18 自然

 

 日本の里に近い山には、たいがい杉や檜が植林されている。時々出かける奥武蔵の山々も例外でない。戦後精力的に植林されたものの、輸入材におされてその殆んどが材木とはならない。

 尾根づたいに歩いていると、片側が自然林、もう片方が杉・檜の林という景色によく出くわす。まったく対照的な風景を左右に見ながら歩いていると、何とも不思議な心持ちがしてくる。

 自然林の方は、クヌギ・コナラ・ニレ・ヤマザクラ・ホウノキなど大きな木からヤマツツジ・コウゾ・ヤマアジサイなど小さな木、それから――あぁ少しばかり知ったかぶってもとてもおっつかない程の木々、そして草花が、一見雑然とみえて、その実、お互いが調和し合っている。そしてそこには色々な虫や動物が住み、鳥の声が響きわたる。

 春には赤・紫・白・黄の花々、新緑がまぶしい。夏には虫、動物達が元気に動きまわり、秋には菓がなり、紅葉が全山を覆う。冬には枯葉の下であらゆるものが眠る・・・四季折々の顔。林全体がまさしく生きているのだ。

 それにくらべて植林の方は、一定の間隔をおいて整然と単調にただ杉が立ち並ぶ。たしかに木は生きているのだが、生きているという感じがしない。むしろ無気味なのだ。

 晋段杉林を見て、こんなことを思ったり考えたりすることなどないのだが、こう左右対照的な姿を見せっけられると、さすがの私もその違いにおどろく。

 人間は、自然を破壊し破壊し破壊し続けて、自分達の住む世界を造りあげてきた。自然と調和しながら自分達の空間を確保していた時代はまだよい。コンクリートでかためた現代の都会は、本当は生き物が住めるような処ではないのだ。あの杉林と同じ、いやそれとはくらべものにならぬ程の無気味な世界。そこには生と生の循環、調和、自浄、再生の力がまったく無い。人はそういうことに極めて鈍感だから、平気な顔をして住めるのだろう。

 以前、コスタリカの山奥に住む森の民「ブリブリ族」の長老が小さな子供と森を歩きながら語っているのをテレビで見た。

・・・森の神が我々を生かしてくれている。森には食べ物も薬もある。だから白人のように便利なものを使ってはならない。・・・

 まさか今とき、森で暮すわけにはいかない。軟弱なわれわれが暮せるはずもない。だがこのような言葉は、不自然さに麻庫した私などにはグサツとくるのである。

 それにしても、現代文明はどうしてこうも壊したり造ったりすることが好きなのだろう。

 現代文明は西洋文明である。西洋文明の根っこにあるのはキリスト教文明である。とすれば案外、この世は神が造ったという考えが現代人に伝染しているのかもしれない。

 ここは一番、多少手前ミソになるけれど、仏教的考えにきりかえたらと思う。仏教はこの世は誰かが造ったなどと不自然なことはいわない。他でもない、そこに存在する総てのものによって成ぜられていると説く。互いに因縁し合って自ら然なる世界が成ぜられているのである。

 仏はそうした森羅万象の実の相を如実に知見される。われわれは凡愚だから、そんなことはできない。だが知見できなくてもよいのである。知ることができなくとも、心の奥底で自分はこの法界の一部である、否、法界と自分は一体であることを感ずることが大切なのだ。

 日有上人は、

一人即身成仏すれば法界皆即身成仏にて候也。さてこそ法界有縁無縁平等利益とは廻向申し候へ。(『御物語聴聞抄』)

と仰せられている。

 自然と自分は一体である。であれば自分の幸せと法界のそれとは、別である筈はない。

 我われが、お勤めの時にも、塔婆供養の時にも「乃至法界平等利益」と唱え続ける理由の一端はここにある。

 

 

 

 

もどる