19 端坐して実相を思え

 

 法華経は全28章からなっており、それ自体で完結している。だが、その前後にいわばプロローグ、エピローグにあたる「開経」と「結径」がある。

 開経は『無量義径』といい、それまでの40余年の説教は、爾前権教、すなわち仮りの教えであり、これから説く法華経こそが真実の教えであることを宣言する。

 結経は『仏説観普賢菩薩行法経』(通称『観普賢経』)といい、法華経を説き終わった釈尊が、3月後に涅槃に入る(お亡くなりになる)と宣言されたので、弟子方が、釈尊亡き後残された者達は、いかように修行し成仏したらよいかを問うだのに対し答えたものである。

 この『観晋賢経』につぎのような一文がある。

 一切の業障海は、皆妄想より生ず、若し懺悔せんと欲せば、端坐して実相を思え。

 恐らく末代の凡夫は、わが身の不幸を過去の悪業・宿業のなせるわざだといたずらに嘆いたり、あるいは業障論をふりまわして衆生を嘆かしめる者が、多く出ることを予測されてこのように遺言されたのだろう。

 仏様の心配はみごとに的中している。人は自分の不幸を何かしら運命的なものと捉えがちである。それが自分の不注意や怠慢から生じたことでさえ、宿業のせいにする。それ故その原因を探ろうともせず、いわんや改善への努力もせずに、やれ因縁切りだ宿業転換だと、わけのわからんことに熱中するのである。

 「業障」というものは「妄想」すなわち邪見から生ずるものである、と仏様はいわれる。すべては因果応報なのである。しかし私はこの妄想という仏教用語を、むしろ現代用語たる妄想=「思い込み」ほどの意として拝すとよりわかりやすいように思う。たしかに、たとえば生まれながらに五体が不満足であることなどを、過去の宿業と把えることも可能である。しかしそれはいささか消極的に過ぎはしないだろうか。仏様は我われに、ただそうした現実を突きつけようとされているのだろうか。

 確かにそうしたことがらは、運命的で目分ではどうにもならぬことかもしれないが、それを単に不幸と思うか、現実をまっすぐに受けとめて、自分なりの幸せを見つけていくかは、まさにその人の精神如何によるであろう。不幸と信じて疑わぬというなら、それは確かに業障ということになろう。しかしそうした現実をしっかりと受け止めて、自分なりの道を力強く歩もうとする者にとって、それは罪障でも業障でもない。そう考えれば業障などというものは、その人間の不幸と疑わぬ妄想が生じさせていることになろう。私はこの「一切の業障海ぱ、皆妄想より生ず」をそのように理解したい。

 さてでば、どうすればそのような心境になれるのか。仏様は仰せられる。「若し懺悔せんと欲せば、端坐して実相を思え」と。仏教でいう懺悔とは、キリスト教でいう懺悔と違って、積極的に正しい道を歩む努力・精進を意味する。もしひとたび自分を不幸にするものが、悪業だチョーチンだと妄想をたくましくする、わが後ろ向きの心だと知ったならば、そいつをやっつけなければならない。そのためには「端座して実相を思」うことが肝要である。

 実相を思うとは、第一に自分のおかれた現実の姿を受け入れることであろう。そして次に、その現実を踏まえて、どのように生きることが、最も自分らしい生き方であるか考え実行するその姿であろう。

 妙法とはこの世のあるべき姿、また自分のあるべき姿−実の相を意味する。

 ご本尊は自分の心を写す鏡である。

譬えば他人の六根を見ると雖も未だ自面の六根を見ざれば自具の六根を知らず、明鏡に向うの時始めて自具の六根を見るが如し。(『観心本尊抄』)

 われわれはご本尊にむかって端坐合掌し、題目を唱える。それはご本尊、大聖人への報恩のためである。同時にまた、諸法実相の鏡にわが心を写して、はたして曇りなきかを虚心坦懐見つめる大切な時でもある。

 「よし頑張ろう、自分なりに」と思えたら、その時が「端坐して実相を思え」た時ということになるのであろう。

 

 

 

 

もどる