13 愚者の宗旨

 

  「ラマレラ」と確かいったと思う。それがどこにあるのかもうろおぼえ。南の国の小さな村の話である。

 2,300人程のこの村の食をささえるのはクジラである。何日も何日も回游してくるのを待つ。やっと姿をあらわしたクジラがどんなに沢山いても、1頭しかとらない。いや1頭しかとれない程原始的で、すべてが人力の漁なのである。国連がクジラ保護のため、世界のクジラ漁の実態を調査して廻った時、この村に来て驚いた。注意や警告をするどころか、反対に小型の捕鯨船を提供した。彼らは安全で確実、おまけにいくらでもとれるこの文明の力を、しばらく使った後、おしげもなく放棄した。こんなことをしていればクジラはきっと来なくなる。一時的な楽が、結局は自分達の首をしめることになる。自然と体でつきあう彼らは、理屈ぬきにそのことを悟ったのである。

 自然保護だ愛護だとさわぐのもけっこうだが、今自分達が謳歌している現代機械文明が、自然を追いつめ破壊していることを、根本から自覚、反省してのものでなければ意味はなかろう。

 遠くは油をとるだけのためにクジラを殺すだけ殺し。近くに食物として乱獲の限りをし、さんざんに追いつめた者同士が、動物愛護だ、いや食料確保だと文句をいいあっている。

 いい迷惑なのは、クジラとラマレラのような真に自然を大切にしてきた人達である。

 文明人はしたり顔でいうかもしれない。「今まで破壊してきたからこそ、保護の責任があるのだ」と。だが、一方で現代文明を謳歌し、抜本的、決定的反省もなしに、いくら自然保護を唱えても、そんなものはチャンチャラおかしい。右手でさんざん殴りながら、ああかわいそうにと左手で赤チンをつけているようなものではないか。

 クジラ保護の調査に行った人達の目には、ラマレラの人達のクジラ漁が、いかにもあわれに思えたのであろう。それが今日の自然保護の限界を示している。それに対しラマレラの浜辺で錆ついたまま放置されている捕鯨船の姿は、この地に住行人達の人としての良心と、自然への敬虔な心を示している。

 現代文明の最大の欠陥は、人間に対する過信である。もっといえば、人間の知力への盲信である。叡智をめぐらせば出来ぬことなど何一つない。そう信じて走り続け築きあげた現代文明。だがその文明が真に良いものをもたらしたことが、一度でもあっただろうか。一つの発見は多くの問題を生み、一つの前進は多くのとりかえしのつかぬ後退をもたらしてきた。

 もうそろそろ目を醒ましてはどうだろう。人間は特別な存在ではない、自慢の知力も自分達が思っている程大層なものではないのだと。

 大石寺第9世日有上人は、聞書のそこここに、「師弟共に三毒強盛」とか「師弟共に末断惑」とか、はたまた「事迷」とか「愚者迷者」などと仰せられて、「愚者の宗旨」たることを強調されている。晋通宗教、信仰といえば『悟り』が強調されるのに、日有上人は、ひたすら 「愚者」を連呼される。

 そこには、法義的に重要な意味があるのだが、私はここはすなおに「己れの愚を知れ」と受け取りたい。

 人間が真に良い生き方を目指すなら、真の幸せを求めるなら、その大前提として、まず己れの愚たることを自覚せよといわれるのである。こざかしき知恵、知識を振りまわせば、問題はややこしくなるばかりである。あせって前に進もうとすれば更にこじれる。ここは一番立ち止まり、自分の立っているところを見直そうではないか。自分は愚か者である。そして愚かな自分は、廻りの多くの物にささえられている。大自然に包まれている。そう思えた時、はじめて幸せへの一歩を踏み出すことができるのだ。日有上人は現代のわれわれに、こう訴えられているように思うのである。

 

 

 

 

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