3 おのれの愚を知る

 

 法華経のすばらしいところは、それまで「度し難し」と嫌われ無視されつづけた者達に、光をあてたことである。「等雨法雨」、大きな木も小さな草もすべてが等しく慈雨を受ける。それが法華の根本精神である。

 具体的にいうと、永不成仏といわれた二乗、地獄の使いと嫌われた女人、生きながらに阿鼻大城に堕ちたといわれる提婆達多――一闡提の悪人が、この法華経ではじめて救われるのである。

 ああそれはなんとすばらしい、などと落ち着いてはいられない。二乗が永不成仏といわれたのは、未だ得ざるに、自分はもう悟りを得たと思い込んでしまった故である。女人が嫌われるのは、風の如くとらえにくく、心根が河の如く曲ってい、物をそねみ、淫事にかしこく、などなど経文は殆んどいいたい放題である。悪人は五逆謗法の罪による。

 今、胸に手をあててわが心をあばき見ればこれは他人事ではない。未だ得ざるを得たりと思い込むなど、日常のことである。心が曲りとらえどころがないなどは、もしそうでない者がいるなら見たいくらいだ。提婆達多といえば思い出がある。とにかく小さい頃から、提婆といえば悪人、悪人といえば提婆と聞かされていたものだから、鬼か蛇か、怪物ぐらいに考えていた。ところが、長じて中勘介の『提婆達多』を読んで驚いた。提婆達多は私と何ら変らぬただの人間だったのである。彼が釈尊に対して行った数々の悪業。その根にあったもの
は、若かりし頃、耶輸陀羅姫という1人の女性を悉達太子(釈尊の出家前の名前)と争ってそれにやぶれた嫉妬心である。数々の悪業こそ私は犯していない。だが、その根元にある嫉妬の心は私に現前とある。そう気がついて御書をふり返れば、末代の悪人等、つまりわれわれと、提婆達多はいつも同列に置かれている。私がうかつにも小説を読むまで、それに気づかなかっただけのことなのだ。

 こう考えいたれば、爾前の諸経でさんざん嫌われ、法華経において光をあてられた者とは、他でもない。現に今、呼吸している私自身であり、生きとし生けるすべての人間なのである。

 法華経は一切衆生は平等であると説く。それはまず、すべての者が、先にあげたさまざまな負の心を持つという点で平等である。そして、その愚悪の凡夫が、己が心の醜い部分を自覚し内省する処、貴賤賢愚老若男女の区別なく、それぞれの立場で、その本位を改めることかく、等しく救われるのだという点で平等である。

 法華経は、かくわれわれに暖かく光を投げかける。だが、投げかけられた当のわれわれ自身を見ると、どうも笛吹けど踊らすの感がある。ことに現代社会は、そうした反省や自覚など、かけらもないかに見える。

 もともと平等であったはずの世界に、人為的に差別をつける。強者と弱者、優者と劣者とを造りあげて、強者は君臨し弱者をしいたげようとする。そして殆んどの者が何かしらに対して自分が強者たらんとし、またそうであると信じている。草木や動物に対し、人間は疑いもなく優者であると信じている。人間同士においても、地位の高い者は低い者よりも優者であると信じ、病人に対して健康な者が、体の不自由な方に対して一般に健常者といわれる人が、強者であると信じている。だが法華経に照らす限り、草木動物と人間とは本質的に何ら変りはない。まして人間同士においておや。

 草木や動物がどんどん追いつめられて、生きることさえままならぬものがいくらもある。動植物が生きにくい世の中が、なんで人間に生きよかろう。体の不自由な方が住みにくい世の中である。そういう方々が住みにくい世が、なんで健常者に住みよいものか。もしこの当然のことを感じ得ないとすれば、それは無自覚。無反省による傲慢が、感覚をマヒさせているだけのことだ。そういう世の中は必ず亡びるだろう。

 よい生き方、よい世の中を目指す第一歩は、己の愚を知ることである。その反省の刹那刹那に人は輝く。そしてその時、人は何に対してもやさしくなれる。

 それが法華の精神である。

 

 

 

 

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