11 一念三千

 

  「一念三千とは何ぞや」と問われて、「十界それぞれに十界があって百界、それに十如是をかけて三種世間をかけると三千で……」とはじめると、いってる方も何だか訳がわからなくなるし、聞く方はもっとわからないだろう。だから少し方向を変えてアタックしてみようと思う。

 理屈、理論がわかりにくいのは、それが身にあててのことでないからである。それなら一念三千を実践された人の行動を見ればよい。700年前、日蓮大聖人より「あなたの行動こそ、一念三千法門そのものだ」といわれた一人の女性がいる。日妙聖人である。

 彼女は鎌倉に住し、大聖人の仏法に縁された。

 文永8年10月、大聖人は厳寒の佐渡へ配流となられた。明けて文永9年、『開目抄』を完成させ弟子檀越に宛てられてから2ヶ月が過ぎた5月、彼女は幼い乙御前と病弱な夫を鎌倉に残し、はるばる佐渡の大聖人を訪ねられた。『日妙聖人御書』。

相州鎌倉より北国佐渡の国、其の中間一千余里に及べり。山海はるかにへだて、山は峨々、海は濤々、風雨時にしたがふ事なし、山賊・海賊充満せり。宿々とまりとまり、民の心虎のごとし犬のごとし。・・・

 道の険しさといい、世情のぶっそうなことといい、それがいかに困難な旅であったかは、半年前同じ道を歩まれた大聖人が一番よく知っておられる。この一人の女性檀越が突然姿を見せた時の大聖人の驚きは、いかばかりであったろう。

 はるばるやって来はしたものの、彼女には大聖人にさしあげる何物もない。それどころか、帰りの旅費は大聖人が用だてられているくらいである。また何をしてさしあげることもできない。廻りには立派な御弟子方がおられる。

 だが、そのようなことはどうでもよい。彼女はもっとも大切な、妙法蓮華経の五字七字に対する絶対信と、それを貫き通す志ざしとを懐いて、必死になって歩き続けた。重畳たる幾山河を越え越えて、大海原さえ乗り越えて、やっと師の無事なお姿を拝す。疲れきった、しかしながら心から安堵した彼女の笑顔を見て、大聖人は大きくうなずかれたに違いない。

 「そなたのその姿、その心こそが、一念三千、凡夫の成道なのだ」と。

 再び『日妙聖人御言』。

 この妙法蓮華経には過去の立派な方々――雪山童子や楽法梵志、薬王菩薩などが示された種々の修行の功徳がすべて収まっている。勿論法華経一部八巻二十八品の功徳も収まっている。総じて釈尊の因行果徳の二法のすべてが収まっている。その妙法を受持し、凡愚ながらに志ざしのまことを示すならば、その一念の中に、これらの功徳をあますことなく譲り受けることになるのだ。

  我等具縛の凡夫忽に教主釈尊と功徳ひとし、彼の功徳を全体うけとる故なり。

 それは中国の重華と萬という二人の民の子が、孝養の心深き故に王の位を譲られたのと
同じこと。

民の現身に王となると、凡夫の忽に仏となると同じことなるべし。一念三千の肝心と申すはこれなり。

 一念三千の肝心とは、凡夫が凡愚ながらに妙法を受持し、真心、志ざしを示すその一念、その姿こそをいうのだと大聖人は仰せなのである。

 一念三千の成道とはこういうことなのだと語り終え、大聖人は不軽菩薩の義になぞらえて、彼女に「日妙聖人」という名を贈られた。

日本第一の法華経の行者の女人なり。故に名を一つつけたてまつりて不軽菩薩の義になぞらえん。日妙聖人等云云。

 ところで前項で、『白米一俵御書』を取り上げて、観心の法門とは凡夫の志ざしであることを述べた。そしてここでは、一念三千と妙法受持と凡夫成道と、加えて不軽の行は同義であり、その根底はやはり凡夫の志ざしであると示されている。どうやら大聖人の仏法では、言葉はさまざまでも、意図するところは同一根であるようだ。

 

 

 

 

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