4 人を敬うということ

 

 法華経全28章の内、第20章『常不軽菩薩品』を、日蓮大聖人はご自分の行動の規範として生涯大切にされた。

 お経はとかく現実ばなれした話が多いのだが、ここに説かれることがらは生きた人間のにおいがする。

  『不軽品』の主役は不軽菩薩である。この方一風変わっていて、晋通の修行者がする経を読んだり説いたり研鑽したりなどを一切せず、値う人ごとを礼拝することのみを行とした。

  『私はあなた方をけっして軽んずることをしない。どんなに極悪といわれる人であっても侮ったりしない。すべての者が仏の心を必ず持っていて、それがいつかは開花するのだから」といって手を合わせる。人々はこの貧相な修行者を(たぶんそうだろうと思うのである)けっしてよく思わず、特に同じ修行者には嫌われた。「仏様にならいざ知らず、お前のような訳のわからん奴に、成仏できると許可されるなどむなくそわるい」というのだ。彼らは石を投げつけ、杖木でなぐりかかった。だが不軽菩薩はけっしてこの行を止めようとはしない。必死に逃げまわってはまた振り返り、石を投げ杖で打った相手を礼拝するのである。

 私はこの不軽菩薩の変わった行(しかし、こうした日常的なものが本当の行なのかもしれない)を思うにつけ、お経にはかくサラリと書かれているが、実際どんなだったろうと考える。

 不軽菩薩も自分と同じさまざまな心を持った人間であるなら、石が顔にあたり、杖が背中を打てば、くやしい情けないと思わぬ筈がない。時にはなんで自分ばかりがこんな目に、チクショーチクショーと逃げまわりながら、「いやいや私はこんな弱い心に負けないぞ」と振りかえり、笑みを浮かべて礼拝したこともあったろう。その笑みが、多少ひきつったような泣き笑いであったことも、一再ではなかったろうと想像するのである。

 こう思うことは不遜だろうか。だが「不軽の跡を紹継す」といわれた大聖人も、松葉ヶ谷のご草庵をおそわれ、少輔房に法華経第五の巻で額をさんざんに打たれた時に、凡夫故に情けなくくやしく思ったと告白されている。そのくやしさの中で、敢然と少輔房こそ自分を育てる善知識だと言い切られたのである。

 また俗弟子の四條金吾が、同僚の讒言で主君より蟄居を命ぜられ、苦境に立たされた折も、大聖人は『あなたの短気が心配である。くれぐれもやけになったり人を怨んだりせず、気を引きしめて行動を慎むように」と忠告の手紙を送られ、こう結ばれている。

一代の肝心は法華経、法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり。不軽菩薩の人を敬いはいかなる事ぞ。教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ。(『崇峻天皇御書』)

 過去遠々劫の不軽菩薩も、700年前の大聖人も四條金吾も、怨みや嫉妬、軽蔑の渦巻く人と人との間で、ともすればムラムラと湧き起こる己が醜く弱い心と必死になって闘いながら、すべての者の心の中に、ひと筋の光明を見出そうと努められたのであろう。

 なんのために。それが自分の、そしてまた自分をとりまく者の、唯一の幸せへの道と信じられた故に。

 そして今、その末裔と自称するわが身を振りかえれば、ああなんということだろう。つい先だっても・・・・一年前も二年三年前も、いやずっとずっとこの醜く弱い心と本気で闘おうとすらせず、ただ翻弄されて失敗をくり返している。生きていく上には、目には目をということもあるなどと、自分を正当化すらして。これではいけない。法華経も大聖人も、人間にできぬような無理難題を言われているわけではないのだ。

 どんな人をも、たとえ自分を否定し、軽蔑する人であっても、その心の中に光明を見れる者になりたい。

 常不軽菩薩。お経には、常に人を軽んじなかった故にこう名付けられたとある。しかし翻訳以前のサンスクリット原典には、「サダー・パリブータ」――「軽蔑される者」とあるそうだ。

 

 

 

 

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