1 妙法とは何だろうか

 

 いくじがないので、時々体調不良になる程思い煩うことがある。それが、いつの頃からか、ああだこうだとさんざ思いつめていよいよというすんでのところで、「俺だってこう見えても法華の行者なんでい。コンチクショー。南無妙法蓮華経」と、変な開き直り方を覚えた。すると不思議に気持ちがスツとおちつく。むろん百発百中とはいかないが、これが実にありがたい。理屈ぬきである。信とか救いとかは、煎じつめていけば、理屈や理由などが介入できないものなのかもしれない。

 だがしかし、私はそのありがたさに救われながらも、もう一方でやはり「妙法とは何だろうか」という問い――つまりは理屈をも大切にしたいと思う。

 信仰は私にとって、杖柱であると同時に道標了もある。いやしくも「法華の行者だ」と啖呵を切った以上は、そのはしくれとして自らの環境の中で、自分という個性の中で、少しでも妙法的に生きたいと願う。そこに「妙法とは何か」という問いが生ずるのである。

 本居宣長の「敷島の 大和どころを 人問はば 朝日に匂う 山桜花」との歌ではないが

 「霊山の 法華ごころを 人問はば・・」、さていったい何と答えたらいいのだろう。改めて考えてみると、茫洋としていてはっきり形がつかめない。気になりながらも真剣に考えようとしなかったのだから無理もない。このさい、はっきりしないながらに自分の考えを整理してみようと思う。あまり大上段にかまえると、頭がこんがらがって、またいやになっても困るので、いつものブラブラ歩きの散歩のつもりで、軽くいこうと思う。犬の道中、なにかひろい物があればめっけもんである。


      ◇        ◇         ◇

 妙法蓮華経とは一念三千である。しかしのっけからこれでは、さっぱりわからない。そこでもう少しさかのぼると、一念三千の出処は『方便品』の諸法実相である。諸法実相とは今流にいえば「ああ、この世の事々物々は、ほんとうにあるべき姿なんだなあ――」ということであろう。ならば妙法とは、基本的にまず、「この世の本来あるべき姿」を意味すると解してよいと思う。

 法華経は、それまで無常なものとされてきたこの世の事々物々に光をあて、その無常な中に妙法――真実の姿を見出しているのである。生じては滅し、滅しては生ずる事々物々が、互いに複雑に関連し合って生み出している調和、それを妙法というのである。

 これはキリスト教の説く「この世は神が造ったもの」という考え方とは、根本的に異なる。かといって、宇宙の絶対的真理とか法則など、およそ神仏の智によらずば知り得ないような類いのものでもない。そんなわれわれ凡夫とかけ離れたものでなく、もっと自分にとって現実的なものである。村を一歩も出ないおばあちゃんにとっては、その村の自然や隣人や家族との中に成ぜられる、あるべき姿である。もっとも今日では、私のような小市民でも、地球的な環境破壊を気にせざるを得ないご時勢である。時代や個人の位置の差によって、視野の大小はあろうけれども、ともがくそれぞれが意識する環境の中で、成ぜられるところの「あるべき姿」を妙法というのである。

 日々唱えるお題目を分解してみると、なるほどと思う。「妙法」とは、本来あるべきまことの姿。それは次の「蓮華」によって讐えられる。蓮華は汚泥の中でこそ、清らがな花を咲かす。これはこの妙法が、われわれ煩悩多き凡夫の中にこそ、成ぜられることを意味する。また蓮華は花と実とが同時に咲き実るという。これは因果倶時といって、凡夫たる因位の中に、成仏の姿を見ていくことを示す。つまり妙法とは、われわれ向こう三軒両隣の凡夫こそが主役になって、成ぜられるものなのである。「経」とはその教え。そしてわれわれはこの妙法に「南無」、すなわち帰命するのである。

 とまあ、ブラブラ歩きにでがける前に、一応こんな風に定義しておこう。

 

 

 

 

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