5 悲しみが心を開く

 

 『寿量品』には「良医治子の譬」が説かれている。

あるところに立派な医者がいて、多くの子供を持っていた。ある時外国へ出張し、帰つ てくるとその子等は誤つて毒を飲み苦しんでいる。さっそく草を調合し飲ませると、たちまち病は癒えた。だが深く毒がまわってしまった数人の子が、錯乱状態にあってどうしても薬を飲もうとしない。そこで良医は一計を案じ「わたしはまた外国に出かけなけ   ればならぬ。年老いている故無事帰れるかどうかわからないが、もしものことがあってもここに薬を置いておくから、飲みたくなったら飲むように」と言い置いて出かける。しばらくして出張先から使いをやり、自分の死を告げさせる。子供等は知らせを聞いて悲嘆にくれ、激しく父を恋い慕う。その悲しみと恋慕の情は、彼らの閉ざされた心を醒まし、われにかえった彼らはさっそく父の残し置いた薬を飲んで、病はたちどころに癒えた。めでたしめでたし。

 この譬え話は、『寿量品』の冒頭に説かれる法華経の二箇の大事の一つ、久遠実成についての疑問に答えたものである。久遠実成とは、仏様はこのたび伽耶城のほど近くの菩提樹のもとで、悟りを開かれたと誰もが思っていたのに、実はそうではなく、五百塵点劫という 気も遠くなるほどの大昔に既に悟られ、以来ずっと娑婆世界にあって説法教化されている、 ということだ。じゃあなぜお亡くなりになったり、ああして菩提樹下ではじめて悟られたよ うな姿を見せられるのだろう。

 それは常に姿を見せていると、衆生は私を恋い慕う気持ちを失い、上慢の心を起こす から、方便をもって入滅したり、また顕れたりするのだ。

 かくして先の譬えが説かれるわけである。

 以上が『寿量品』のあらましだが、話の中心が久遠実成にあることは明らかである。いや それは『寿量品』のみならず、法華経全体、更に釈尊一代の説教の根本といわれる。にもか かわらず私は、久遠実成よりもその後に説かれるこの讐え話に興味をひかれる。

 仏の寿命の長遠なることは、仏教においては決定的に重大なことなのだろうが、私のよう なボンクラにはどうもピンとこない。加えてなまじっか現代教育を受けているから、過去を さかのぼれば、縄文時代、恐竜時代、アメーバーの時代、そして地球誕生、銀河系誕生と、 どんどん違う方向に行ってしまって、五百塵点劫とうまく折り合いがつかないのだ。

 だが、大聖人の『小乗大乗分別抄』の次のお言葉は、そんな私を少なからず勇気づける。

又二乗作仏、久遠実成は法華経の肝要にして諸経に対すれば奇たりと云へども法華経の中にてはいまだ奇妙ならず、一念三千と申す法門こそが奇が中の奇、妙が中の妙・・・。

久遠実成は大切だが、もっと大切なことは一念三于の法門、つまり末法のわれわれボンクラ衆生が、如何に救われるかだと仰せなのである。

 そこで気を良くして、先の讐え話について少々。そのどこにひかれるかといえば、本心を失った子供達が目を醒ますシーンである。お経文には「常懐悲感、心遂醒悟」――常に悲感を懐いて心遂に醒悟しぬ、と説かれている。

 人は悲しみ故にわれを失うと思いがちである。だが本当はどうも逆で、有頂天の時こそ自分を失いやすく、悲しみやつらさが、かえって毒された心を醒まさせるもののようである。

 私の知り合いに、以前はとんでもない放蕩おやじだったのが、ダウン症の子を持ってから、すっかりやさしい良いおやじになった人がいる。理屈でなく、そのつらさ悲しさの中に、何かを見たのだろう。

 からだの痛みはそこが損ねたことを知らせ、治療をうながすための信号である。ならば心の痛みも、同じようにその痛みをもって何かを知らせる信号と考えてよいはずである。

 良医はわが子の心を開くために、あえてあのような信号を送った。子供はそれに涙し身もだえしながらも、いやそうすることによって目を醒ました。

 悲しみは、頼みもせんのに次々にやってくる。だがボーツと立ちつくしてばかりはいられない。

 

 

 

 

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