故事は、立身出世を象徴するものとして早くから日本にも伝わり、画題などにもなって画かれてきた。

 江戸時代、五月五日の端午の節句に男の子の立身出世を願って家々に幟が立てられ、それに武者絵などと共に鯉の滝登りが画かれた。それが次第に幟に画くのでなく、吹きながし風のリアルな鯉になっていって、明治の頃には今のような形が定着したのだそうだ。

 鯉のぼりは辞書を見ればどれも「鯉幟」である。なりたちからすればそうなのだろうが、実際泳いでいる姿や、その故事を考えればなにかしら「鯉登り」の方があっているような気がする。

 日蓮大聖人はお手紙の中に、しばしばこの龍門の故事を引かれており、なかでも熱原法難に際し南條時光にあてられた、別名『龍門御書』の名で知られる『上野殿御返事』は有名である。

 弘安2年9月、富士下方の熱原の地に、大聖人の仏法を信仰する農民20数名が逮捕される事件が起きた。

 容疑は刈田狼籍(他人の田の稲を盗むこと)であったが、それはわが寺院および領地に大聖人の仏法が流布することを阻止せんとする、滝泉寺の院主代である入道行智の策謀であった。加えてこの地は北條家の直轄領であり、幕府は積極的に院主代の言い分を支持した。

 鎌倉に連行された農民達は、幕府の中枢にあった平左衛門の私邸で、さまざまな脅しを受け、刈田狼籍の罪を問われるのでなく、法華の信仰を捨てることを迫られた。平左衛門は、農民など少し脅せばすぐにいうことを聞くだろうとたかをくくっていたのだろう。だが農民達は屈することなくお題日を唱え続けた。

 平左衛門は脅しても効果がないとみるや、彼らを禁獄し、そしてその内の三人の農民の首を斬った。

 この間大聖人は、農民と共に闘う日興上人や南條時光などに、細かな指示や激励の言葉を書き送られるとともに、門弟等に対しこの法難を門下全体の一大事として受けとめるようご教示されている。そして大聖人ご自身、農民が逮捕された10日後の弘安2年10月1日、四條金吾へ宛てた書状『聖人御難事』において、わが本懐が成就したと仰せられたのである。

 法難は一段落した。11月6日大聖人は身を挺してことにあたった南條時光に、「これは原の事のありがたさに申す御返事なり」とて『龍門御書』を認められたのである。

 わが門弟等、かの熱原の人々のごとく、龍門の滝に集まる鯉のごとく、大願を起こせ。

 そしてこのたび師も弟子も相寄って、皆共に仏道を成じようではないか。

と。

 考えてみれば人生は、龍門の滝のようなものである。程度の差はあろうけれども、本人にとっては厳しい滝である。そして真剣に生きようとすれば、なおさらその厳しい流れは身にこたえる。

 だがわれわれは南無妙法蓮華経にささえられながら、大いなる志ざしをもってそれに挑んでいこう。往古龍となるべき大志を抱いて龍門の滝に挑んだ鯉達のように。龍門の故事によって大聖人に激励され、信念を貫いた熱原の農民達のように。そして今、大空を元気よく泳ぐ、あの鯉のぼりのように。

 

 

 

 

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