8 通力によらず(その2)

 

 但し法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず。

 右の御文は『唱法華題目抄』の末文である。

 日蓮大聖人は法華経が末法の一切衆生を救済する教えであることを、道理をもってこんこんと述べられる。「問うて云く」「答えて云く」と繰り返されて、問者は最後にかく疑問を呈す。

 今迄あなたが破折された方々は、そうはいうけど色々な奇瑞・通力を現じた方々ばかりだ。そんなすごい人達がなんて法華経の最勝なることがわからんのだろう。

 「答えて云く」と大聖人は最後の答えを述べられる。

そのような奇瑞を見せた人は過去に沢山いる。十二年もの間耳の中に恒河の水をとどめた外道の仙人もいれば、はては第六天の魔王なぞ、立派な修行者・覚者に姿をかえて、経を説いてすら見せた。だが結局真実の教えを説いてはいない。いや自分が真実ならざるものを説いているいる故に、かえって通力などでカムフラージュしようとするのだ。「利根」とは機根の勝れることである。今流にいえば立派な人と言もいえばよいだろうか。

 地位の高い教養のある人、皆から尊敬される人。本来の意味とは少しニュアンスが違うかもしれないが、まあこの場合はこんな風に考えてよいだろう。「通力」とは超能力ぐらいのところか。利根や通力を売りものにする人は昔からいたらしい。もっとも昔のは今のと違って随分やることが大胆である。スプーンをまげる、ふせ字をあてる、少しばかり体を宙に浮かす(それらホンの一瞬)、霊魂と話をする(これもそうとうあやしい)などというチンケなものではない。なにしろ恒河の水を12年もの間耳の中に入れてしまうというのだ。

 だが、こんなものはことの是非、正邪とは関係がない。むろん成仏――幸せへの道とも無関係である。無関係であるのに、人間はどうしてもハデで一足飛びの奇跡を求める。正邪などビつでもよい、中味などなんでもよい、外見がすごければそれでよいのである。だから、自分を売りこもうとする者は、特に宗教者などは、中味よりひたすら外見をかざる。立派そうな姿で、こんな奇跡を、こんな不思議をと演出してみせる。そしてこんなにすごい私かのだから無条件に信ぜよといいはるのである。多くの人々はたやすくこれにひっかかる。

 大聖人はそんなことではいかんと仰せなのである。外見や奇瑞に目をうばわれずに、あくまでその人のいう言葉自体がまことであるか、いつわりであるか、その人の行動が正であるか邪であるか、つまり法門の邪正によって判断せよと。

 そして大聖人は着飾りもせず、はったりもみせず、淡々としかし力強く生涯語り続けられた。「人が幸せになる道は、利根や通力ではない。信の一字――お互いボンクラ同志であるけれども、共に妙法の当体であることを信じ合い、強い信頼を築くことである」と。

 われわれは貪瞋痴の三毒の心を消し去ることはできない。だが、お互いの信頼によって、それを包みこみ発揮させぬことはできる。この世の様々な差別相。人為的なものは別として、性別・賢愚・肉体的な差別は、それ自体無くすことはできない。だが信頼によって、その違いを越えて手をつなぐことはできる。今の世の中を不幸にしているのは、ひとえに信頼の欠如である。

 過去、不軽菩薩が「我深敬汝等 不敢軽慢 所以者何 汝等皆菩薩道 當得作仏」

の二十四字をもって、人々を礼拝して歩いたのは、まさに信頼を築く行為に他ならない。

大聖人は

  彼の二十四字と此の五字と其語殊になりと雖も其の意是れ同じ。(『顕仏未来記』)

と仰せられた。ようするに妙法蓮華経とは、他人も、そして自分をも、けして軽んずることなく信じていくことなのである。

 利根でなくとも、通力を現ぜられずとも、妙法を行ずることはできる。幸せの道はこれ以外にない。

 

 

 

 

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