7 通力によらず(その1)

 

 現代の不安な世相を反映してか、おかしな宗教が大はやりである。宗教ばかりでない。占いだ、悪霊だ、UFOだ、超能力だと、子供までまきこんで上を下への大さわぎ。科学が発達して未知のベールがどんどんはがされて、この種のものは下火になるかと思いきや、全く逆である。

 所詮科学が解明したことなどたかが知れていて、一寸先の自分の運命すら知り得ぬことは、今も昔も変わりはない。いや、科学万能、効率第一、物質中心のさつばつとした世に生きるだけ、現代人の方がそういう世界に安易になびきやすいということだろう。

 それ故か現代のは、昔のものにくらべて、ずいふん質が違うように思う。何といったらいいか、軽薄で、陰湿で、人為的で、おまけに金がからんでいて、ようするにタチがあまりよろしくないのだ。

 まあしかし、タチの良し悪しはこの際置いとこう。実際霊界やUFOや超能力は存在するのだろうか。

 古今東西、これだけ多くの人達があるといい続けているのだ。しかも三世十方はおろか、壁のむこうすら見通せぬ者が、「無い』などとどうしていえようか。だが、生まれてこのかた、自分の眼でこれらをただの一度も見たことが無い以上、そしてそれを見たという人の話が、意地悪く疑ぐる私を満足させたことが無い以上、「有る」ということも私にはできない。つまり「わからん」ということだ。

 性根が疑り深く、鈍感だからわからんのだろう。鈍感大いに結構。わからなくとも日常何一つ不都合はないし、第一そんなわからんものにおびえたり頭を悩ますムダが無くてよろしい。

 なんと夢の無いことよというなかれ。世の中にはもっと健全に感動させられる不可思議な世界が、いくらでもあるではないか。

 山の上で一人夜空を仰ぎ見れば、ああ小さな自分がどんどん吸い込まれていくような満天の星。UFOなどよりよっぽど神秘的である。

 縄文杉の木肌にそっと手をあてれば、2000年前のキリストはおろか、3000年前の釈尊、いやもっともっと昔からこの木は生き続けているのかと、ただそれだけで、スプーンが曲がったり肩に幽霊がのっかるより、はるかに実感として畏怖、畏敬の念をいだく。

 しかしこれも所詮個人の好み。どうしても感心できないのは、自分の幸不幸を安易にこうした世界に結びつけて一喜一憂することだ。

 われわれの不幸は、たとえば病苦とか貧乏、はては身体的欠陥など、それを受けとめる自身の心持ちに問題があるのだ。生きている以上、老病死は避けることができぬ。まして今自身の廻りにうず巻く多くの社会問題等は、けっして悪霊や宇宙人がもたらしたのではなく、われわれ人間が心のまずしさから作りあげたものなのだ。

 現実を直視せず、その根本原因を見誤っていくら頭をひねり汗をかいても、真の幸せには一歩も近づかない。方向が違うのである。

 古今の真面目な思想・宗教は、その教えは当然異なるけれども、地道で生活に即したものである点では共通している。

 原始仏典研究の権威中村元氏は、釈尊の思想についてこう語る。

かれは特殊な哲学説や、形而上学説を唱道したのではない。人間としての真の道を自覚して生きることをめざし、生を終えるまで実践したのである。

 キリストもやれ奇跡だ復活だと宣伝されるけれども、彼がしたことは、病気や貧乏に苦しみ奇跡を求める衆生に、人間を不幸にしているのはそういうものではなく愛の枯渇であると、やさしく手をにぎって自ら愛を示したのだと聞く。

 では、わが日蓮大聖人の法華ごころは、その辺をどのように教えられているのだろう。

 ――ちょうど時間となりました。チョト一息ねがいまして、また次回。

 

 

 

 

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