14 マッチポンプじやいかん

 

 早朝出勤時の混雑したバスに久しぶりに乗った。終点であり私の目的地でもある駅が、もうそろそろかなと思う頃、ギギイと重そうに止ったバス停に、5、60人程の長い列があった。きっと近くに団地でもあるのだろう。それでなくとも混んでいるバスに、必死になって乗り込んでくる。しかし3分の1もさばけない。残された人達は次のバスを待つのだろう。最後の方の人なんかは次の次になるかもわからない。大変だなと思いながらも、一方で何か変だなという気がした。

 駅まではバスで5、6分、歩いたって20分はかかるまい。イライラしながら待って、あげくギュウギュウづめに苦しむくらいなら、歩いた方が良いのに。あの中には運動不足だ、ふとり気味だと、時間と金をさいて水泳・テニスなどをしている人もいるんだろう、などと想像しているうちに、バスは駅に着いた。

 だが、改めて考えてみると、自分も含めて現代人はこれと同じような愚考を随分しているような気がする。便利に便利にといっているうちに、オサンドンから掃除・洗濯・風呂たきにいたるまで、日常生活はおどろく程楽になった。しかしさんざ楽にしておいて今度は運動不足、ふとり過ぎが間題になって、ダイエットだジョギングだとさわぐのである。

 こんなことならまだ良い。便利の追求は多くの公害を生んできた。イタイイタイ病や水俣病などは今に完全な解決をみていない。地下水の汚染はもはや全国的な間題だし、地球的にいえば温暖化やオゾン層の破壊など深刻である。これらは総て便利を求め続けた故の罪障である。

 便利を求める心は欲である。仏教は人間が不幸になる元凶は欲心であり、その克服なしに幸せを得ることはできぬと教える。

 『仏遺教経』というお経には、

多欲の人は利を求むること多き故に苦悩も亦多し。少欲の人は求むること無く欲すること無ければ則ち此の患無し。・・・不知足の者は富めりと雖も而も貧し。知足の人は貧しと雖も而も富めり。

 と説かれている。少欲知足――少欲の生活の中にこそ真実満足がある。欲をかけばかくほど欲の底なし沼におちいって満足は得られない。そこをわが『寿量品』自我偈には「放逸著五欲堕於悪道中」――放逸にして五欲に著し、悪道の中に堕ちなん――と厳しく指摘されているのである。

 他の動植物にも欲はある。だが彼らには自動制御装置がついているらしく、そのままで少欲である。ライオンはシマウアやシカを捕るが、いくら獲物がたくさんいても食べる以上には捕らない。自然界は自動制御装置によって、本来あるべき姿が保たれているのである。

 地球上で唯一自動制御装置を持たぬのが人間である。ほうっておけばいくらでも欲をかく。欲をかくから偉いんだとばかりに。ことにこの100年あまりは、未曾有の欲かきをして、自然界をもまき込んで破滅の道をまっしぐら。はからずも欲をかけば不幸になるぞという仏の言葉を実験的に証明した。

 さすがの人間も、今日の状況には危機意識を持たざるをえないようで、いくつかの対策も考えないではないらしい。だが、根本の欲かきを止めないで、いくら対策を講じてもダメである。自分でせっせと放火しては、たいへんだ、たいへんだと消火に努める。少しぐらい努力したって、大元の放火を止めなければ、それこそ焼け石に水である。マッチホップではいかんのだ。

 仏の警告は的中した。だったらここはすなおに信用して、欲そのものにメスをいれる覚悟が必要である。自動制御がきかぬ人間が少欲になるためには、自らの理性によるしかない。信の一字とはわが心の奥にねむる理性を、ゆり起こすことなのだ。

 まあしかし、深酒をしては胃腸薬のお世話になっている手合いの話しや、あまり説得力がないか。

 

 

 

 

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