6 信頼の世界を見出す

 

 童話作家の椋鳩十が、各地の山里を歩きまわり、イノシシ狩りをなりわいとする山の民について、興味深いエピソードを綴った『山の民とイノシシ』という本がある。その中に、狩りに活躍する犬(これをシシ犬というのだそうだ)と狩人との話があって、大いに心ひかれた。

 イノシシ狩りには「一に犬、二に鉄砲」といわれるぐらい、シシ犬は重要な役をはたす。それ故名人は必ず名犬を持っていて、これは鹿児島の山深い里に住んでいた、安楽という老狩人と名犬を取材した時の話。

 前段は鳩十がカヤぶきのあばら家で、いろりを囲みながら、直接目と肌で感じとった、安楽じいさんと犬とのほの温かい光景が語られる。それは「安楽と犬のようすを見ていると、人間と犬というより、なにか親と子の暮らしといった感じがするのでした」というような情景。その一つ一つを紹介できないのが残念。そして後段は安楽じいさんが語る猟犬を飼う秘法――秘法といっても鳩十がそんなのがあったらと聞いたまでで、「秘法でなく、わしはこんなところに注意しておりまするわ」と次のようなことを語る。

 第一に手のこと。「手はやさしく体をなぜてくれるもの、手は食べものをくれるもの、犬にとっては愛情ぶかくなつかしいものという気持ちを、犬にもたしておくことが大切です」――猟の時の合図は殆ど手でするが、そう思っている犬は実によく手の動きをさとって動くようになる。だから日常手でたたいたり、いじめたりは絶対の禁物。

 次にむら気を起こさぬこと。「むら気で怒ったり、かわいがったりしたのでは、犬には人間の心がわからなくなります。犬はおそろしいから人間のいうことをきくだけで、人間を信頼していうことをきくことがなくなってしまいます」iわれわれが犬を飼うのと違って、彼らは常に命をかけている。何が起こるか予測のつかぬ猟で、強圧的にしこんだものなど殆ど役に立たぬという。信頼関係で探く結びっけられた犬は、その時その時に自ら進んで工夫をしたり、とっさに主人の心を読んで行動をとる。

 要するに「人間が愛情をそそげば犬もまた愛情にこたえようとして、こちらの心をよみとって、さまざまな行動をしめすようでごわす」というのが安楽じいさんの犬のしこみ方の秘法なのだ。

 考えてみると人間は、どうも信頼関係を築くのがへ夕な生き物のようで、争いごとが絶えない。記憶に新しい湾岸戦争(平成3年1月)。宗教、イデオロギー、民族などの諸問題、加えて過去の複雑な経緯などが絡みあっていて、軽率に論評を加えることは慎まなければならないだろう。ただ、そのどの部分を聞き見ても、他を強圧的に自分の支配下に置こうという欲望と、それによって生ずる絶対的相互不信が、ドツ力と横たわっていることだけは事実である。古今東西、人間は同じ愚をくり返し、争いごとを続けてきた。大きなな戦争から日常のもめごとに至るまで。

 人間社会に平和をもたらすには、人間は抜本的に考えを改めなければならないだろう。秩序というものは、力によってではなく、信頼によって築くのだと。

 不軽菩薩が自分に対して石を投げたり、杖で打つ者さえも、けっして軽んぜず、彼らの心の中に必ずあるはずの仏の心に手を合わせたのは、今流にいえばひたすら信頼関係を作るための行であったといえないだろうか。

 その信とは「せっかく信じてたのにうらぎられた」などとボヤくような薄っぺらなものではない。うらぎりや軽蔑、嫉妬などを根こそぎ押していくような、ひたすらな信である。知識や理屈をも包みこむ程の愚直な信である。

 不軽菩薩は強い信念をもって信頼を成就していかれた。そして不信の渦巻くわれわれの世にも、よくみれば安楽じいさんと犬のような信頼の世界を見出すことができる。

 では、「信の一字」を標ぼうする、我が大石寺門流の実態やいかに。

 

 

 

 

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