2 能持の人が法華経である

 

 山歩きが好きで、ときどきフラッと出がける。高山をきわめたり、厳寒と闘ったりするのではなく、草本や動物、川のせせらぎなどに出会うことが目的の、文字どおりの「山歩き」である。なぜ山に行くのかと問われて、「そこに山があるから」と答えた人がいるそうだが、その山は私などが登るものとは、土台訳が違うのだろう。私の答えは簡単である。山に行って自然につつまれると、何かホッとした気持ちになるのである。

 それは身のまわりのことでいえば、朝餉夕餉のにおい、乳首をほおばる赤ん坊の顔、ほがらがな笑い声などに接した時のような、なつかしい気分である。苔むした岩に腰をおろして、流れる汗をふきながら、小川のせせらぎ、烏や虫たちの声、緑ににおうそよ風、可憐な草花に身をゆだねれば、「ああ、なんと諸法は実相なんだろう」などと、わかったようなことをつぶやきたくもなる。

 それにしても自然は、なぜこんなにもなつかしいのだろうか。そこには同種や異種の、し烈々争いもあるだろう。今私の耳を楽しませてくれる烏たちの歌も、本当をいえば自分達の縄張りを主張する声で、私の闖入を警戒しているだけのことがもしれない。手元にある二、三の動植物の本を開いても、彼らはけっして安穏な日々を送っていない。「ああすばらしい、ああなつかしい」などと呑気なことをいっていると、いつ自然にやっつけられないとも限らない。現に今、突然の嵐がおとずれたり、腹のすかした熊にても出会えばイチコロである。しかしそれてもなお、いいしれぬ安堵感を覚えるのは、自然が調和のとれた、あるべき姿だからであろう。

 私は思うのだけれども、人間は生まれながらに誰しもが、心の中に黄金の珠と黒い珠とを持っているんじやないだろうか。黄金の珠とは妙法の珠で、これは「あるべき姿」を求める心。そしてもう一つの黒い珠は「欲心」である。ついでにもう一つ特徴をいえば、他の動物と違って自動制御装置がついていない。

 現代の科学文明は、人間の欲望を根底的に肯定し、無制限に追求してできた黒珠文明である。だから当然「あるべき姿」は追いやらる。自然は無残に破壊され、日常生活の中からも、ホッとするような光景はどんどん姿を消していく。このまま黒い珠が幅をきかせ続ければ、遠からずこの世は亡ぶだろう。この世の行く末は、いまやこの世で一番行儀が悪く、「あるべき姿」の破壊者である人間の行動如何にかかっている。

 自動制御装置を持たぬ人間が、黒い珠の魔力に打ち勝って「あるべき姿」を示すには、自らの意志による他はない。そこに信仰の重大な意味がある。

高祖曰ク、能持ノ人之外二所持ノ法ヲ置カスト云ヘリ・・・末法ノ法華経卜ハ能持ノ人也。加様ニ沙汰スル当体コソ、事行ノ妙法蓮華経ノ即身成仏ニテハ候へ。

 これは大石寺第9世日有上人の『連陽房雑々聞書』のお言葉である。

 われわれは今、黒珠文明のまっただ中で生きる故に、生活の大部分がいやおうなしに黒い珠に支配されている。しかしそれでも、妙法の珠を失っている訳ではない。それが証拠に私のようなものでも、自然や、少なくなッタにせよ身のまわりの「あるべき姿」に接すれば、ホッとするのである。

 法華経の教えがわれわれに望むことは、わが心の中の妙法の珠をしっかりと自覚して、それをぴかり輝かせよ、ということではないだろうか。「あるべき姿」にもっともっと敏感になって、それをわが人生の中で体現せよと教えているのではないだろうか。

 法華経とは文字でもなければ高邁な理論や法則などでもない。変哲のない日常生活の中で、内なる妙法を輝かせ、そして「あるべき姿」を成している「能持の人」を法華経というのである。

 日有上人はそれがまた、「事行の妙法蓮華経の即身成仏だ」とも仰せられるのである。

 

 

 

 

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