10 小善成仏

 

 小善には大きくかけて二つの意味がある。

 一つは否定的な意味の小善。仏教では仏教的善行と日常的善行とをわけ、後者を小善といって、これは善でも成仏の因とはならないとされる。また仏教の中でも、大乗教に対して小乗教を小善といい大乗の中でも最勝の法華経に対すれば、その他の爾前の経々にすべて小善とされる。日蓮大聖人は、

  善なれども大善をやぶる小善は悪道に堕つるなるべし。(『南條兵衛七郎殿御書』)と、爾前経の教え、戒律などは小善であるばかりでなく、もし大善たる法華経を破るものであれば、大悪であると仰せである。

 だが、今ここで述べようという小善は、こうした否定的なものではなく、もう一つの肯定的小善である。『方便品』に、

童子の戯れに、沙を聚めて仏塔を為せる、是の如き諸人等、皆已に仏道を成しき。・・・童子の戯れに、若しは草木及び筆、或は指の爪甲を以て、画いて仏像を作せる、是の如き諸人等、漸々に功徳を積み、大悲心の具足して、皆已に仏道を成じき。

という御文がある。

 みごとな修行を示すわけではない。500戒、250戒などの難行苦行とは無縁な、無邪気な子供のたわむれの行為。だがそこに、1分の道心があるならば、それは充分に成仏の因であるというのだ。これを小善成仏という。

 法華経は、それまでの経々に嫌われていた、二乗や女人、悪人の成仏を説いて、真の平等世界を開いた。と同時に、それまで成仏の因とはならぬとされてきた、われわれ凡夫の日常のことがら――「世間の事法」に光をあて、そこにあえて成仏の因を認める。

諸法実相(この世界にこそ本当の姿があるんだなあー)

世間相常住(世間の姿こそ常住なんだ)

という経文はまさにそのことを示す。それを具体的にいえば、「童子の志ざし」となるのである。われわれは、まごうかたなき「童子」である。分別もない愚かな童子である。だが、その愚かな童子が、純粋な一分の志ざしを示した時、それは分別げな大人の、こざかしい善行より、幾倍も美しい。

 『白米一俵御書』には、その尊く美しい凡夫の志ざしが、せつせつとうたわれている。

  ただし仏になり候事は、凡夫は志ざしと申す文字を心えて、仏になり候なり。

 末代の凡夫は昔の賢人・聖人のような、命を捨てたり身の皮をはぐなどはできないっだがそのような特別な事でなく、凡夫は志ざしを大切にして成仏を目指すのだ。

 では志ざしとは何か。

 ただ一つ着て候衣を法華経にまいらせ候が身のかわをはぐにて候ぞ、うへたる世に、これ離しては今日の命をつぐべき物もなきに、ただ一つ候御料(おそなえ物)を仏にまいらせ候が身命を仏にまいらせ候にて候ぞ。

 志ざしとはむつかしいことではない。寒い日、一つしかない絆纏をそっと母の肩にかけるおもいやりの心。ひもじい時、一つしかないおにぎりをわが子に与える暖かい心。それが「志ざし」である。

まことのみちは、世間の事法にて候。

 まことの道、成仏への道は、高邁な理屈の中、特別な修行の中にあるのではない。変哲もないわれわれの日常生活のそこここに、光り輝やく志ざしの中にあるのだ。

 日々の食にもこと欠きがちな、大聖人の身延でのご生活。お弟子方のことも心配しなければならない。そんな時、一俵の白米が届けられた。

白米は白米にあらず、すなわち命なり。

 その白米を法華経の御宝前に供えられながら、大聖人は供養者の志ざしに胸を熱くされたことだろう。白米は白米でない・師と弟子が、人と人が真心によって成ずる[命]である。

 

 

 

 

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