21 苦悩の価値

 

 日蓮大聖人は『白米一俵御書』に次のように仰せられている。

彼の経々(爾前経)は、いまだ心あさくして法華経に及ばざれば、世間の法を仏法にかせてしらせて候、法華経はしからずやがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候。

 爾前経、なかでも小乗経は、この世は所詮無常なものであり、迷いの根源であるとして全面的に否定する。権大乗経は小乗経よりは多少世間に目をむけるが、それでも仏教を理解しやすいように、世間にことよせて説くぐらいのことである。

 それに対し法華経は、仏法と世間とは別物でなく、世間の実相こそ仏法そのものであると説く。これが爾前経と法華経の決定的な違いである。

 では法華経は、無常な世界、苦悩の渦巻くこの現実を、そのまま肯定しそれを仏法といっているのかといえば勿論そうではない。苦悩の渦巻く現実を認めた上で、視点を変え、苦悩そのものに価値、真実を見出すことはできないかと問うているのである。

 われわれの日常生活には、老いゆく苦悩、病の苦痛、そして死に至る恐怖が大きく横たわっている。加えて、大地震や戦争など、天災人災こもごも含めて社会問題がゴロゴロしている。

 それらを前にしてわれわれはあまりに無力であり、結局のところただうろたえるしかない。

 だが、誠実に、真摯に、一所懸命に、前を向いてうろたえるならそれはすばらしいことではないだろうか。

 死をつきつけられて眉一つ動かさぬ人がいるとすれば、その人は戦さで人が殺し合っても、不治の病を宣告されて泣き伏す人を日のあたりにしても、さぞ泰然自若としていることだろう。悟りというものがそういうものならば、どうも悟れそうにないし、またあえて悟りたいとも思わない。

 そんなできもしないことを望むより、多少みっともなくとも、誠実に迷い、誠実にうろたえたいと願う。

 大聖人はただ一人高い境地に遊ぶことをよしとされなかった。生涯世の悲惨な現実を見据えられ、それと格闘し、苦悩し続けられたのである。大聖人の身を投げうっての誠意は、必ずしも国主にも一般民衆にも通じたとはいえないだろう。だが苦闘されたそのこと自体に大きな意味があるのではあるまいか。

 そして他の仏教諸師と大聖人の違いがここにある。

 世界史の権威であり、大聖人を心の師と仰いだ故上原専禄氏はこの違いに注日して次のように言う。

 日本の仏教が、かつて寺院から、ひとりひとりのこころのなかへと、居をうつしたように、ひとりひとりのこころのなかから、このドロドロの現実の社会生活へと居場所をかえるようになったら、そこで仏教がどうはたらけばよいか、という問題にもおのずから答がでてくるだろう。

 むつかしいことは、迷うのをやめにして悟ることではなく、迷い迷うてどこまでも迷い続けることだ、と思うのです。・・・迷いの他に悟りはないことを教えることによって迷いの道への精進を支えてくれるものが仏教だ、と私は独り合点をしているのです。

 迷いの他に悟りはないとは随分大胆ないい方である。だが、法華経や大聖人は確かにそう示されている。『勧持品』の末代正法行者への迫害の予言も、不軽菩薩の杖木瓦石も大聖人の忍難弘教も、その苦難に大いなる価値を見てこその言葉であり行動であった筈なのである。

 生きている限り苦悩は尽きず目の前に現われることだろう。懸命の努力によって解決しうるものもあろう。だがどうしようもないものに出会ったら、素直にそして誠実に苦悩し迷うことである。苦悩することには価値がある、その中にすばらしい何かを見出すことができると教える法華経の言葉を信じて。

 

 

 

 

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