17 オロオロ歩く

 

  小学生の頃、宮沢賢治の「雨二モ負ケズ」を暗唱した。たしか国語の授業でだったと思う。

 「ヨクミキキシ」を「ヨクミ、キキシ」と覚えて、長く不思議にも思わなかったぐらいだから、理解はおろか味わいや感動などとは程遠いものであった。

 それどころか、なんだかさえない詩だなあと思ったのを覚えている。

 「ミソと少しの野菜」を食べて、小さな野原の1軒家、それも掘立小屋に住んでいる。それだけでもさえないのに、「死にそうな人」にただ「こわがらなくていい」というだけで何もできない。「ヒデリノ時」には涙をながして、「寒サノ夏」にはオロオロ歩くだけ。何一つ有効なことができないにいたっては、殆どダメ男の泣きごと位にしか思えなかったのである。

 当時の自分を愚かな小僧となつかしむ程、考えが進んだ訳でもないが、年だけは随分重ねた今は、そもそも「有効なこと」とは何だろう、いやそんなものが実際あるのだろうかと考える。

 死に行く人に「こわがらなくていい」と手をにぎる他に、何か有効な手立てがあるだろうか。異常気象の前に人は結局無力ではないかと。

 無力なのだから努力は無意味だとか、何もするなというのではない。むりょくながらに自分自身にも、また他に対しても最善を尽くす努力は当然するべきである。しかしその根底に、とくに他に対する場合には、本当はオロオロ歩くぐらいのことしかできないのだという自覚がなければならぬと思う。

 「雨ニモ負ケズ」は、明日をも知れぬ重い病の中で、小さな手帳に書き記された。もし再び健康が得られたなら、すべてを置いて人々のためにオロオロ歩きたい。

 その願いには、名聞名利のカケラも入り込む余地がない。

 義侠心や博愛などとも異質な、そうした世間の価値観をつきぬけた、人としての一片の良心とでもいうべきか。

 これを記す病床の賢治の心にはいつも不軽菩薩の姿があったという。杖でうたれ石を投げられても逃げまわりながら、ひたすら人々の心に手を合わせ続けた不軽菩薩。その姿は、まさしく「オロオロ歩き」であった。

 

◇        ◇          ◇

 弘安3年、日蓮大聖人の晩年に南條時光の弟、「五郎殿」が16才で夭折した。この時大聖人は悲嘆にくれる母に一通の手紙を書かれている。『上野殿御書』。

人は生まれて死するならいとは智者も愚者も上下一同に知りて候へば、始めてなげくべし、をどろくべしとはおぼえぬよし、我も存じ人にもをしへ候へども時にあたりてゆめかまぼろしかいまだわきまえがたく候。

 人は生まれたならば必ず死をむかえる。それ故常に生死を習い覚悟せよと自分も心得、また人にも説いてきたのだが、――つい先だってお値いした時に、おぉおぉ立派な男の子に育ったものよと、目を細めたばかりのあの五郎殿が、花が散り月がかげるように、あやなく亡き人となってしまうとは(本状の追中)――夢ではないか、幻ではないかと、いまだわが心の整理もおぼつかぬ、と大聖人は語られる。

 高邁な法理を説かれるでも、力強い教訓や励ましの言葉すらなく、そこにはただ、わが子を亡くした母と共に、苦しみ呻吟する大聖人のお姿がある。

 五郎殿の母はこのお手紙を手にして、どう思ったであろうか。もっと力強い励ましがほしいと思っただろうか、悲しみを乗り越える確信に満ちた導きの言葉をと思っただろうか。

 否。「まことともをぼへ候ければ、かきつくるそらもをぼへ候はず」――本当のことなのだろうかといまだ信じ難く、励ましの言葉をと思うのだが、その言葉すら見つからぬと、悲しみの底でオロオロされる大聖人のお心に、真の慈悲を感じられたに違いない。

 

 

 

 

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