(4) 日蓮本仏論の宗教的意義

 

日蓮本仏論の文献的研究は随所に之を論じ、又最後に保田大石の三師の説を紹介した。今ここではその宗教的意義に就いて私見を述べて見たい。

大乗仏教はその華々しい理論構成と共に幾多の矛盾を抱へてみる。

先刻の智学居士が「わが経しあと」(師子王全集)に、「お題目を唱へて仏になったと自分免許しても始まらぬ。凡夫がどうして三十二相十力四無所畏等の功徳を具へうるやうになるのか。取意」と自問して居られるのは、成仏の何たるかを理解するのに苦しむ初心行者の悩みを言ひ得て面白い。

心仏及衆生是三無差別と、華厳に喜ばせておきながら、釈尊滅後未だ三十二相を具して仏になっなといふ話を聞かぬ。次の作仏は弥勒仏が七十万年後に出られるとはいふが、それでは一世界一仏の原則により、外の人は七十万年の更にその以後までお預けを食ふのか。序品列座十八万の聴衆は何時になっなら作仏し得るか、成仏の記をいただいても、無量の諸仏を供養した後だとあっては、一生成仏だ、即身成仏だと言ふのと衝突するのではないか。

大悲闡提の大士は衆生済度の為に永劫に成仏せぬといふ。然らばサッサと成仏して無餘涅槃に入ってしまふ仏様より大慈悲の御方だ。仏は無縁の慈悲を垂れる天人師に在す筈、それが菩薩より慈悲が劣るやうでは心細い話だ。

まして釈尊は、未顕真実の梵網に裟婆往来八千返と歌っても、皆是真実の法華経で、一番骨の折れる末法の弘通を地涌千界に押し付けてしまったのでは、益々菩薩株は上るばかり、仏は救済力でも菩薩に劣ることになる。

何よりも重大問題は、釈迦の説いたのは小乗だけ、大乗は人師の偽托の説だといふ、大乗非仏説論。おかげで信仰の有る者はキリスト教徒のやうな科学は科学、信仰は信仰と、割り切っなやうでゐて実は自己欺瞞的症状に陥り、信仰の無い者はお経の説者も人間だからお経は内容で取捨選択すべしと、謂己均仏の魔想を起す。哲学だけならそれで良いが宗教としては成立なない。

こと日蓮宗に於ては、地涌発遣も教主釈尊御自身の事業ではなく、作経家の筆端から生れた芸術的表現となってしまふので、聖人が地湧上行の再誕だと言はれても、まだ仏典の文献学的研究が進まない頃の、純真な筆匠が勝手に抱い妄想だとなりかねい。これでは天台以来の教相学は完全崩壊、大乗仏教は改めて出直さなければならず、聖徳、聖武、鑑真、良弁、伝教、義真、慧心、明慧等の賢主大徳の捨身剥皮の奮闘も、何をしたのだかサッパリ分らず、徒らに美術史家と観光屋の飯の種を提供したのに過ぎなくなる。大乗仏教を基礎に展開した飛鳥奈良以降の日本文化史の偉大な業績は、一度に根無し草になってしまふ。

 

 

これを解決するのが日蓮本仏論だ。

 

富士門徒の日蓮本仏論は、三身常住三世益物の宇宙根本仏の本地を、完全に仏に成り切った本果妙でなく、仏になる過程の本因妙に置き、却って本果に垂迹の地位を与へてゐる。ここから派生する大特徴として、本果の釈尊を師とし、本因の上行が弟子となって末法弘通の命を受けるの一往の義として、再往の深義は本因の釈尊が直に末法の弘通に出現し、地涌発遣はその末法救主としてあらはれた本因釈尊即ち日蓮聖人の仏法上の地位を証明する為の手続に過ぎないとする。そして本因本果を区別する手段として能説教主の荘厳相の有無と、所説法門の種脱を論じる。この観点から解釈すれば、御義口伝、日向記等には荘厳有無を主、種脱を従として説かれ、両巻血脈には種脱を主、荘厳有無を従として説かれ、一般の御書には時に応じて両者を略説されてゐるのであって、説法の特徴は口伝関係の書に至って明瞭になる。明治以前には宗門の教学は特に一致派に於ては台学に重点が置かれた(わが経しあと)為に、台学に無い法門は閑却される傾向があった。智学居士は旧一致派出身者ではあったが御書を尊重すべきことを主張し、宗門人の反省と相俣ってその傾向は大巾に修正されたが、まだ御書には詳説されてない本因本仏種勝脱劣法門は御書にその片鱗が見えるにも拘らず、学者のまじめにとり上げる所とならなかったが、それでも清水梁山居土は相当深くこの問題に突入し、智学居士も結果的にはこれと大同小異の所まで攻めつけてゐるが、まだ智学居士の場合には本果中心説であり、梁山居士は代々の貫主即日蓮とまでの踏切りは見せてゐない。

さて、その本果とは何であらうか。これは法華経寿量品に説かれた久遠実成の如来、三世十方の諸仏の本師であり、一切衆生皆成仏道の妙法なる本法と一体の関係に在る根本仏なる本仏釈尊の属性を十箇に分別して天台大師が法華玄義に説かれな名目の一である。これを本化聖典大辞林の要約に従って先づ紹介する。詳しくは同書「ほんもんの十みよーー」に譲る

本因妙――仏法は因果の法だから本仏も唯何の原因も無しに究寛の宝位に就かれたとは説かない。無因にして仏果を得るのは因果撥無の邪見になる。そこで本仏になる為には本仏になる因行が具はらねばならない。その本仏になる因行を言ふ。

本果妙――本因により酬いられた結果なる本仏の果徳。

本国土妙――正報(人)は必ず依報(土)に依って住する。本仏は或は己身を説き、或は化身を説き、或は已身、或は他身を示し、或は己事、或は他事を示す六或の化を娑婆世界及び餘処無量の国土に布がれるが、その本地身の住所たる寂光土を云ふ。

本感応妙――本仏教化の感応。

 

 

本眷属妙――地湧本化の菩薩。広くいへば文殊観音舎利弗等も、叉敵対者提婆も、この中に入る。勿論地涌の如き直接弘化を助ける役をする眷属ではない。

本涅槃妙――本仏の住しなまふ大安楽(そこから大活動が起る)の境地。

本寿命妙――本仏無量の徳行に依って得られ、且今も得られつつある無量の寿命。

本利益妙――前九妙が衆生を教化して起される利益。

以上は天台大師の言はれる所である。これで見れば、

本因に依って本果を得られた本仏は、本国土に住し、本涅槃に摂入せん為に本神通、本説法を垂れ、衆生を教化し、本感応を起して本利益を生じ、衆生は本眷属となり、更に本仏の化を助けて永劫の本寿命のうちに如来の設化を拡張する。

といふことになり、芯は本果に在ることになる。だが天台の釈で止ってしまっては日蓮宗では無い。日蓮聖人は何と言って居られるであらうか。既に論じた部分もあるが、改めて要約して之を紹介しよう。

本因妙――南無妙法蓮華経を唱へる者の事である。唱へると言っても日蓮聖人に教はった題目だから、総じては弟子檀那、別しては日蓮となる。文は遺文相承等の随所にある。

本果妙――此の本門の釈尊は我等衆生の事なり――妙覚の釈尊は我等が血肉なり因果の功徳骨髄に非ずや(御義口伝)

妙覚とは別教五十二位の名目を用ひて本果を表す言葉だから、我常在此の釈尊といふのも、双林減度の仏でなく、我等衆生の事だとなって、前の本因妙と重なってしまふ。この「重なり」が問題だ。

本国土妙――霊山とは御本尊なり、今日蓮等の類ひ南無妙法蓮華経と唱へ奉る考の住所を説くなり(同)

当品流布の国土とは日本国なり惣じては南閻浮提なり所化とは日本国の一切衆生なり(同)

常住とは法華経の行者の住処なり此とは娑婆世界なり(同)

総じては娑婆世界別しては日本、総じては日本別しては行者の住所。

本感応妙――日蓮聖人の折伏逆化に依って、逆縁の者は謗する為に南無妙法蓮華経を口にし、順縁の者は信ずるが故に唱へ、順逆共に九識に仏種を植える。これが下種化導の方法である事今更賛贅説の要なし。

本眷属妙――末法にして妙法蓮華経の五字を弘ん者は、男女はきらふべからず 皆地涌の菩薩の出現に非んば唱へがなき題目也 日蓮一人はじめは南○経と唱へしが二人三人百人と次第に唱へつたふるなり未来も又しかるべし是あに地涌の義に非ず也(諸法実相鈔)

弟子檀那を地涌とする。

本神通妙――(塚原問答のあとで地頭本間重連に言った自界叛逆の予言が当ったので)在家の者ども申けるは此御房は神通の人にてましますかあらおそろし(種々御振舞御書)

不断煩悩の名字即位だから、阿羅漢や別教高位の菩薩のやうな身上出火身下出水的神通はできない。むしろさういふ神通は小細工だとして排斥し、

成仏するより外の神通と秘密とは之れ無さなり(御義口伝)

と、真神通は成仏だと定め、小通力は成仏には無関係だとされる。

但し全然通力を否定されなのでない事は、御書の諸所に病祈や護本尊、敵国調伏を言はれてあり、自身、良観との雨祈の争もして居ちれる事で察せられる。そして阿弥陀堂法印が甘雨と共に大風を祈出しな事を以て、邪法の小通力が却って大凶を招く例とされたのは、成仏決定(受持唱題)を前提とする通力は遮せず、随方毘尼的に活用し、通力を前提として不成仏の悪法を売るのは、たとへ現世の利益があっても堕獄の法として斥けるのを立前とされな事を物語るものである。

この辺から、言へば、日蓮宗に通力や祈祷は不可なりとするのも、通力を先として但行者の験をほこって信者の信行の鍛練を閑却するのも、共に日蓮宗の立場を外れたものだと言ふ事ができるであらう。

本説法妙――説法とは一切衆生の語言の音声が本有の自受用智の説法なり 末法に入で説法とは南○経なり 今日蓮等の類ひの説法是れなり(御義)

これにも総別が立てられてある。総は一切衆生別は信行の者だ。この別中更に総別を立てうること本因妙に同し。

この御文は特に明瞭に本説法妙が示されてゐる。本有の自受用智とは智に約して仏身を示す文だから、「本仏の御説法」そのものズバリの表現である。

本涅槃妙――如来とは三界の衆生なり此の衆生を寿量品の眼開けてみれば十界本有と実の如く知見せり、三界之相とは生老病死なり本有の生死とみれば無有生死なり、生死無ければ退出も無し、唯だ生死無きに非ざるなり、生死を見て厭離するを迷と云ひ始覚と云ふなり さて本有の生死と知見するを悟と云ひ本覚と云ふなり 今日蓮等の頬ひ南○経と唱へ奉る時 本有の生死本有の退出と聞覚するなり(御義)

始覚とは本仏の智を知らぬ事である。悟らぬ間は我身仏にあらずと執する故に、生老病死にわずらはされる。本仏を証得して本寿命妙中に包摂されれば、本寿命中の生死、水利益妙中の老病なりと開覚されて、四苦の相は有っても苦を楽と開くことができ、大安楽に住することができる。

但しこれだけならば大乗の通説と言っても大差は無いが、決定的な特徴として見られるのは、断煩悩の行解脱、誓願学の慧解脱を排し、受持唱題の信解脱を立てる所にある。信解脱なら無修無行の凡夫にもできる。

本寿命妙――此の寿量品の所詮は久遠実成なり 久遠とははたらかさず つくろはず もとの儘と云ふ義なり 無作の三身なれば初めて成せず 是れ働かざるなり 卅二相八十種好を具足せず 是れ繕はざるなり 本有常住の仏なれば本の儘なり 是れを久遠と云ふなり 久遠とは南○軽なり 実成無作と開けなるなり(御義)

ナゼ釈迦如来の本寿命は永遠なのか。それは荘厳仏でないからである。荘厳相は定まった形がある。定った形が常住だと言ってしまったら定見に陥って円教も大乗も有っなものではなくなってしまふ。もとの儘にあるから本有常住なのだ。機の前に面形をつければ生死の出だ、方便して涅槃を現すれば生死の退だ。それを超脱した所に本涅槃、本寿命が厳存する。

本利益妙――念仏とは唯我一人の導師なり 念法とは滅後は題目の五字なり 念僧とは末法にては凡夫僧なり(御義)

末法の正法とは南○経なり 此の五字は一切衆生をたほらかす秘法なり 正法を天下一同に信仰せば 此の国安穏ならむ(同)

此の妙法蓮華経は釈尊の妙法には非ざるなり既に此の神力品の時上行菩薩に付属し玉ふ故なりーー如来とは上の寿量品の如来なり神力とは十種の神力なり所詮妙○経の五字は神と力となり神力とは上の寿量品の時の如来秘密神通之力の文と同じきなり 今日蓮等の類ひ南○経と唱へ奉る所の題目なり――又云く妙法蓮華経如来と神との力の品と心得へきなり云々如来とは一切衆生なり寿量品の如し――此の神とは山王七社等なり(同)

本化弘通の妙○経の大忍辱の力を以て弘通するを娑婆と云ふなり 忍辱は寂光土なり 此の忍辱の心を釈迦牟尼仏と云へり娑婆とは堪忍世界と云ふなり(同)

本利益を起す本法の住持三宝は唯我一人の導師と、題目と、凡大僧である。この正法は正報なる一切衆生のみならず依報なる国土をも利益する。即ち本眷属妙、本国土妙の実体を末法に発現させる。

警諭品に釈尊自らを指して唯我一人とお説きになったから、導師とは釈尊の御事かと思ふと、既に釈尊から唯我一人の大導師職は上行大士に渡されてゐた。如来とは総じては一切衆生別しては日蓮弟子檀那であった。唱へ奉る題自には仏の魂と力が宿ってゐるから何物をも成仏させずにはおかない。この妙法蓮華経如来の御化導を手足となって加勢するのが法華の守護神、山王七杜等日本国所在の善神である。

以上の如く、日蓮聖人に於ける本門十妙は、仏の超越的神通力や無上慧の世界でなく、末法の現実の国土に人間の生活として展開されてゐる。そこには神力品に示されな荘大華麗な十神力も、涌出品で五十小劫に亘って涌出する端厳微妙な相好をもっな本眷属六萬恒沙の犬菩薩衆の大群も、五百由旬の宝塔に座した多宝仏を涌出させる妙感応もあらはれない。神力とは成仏だ、涌出とは信者がふえる事だ。と極めて平凡な世界の中に説かれてゐる。これだけ見れば聖人は釈迦仏と離れて神力付属の大権を発動した強引な解釈をされたとも思へるかも知れない。しかし今経の文上、既にこの意が本国土に約して明示されてゐるのを如何せん。

寿量品に釈尊が御身を以て久遠の本仏だと宣言されたといふ教相は既に日蓮宗学では基礎的な知識だ。所でその本仏は、

  我常在化娑婆世界説法教化亦於餓処百千萬億那由陀阿僧砥國導利衆生(寿量品)

と、本籍地は娑婆だと言っておいでになる。そしてその娑婆世界の相貌を、浄光荘厳国の浄華街王智如来のお言葉として、

  爾時浮華宿王智仏告妙音菩薩汝莫軽彼国生下劣想善男子役娑婆世界高下不平土石諸山織悪充満仏身卑小諸菩薩衆共形亦小(妙音品)

と、まことに忍土の名にふさはしい、イヤな所だと定めてある。即ち今経所説の娑婆世界とは今我々が日常経験してみる閻浮提なのであり、その汚い娑婆が本仏の本国土であって、六百八十萬由旬の巨大な仏身をもって在す浄華宿王智仏は迹仏であり、広大荘厳のその国土は迹土なのである。爾前には同居の壌土だと嫌はれ、善導和尚が逃げ出さうとした娑婆世界が本国土妙なりと開かれてゐる。然らはこの意を以て他の九妙を開顕する事は地湧上行の当然の任務でなければならぬ。そして国土に約して本仏常住の寂光浄土が娑婆ならば、能住の本仏又凡夫相なりとする聖人の所説は、確に今経と意を等しくしてゐる。

次に天台は本因本果をハッキリ分けてゐるが、これは法華文上の歴劫修行に約するからで、本因の当初既に本果の証得を談ずる当体蓮華の法華経としては、本果を本因と峻別しては却って経旨に外れる。本因の時に既に本果ありといふことは、本有の仏、則ち宇宙の生成の当初から実在する本仏には、表に出た本果は無いといふことだ。有るとすれば垂迹である。

因より先に果が走ることはできない。月給の先払ひといふ、労働といふ因より先に報酬といふ果が支払はれるやうなとんちんかんは娑婆世界には有り勝ちのやうに思はれるが、実は労働契約といふ因が有って先払といふ果が生ずるので、其がたとヘハッキリした契約でなくても、まア何でも良いから取っておけ、と大束をきめこむ親分の腹中既に雇用計画が有り、いつも頂戴する計りでと首を縮める予分の側にも何かやらされるナといふ程度の労働に対する気構が有る。さうした腹芸無しに単純に財物を与へ、無邪気に一切の反対給付を予定しないでもらふのなら、与へる方には浪費癖か親分肌、もらふ方にも可愛い所かおべんちゃらといふ因が存在するに極ってゐる。

いかに本仏でも、因の無い所に果は存在できないし、果のあとで因が有ることもできぬ。その前後関係を極限にまで縮めれば因果の時空をを零にした、因果倶時しか無い。成仏を本時即ち本有の時即ち宇宙生成の当初に於て見る時、本果がこの時に存在したとすれば因果倶時の成仏しか存し得ない。そしてこれが本仏の成仏のあり方だっなのである。

※宇宙生成の時とは権に名目を立てたものである。宇宙生成と言へば生成の因を問はねばならず、因ありとせば因の存在即ち何物かが存在するのであり、宇宙生成以前に何かあった事になる。然らば宇宙の生成とは但そのものの形が変ったに過ぎず、形の変化は宇宙の属性だから宇宙の因即宇宙の果となって、結局生成でなく、変化になり、因の時既に宇宙が有ったことになる。故に宇宙はできた時を考へる事のできないこと、無限の先を考へ得ないと同様である。このあり方を本有といふ。宇宙は存在の当初の無い、無始無終の存在である。物質不減の法則はこれを物質に約して発見しなものだ。今は立論の便宜上宇宙生成などと言ったが、そんな時は無いといふのが仏家の説だ。ただ一世界の生成だけに就いて言へばそれは有りうる。これは本有の宇宙の部分的変化でその能成者が梵天である。本仏は宇宙の仏性だから宇宙と共に本有である。

本仏の成仏が因果倶時なら迹仏がその枠をハミ出すことはできないから、成仏といへば因果倶時しか無い。この場に臨んでも果は因に従ふから因表果裏となる。本有のままの、いろはず、つくろはぬ原始のうちに究寛の尊高を内蔵する本因成仏。これ以外に成仏は無い。

成仏既に然りとすれば、本果は本因が家の本果となる。本因妙中既に本果妙を含むから本果妙を別出したとき、それは本因妙の属性としての本果妙であり、本果妙さへ本因妙に含まれるなら餘の八妙尽く本因妙に内蔵される。ここに於て天台の本果中心は本因中心に移行されなければならぬ。本因が能住の本仏ならば手入をした国土平正金縄彊界の勝妙の仏土は本国土でない、本有のままのガラクなの積み上った穢土が即本国土だ。神通も説法も本因の作用、感応春属亦然りで、三十二相の地涌も本体は凡夫の凡身である。その凡夫身のうちに本果の悟りのあるのが本涅槃、その凡夫身の常住が本寿命妙、それを仏なりと悟らせるのが本利益妙だ。

若し本因妙から切離して本果妙を論ずるならば、其は化他垂迹の本果でなければならぬ、これ即ち本因の修行に酬いられた本果だから荘厳相を具足することができる。三十二相を具するには百大劫の修行が要る。百劫修行無くして本時に二二十二相を具するのは因果撥無となる。荘厳相の仏身は本時より百大劫以後でなければ造ることができない。然らば色法の仏像百福荘厳相を以て久遠元初本有無作の本仏を表現することは不可能である。

本因妙が本仏の本地だとすると、今度は逆に不完全なものが本仏なのかといふ疑が生じて来る。諸経に説かれた仏は何れも完全のカタマリとして示されてゐる。そして完全でなければ仏とは見難いといふ錯覚を凡夫に与へ易い。しかしこれも法華経には仏を完全なものとして説いて無いのであることから、解きほごすことができるだらう。

 仏所成就第一希有難解之法唯仏与仏乃能究尽諸法実相(方便品)

諸仏神力如是無量無辺不可思議若我以是神力於無量無辺百千萬億阿僧祗劫為属累故説此経功徳猶不能尽(神力品)これは本説法妙にして猶説き難いものがあるといふ御文である。かういふと、それでも神力品にはその次下に四句の要法を説いたあとで、

  皆於此経宜示顕説

とあるではないか。と言はれるかも知れないが、これは上行菩薩に対する別付属の御文だ。上行は本因妙の本仏だから「唯仏与仏万能究尽」の先刻御承知の仏法だから、無辺行以下に対しては猶不能尽の経意も、上行にとっては顕説となるのだ。

   妙音菩薩――頭面礼足而白仏言世尊浄華宿王智仏問訊世尊少病少悩起居軽利安楽行不四大調和不世事可忍不衆生易度不云云

仏様でも御病気や御不快が有り、世事に煩はされ、教育に苦労なさる。衆生病むが故にだとあらばそれでよいが、今度は一切衆生を悉く仏にしてしまふまで仏様も御苦労がたえない事になる。一切衆生の受苦を悉く御一人の苦とお感じになる仏様の事なのだから、それが当然である。そればかりではない。獲罪によせて仏より菩薩を重しとする御文さへ有る。

 若有悪人以不善心於一劫中現於仏前常毀罵仏其罪尚軽若人以一悪言毀訾在家出家読誦法華経者其罪甚重(法師品)

 有人求仏道而於一劫中合掌在我前以無数偈讃由是讃仏故得無量功徳歎美持経者其福復過彼(同偈)

文中の仏は「我」とあるから本仏釈尊である。もっともまだ迹門だから久遠を説いてはおいでにならない。菩薩でも深信観成の正行六度のといった大物ではなく、読誦品の在家出家だとある。歎美持経者は更に一段低い随喜品だ。シカモ面白いのはこの御文が現在の四信でなく、滅後の五品を表として説かれてゐることで、日蓮宗的解釈で行けばこれ滅後末法下種化導を予識せられたものである。

さて、仏は病もある。説法に尽し得ないことも有る。其はナゼだ。仏の本体が宇宙だからだ。宇宙は不完全だ。爆発する星も死滅した世界も有る。仏の本体は一切衆生だからだ。一切衆生は不完全だ。尠くとも娑婆世界には平和の為に水爆をこしらへる馬鹿や平和の為に国会に暴れこむ馬鹿が在る。大昔を考へても父母未生以前、火山と海、木と草、ゴジラとアンギラスの闘争は断えなかったらう。仏を衆生と別物の超越的聖者と見てさへ衆生の病は仏に感応する。まして仏を衆生と一体と見れば不完全な衆生の体即本仏の体だ。完全な仏様だと有りっこ無いのである。

それでは仏様は消滅してしまふ。煩悩具縛の衆生即仏なら仏の名目を立てることも要らなくなるのではないか。一迷先達以教餘迷といふ程度の、ヨリ多く悟った聖者を仏陀と申し上げる爾前の仏陀観ならそれでも良いであらうが、根本法を悟った根本仏とあらば完全な仏でなければなるまい。完全な仏が存在しないで、どうして本仏の名目を立てうるのか。

数学に無限といふ概念がある。この無限が本果妙である。と説明して良いであらう。与へられな線分には長さがある。しかし直線には長さが無い。全然無いのではなく、

 不能思惟知共限数(寿量品)

長さの際限を計ることができないのだ。面も亦同様である。点は長さが無いがその代り一点の上に無量無辺那由化阿僧祗の点を加へても総てを包容して狭さを感じない。

※無量乃至阿僧砥は仏典にあらはれる大数の単位

立体ならばどうか。与へられた立方体や球体には大きさが有らう。しかし球体の半径は無限に大きくなりうる。他の立体も亦然りだ。その極限は無限大の球体だ。若し無限大の球体にして存在し得ずとするならば、存在し得る球体の最大半径を算出することが可能でなければならぬ。物理学なら密度甲の液体中に造りうる気体泡の半径乙は算出できるだらうが、数学の世界に於ては、最大線分を設定し、一点内に収容しうる点の数の限界を求めると同様の無いものねだりである。故に無限大の球体は存在する。但し凡夫の力ではこれが其だと実感することはできず、唯観念のうちに想像するだけである。その無限大の球、総ての平行線の交点、抛物線の開き切る所、それが数学所感の本果妙だ。

数学で無限大の存在が有るならば、他の諸学に於ても共は可能であらう。美の極限、善の極限、活力の極限、熱の極限、工率の極限そのすべての極限は存在し、且摑み切れない。而て今、悟りの極限、智恵の極限を以て本果妙とするのである。

一直線を与へられる時、その直線は必ず本果の妙境にまで延伸する。而てその出発する所は一点である。これを元初の本因とする。元初の本因から生れて元初の本果に、進むのが直線のもちまへだ。その上の一点の原点からの距離を測量するとき、其が測量しうる限り、どこまで行っても無限遠ではあり得ない。則ち無限の本因、永劫の本因で、それが一切衆生のもちまへだ。そしてその運動の終極点に本果は厳存する。果位に達してしまって行止りになるのが成仏なのではなく、本因の出発点から既に果位を望んで居り、果位に向って進む過程に時々刻々の実在の点、即ち成仏が有るのである。

しかも出発の一点たる本因を、逆方向に延伸すればこれ亦無限に本果に向って延びる。それだから一直線上のどこを出発の本因の点だとすることもできない。線上のあらゆる点が本因だ。又点はどこにも存在しうるから、この線上無限の遠方の一点からこちらに向って運動するとしよう。

こちらから言へば向うが本果だが、向うから言へばこちらが本果となる。本果を遠方ばかりに見てみなら実はこちらも本果だったのだ。このやうに本果は現実には摑めないが常に本因と共に在る。説明の便宜上直線を使ったが面でも体でも同じ事だ。殊に一番現実的な体は無限に膨脹すれば無限遠にある体と重なり、相即相入するから、本感応妙の説明に都合が良い。

仏説のみでは説明がしにくいから数学を利用したのだが、このやうに本果は本因の極限であり、且本因の内に内在する。それだから仏様の姿をした仏は実在しない。有為の報仏は夢中の権果で、実在するのは本因菩薩のうちに内在する仏様だ。換言すれば仏様のお姿は菩薩の形でしか拝むことはできない。爾前では仏の証を得ながら菩薩の位に止まる大悲闡提を説くが、法華では仏の相貌は本因の菩薩以外に無いとするのだ。故に大悲闡提の菩薩が仏よりも大慈悲の人であるのは当然であって、菩薩こそ仏の本当のお姿なのである。

仏が三十二相を示すのは衆生の機根に応同しな和光利物の化身であることは、既に寛師も説いて居られるが、本相が菩薩相である以上、仏相は仏の真相でなく、ばけたお姿である。三十二相の仏が菩薩相の仏ほどの働きができないのは、一方が仏そのままであるに対して是は機の前に面形を付けた為に本来の神通を発揮し得ない為だ。従って我々が仏に成るといっても必ずしも三十二相を具する必要はない。凡夫身の儘で仏になれば其即ち真仏であって、それ以上新しく荘厳相や仏国土を求めなくてもよい。所居の依報がただちに仏国土と開けるからである。

以上は伝統的な仏学に近代思想を加味して論じて来なものだが、どんなに其を上手にやった所で、大乗が仏説でなければ証権を失ふ。この問題はどう解決すべきであらうか。

大乗非仏説は何も今更始まったものではない。大乗の興起と共にあったものである。

これから先は姉崎博士の仏教聖典史論に負ふ所が多い。一言お断りして故博士の生宝蓮華を祈る。

これに対する大乗家の論対は二つの方法が有った。一つは歴史的証明。大乗金口説をナマの形で押通さうとするもの。一つは宗教的証明。大乗所説法の優越を証明して、すぐれてゐるから仏説だとする。姉崎博士は前者は無著があきらめて抛り出して以後鼻を突いたから、当然後者を専らに採るべきだとし、シカモ前者は捨て難い為に天台大師さへ一代五時説などといふ強引な附会説を打出したと言って居られる。元々仏典は大小乗とも御説法の会座で阿難が速記したのをスグ文章に仕立てたものではない。殊に大乗には釈尊滅後の史実、たとへば仏像を造るとか、経を読誦して功徳を求めるとかいふやうな修行が出て来る。中には金光明経のやうに仏滅度を縁として成立したり、仏本行経のやうな仏伝そのものであったりするものや、密部経典の如く釈尊と直接の関係をもたないものさへある。法華経の如きは八年間の説法と言はれるのに涌出品は五十小劫を費してゐる。仏神力で五十小劫を半日の如く思はしめたといふなら、宗教的にはそれで良からうが文献学的には成立せぬ。大立物の弥勒観音などにしても、屋敷の跡も父母の名もわからない。目連は仏涅槃に先立って殺されな筈だのに大涅槃経には目連魔の為に繞乱せらると説く。

しかし、先づ疑って掛るといふ西欧的論法は天台大師の頃のものでは無い。大師は仏説を尽く金口の説法とする当時の常識の上に立って論を立てられなのだから、今日の常識から考へては強引な一代五時説に逃げ道をつけたのを強ちに責むべきでない。むしろ一代五時説が大小乗尽く釈尊金口の御説法といふ常識に従ってしかも近代科学と結果的には同一の結論に至ってゐる事に注目すべきではないか。

近代科学で大乗は歴史上の釈迦仏の所説でないといふのと同じ事を大乗家は大乗金口説に乗乍らその精神を摑んで仏身論を以て打ち出した。即ち小乗は劣応身の所説である。劣応身の立名を歴史上の釈迦と言換へたならば大乗はその所説でない。そして小乗と大乗のちがひは所説法門の優劣を第一に、第二に経中の説相の勝劣に依って付ける。例へば法華経の勝を説く為に記小、久成を挙げるのは第一の論法、三説超過の文や三変土田、十神力等の勝を挙げるのが第二の論法である。大乗非仏説からは一往第二論法は破れるが、第一論法は破れない。

大体釈尊を大切にするのは所説法門に従って能説教主を尊ぶからであって、所説法門が劣ってゐるけれど釈迦族の牟尼たるが故に無理に釈尊を勝とするのは大乗家の通義ではない。大乗の釈尊で所説の法門に依って仏身に勝応乃至自受用の勝劣がある。そして自受用の説法を最勝とすることは、所説法門と関連させて能説の教主を尊敬するのである。

然らば名目は最初御説法の劣応仏に主付けて釈迦と申し上げるが、実質は何族の牟尼か分らない、大乗の説者を勝応等の世尊と申し上げてゐるわけだ。唯ここで問題になるのは、その説者が何故釈尊の名を用ひたかといふことである。

小乗の上座部論師は仏典の解釈をした論蔵に仏経と同重を掛けるべきことを主張した。時代の変化と思想的発展が有る以上それはやむを得ないことである。これに対して上座だけの伝統をもたない大衆部の人々が経を以て対抗し、阿難が大乗の機の為に別にとっておいた勝法門であるとして、釈迦に仮托して大乗経を製作したといふ凡夫的解釈は支持されて良い。確にさういふ成立のしかたも有るべきことだ。しかし其のみで他に大乗ができた道程が無いとしたら、宗教史としては骨抜きになる。そんな大乗だけだといふなら大乗ほどの勝れな内容を造り得な大人師が、何を好んで偽托をしたかといふことが説明せられねばならぬ。更に、一体、それらの大人師は偽托=偽経の製作、といふ大それた行為を為しうるだけに宗教的情操が欠乏してゐたのかといふ大問題が起る。在世すら提婆達多は新仏の旗上げをした。今でもその残党が居るといふ話だが、大乗を説きうる程の人ならば新宗教の旗上げをして、釈迦が印度教の梵天などを仏法の体内にとりこんだやうに、新宗教の中に釈迦仏法をとりこんでしまふこともできるではないか。新宗教を作ることは困難なことにはちがひないが、偽経を作る困難に比較してはどっちとも言へまい。

姉崎博士はこの問題に対し、次のやうに答へて居られる。

紀元一世紀前後大乗の詩的経典が続出したる当時の状態を想ふに、信徒の間には興奮的に新信仰を渇仰して、一詩出で一経露はるる毎に、真仏説此に外ならずとして歓迎し、又僧侶の詩的天才あり宗教的熱情ある者は、其脳中の仏陀説法の楼閣を実在として、之を詩文に発表して仏説の真意世に出でたるを喜ぶ者続々たりしならん。ターララータの仏教史第十三章、此状態を描写して其当時を追想せしむるに足る者あり。其経文及人物の名の如き一は当時の歴史的事実を参考研尋しなる者にあらざるべきも、当時一般の描写として之を抄記せん。時は五百阿羅漢の第三結集終り、迦○色迦王亦逝きし頃なりき。民間にても王侯貴族の間にても三宝を貴ぶの風大に行はれぬ。迦○色迦王の子は其荘厳宮に多くの比丘を養ひ、東方にありても華氏城の婆羅門ギドフは比丘を供養し、三十萬偈の三蔵を書写して一千部に及べり。其外化の如きの随喜施主到る所に出で、従で大徳の輩出する者も多なりき。鴛加国には大上座阿羅漢難陀が大衆の教法を得なるを伝へ、大乗を喜び之を唱ふる者四方に蜂起しぬ。此等の大教師大徳は皆各等流三味地に入りて、直接に聖観自在或は秘密主域は文殊師利、慈氏等に大乗の法を聴きぬ。されば千節の宝積法異千筐・十萬法千章なる華厳、二萬五千偈なる楞伽阿抜多羅、一萬二千偶の積畳荘厳、同じく一萬二千偈の法集相次で出で、其他多くの経文は諸天、竜王、捷達婆、羅刹等、諸方特に竜宮より比を将来したり-此に於て声聞の徒或は之を喜ばずして大乗の教は仏説にあらずという者もありき。然れども其感化は四方に及びぬ。(下略。)

即ち博士の所見に依れば、大乗の説者は「脳中の説法を実在と信じた」のであり、其は「等流三味地中に法身の大士から感得した」ものである。叉天、竜等の宮殿から将来されたものであった。而してその時は迦○色迦王の崩直後に属すると考へられてゐた。

「脳中の説法」と姉崎氏が言はれなものを「自分の頭で考へついた」「想像した」と考へては此等の大徳は気狂ったことになる。其れは「等流三味地中に感見したもの」でなければならない。今の学者はとかく斯ういふ能力が人間に存することを認めたがらないが、自然科学者がさうであるのは一往仕方ない。自然科学は五感の所対を扱ふものだから、六識以上の所感を沙汰できないでもよろしい。一往と断ったのは、五感で扱ひ切れないものは自然科学の範囲外だとして逃げてしまへば良いものを、敢て否認しようとする者が有るから、其では非科学的だと言ふのだ。しかし人文科学の立場からは逃げる事はできない。自然科学で説明ができようとできまいと、さういふ超知覚の実在といふ史実は否定すべからざるものである。

※超知覚及霊の実在に就いては「他界からの愛児の消息」(原名レイモンド)オリバーロッチ著。野尻抱影訳は最も信用しうる本である。

かういふ定中の感見は大乗仏経中累々記されてゐる。今法華経中から若干の例を示す。

阿逸多若善男子善女人聞我説寿命長遠深心信解則為見仏常在耆婆崛山共大菩薩諸声聞衆囲繞説法文見比娑婆世界共地瑠璃坦然平正閻浮檀金以界八道宝樹行列諸台楼観皆悉宝成其菩薩衆咸処其中(分別功徳品)

これは深心観成の相だから、実際に霊視しうる第四信の深位を説かれたもので、「見るやうな気がする」といったやうな浅位ではない。次に法師功徳品の意清浄には、

十方無種仏 百福荘厳相 為衆生説法 悉聞能受持

清浄の意根に依って十方諸仏の説法の相を見聞できると説かれる。

是比丘臨欲終時於虚空中異聞威音王仏先所説法華経二十千萬億偈悉能受持―更増寿命(不軽品)

これは臨終の一念に過去仏の御説法を聞いて六根浄を得たといふもの。

是人若坐思惟此経。爾時我復乘白象王現其人前。―若後世後五百歳濁悪世中。比丘比丘尼優婆塞優婆夷。欲修習是法華経。於三七日中応一心精進。満三七日已。我当乘六牙白象。與無量菩薩而自圍繞。以一切衆生所憙見身。現其人前。而為説法示教利喜。(勧発品)

ここに至っては定中の感見そのものである。

更に普賢経に入ると全文尽く定中の感見を叙しなもののみであると言って良い。即ち、不断煩悩不離五欲の身で、三昧に入り得ないでも大乗(ここでは法華経)を誦して虚空会の説法を見たいと念ずる者の前に普賢大士が六牙七支の大白象に乗って現れる。行者歓喜して更に六時の礼拝を怠らず大乗心を発する時無量の普賢を見、更に夢中にも普賢を見、諸仏を拝するが、まだ明かでなく目を閉じれば見えるが開けば見えない。次に諸仏現前三味を得、諸仏に頭を摩でられ、霊山会と多宝塔を見る。

かういふ霊視霊聴が大乗に説かれてゐることは大乗の聖者が霊視霊聴した史実の反映では有るまいか。普賢経の後分の対合が阿難陀になってゐるのは一切経が阿難の記憶とされてゐる事と関連させて考へてみると面白い。大乗説法霊視者の記憶に在った阿難が定中に彼と相即相入して、自らを阿難なりと観じ、阿難が普賢経で定中に大乗説法を感見すると観ずれば、自ら阿難となって定中の感見を如是我聞と書き出すことは彼に取ってまことに自然なことであったらう。既に自分が阿難陀であり、定中に釈尊の御説法を聞けば、其を真仏説と思って出定の後書記させるのは当然であり、そこに偽経を作るといふやうな意識はサラサラ無い。迦○色伽王の崩後といふなら仏滅後五百年以内で、三時説で所謂正法の解脱堅固、奪って言っても禅定堅固の時代だ。今でも火を渡ったり、遠感霊視念写位はする者がある。古代の大徳にその位の能力が有った処で少しも差支無い。

さうなると定中出現の釈尊は肉身の悉達多ではない。そこで勝応乃至他受用の仏身ありといふ勝相釈尊の存在が言はれ、更に本地自受用身の御存在まで想到する。さうなれば劣応肉身の釈尊も、大乗霊界の釈尊もすべて本地自受用身の垂迹だとなって、伽耶始成以後仏の御説法は歴史上の双林以後も継続してゐな事になる。この継続してゐたのを継続してゐると直せば、法華経の常在此説法の文になる。かういふ釈尊なら八十老比丘の歴史的制約を飛出すことも自由だが、その代り定力の衰へた像末の悪世には出現できない。

像法に来て又面白いことが一つある。それは什訳の妙経に就いての本田義英博士の研究から出発する。

経題の「妙」に当る「薩」は竺法護師は「正」と訳しなのに、羅師は「妙」と訳したが、さて経中に出て来る「薩達磨」に対しては殆ど「妙法」と訳せず「法、正法、無量大法、仏法、法蔵」と訳し、「達磨」を「正法、妙法、善法、法華」と訳し、「アグラダルマ」を「妙法、法華経、法華、仏智、大乗法、微妙法、無量義」と訳してゐる。更に什公が妙法と訳したもの、正法と訳したものを見ても同様で、彼は「法、仏法、仏智、妙法、正法、善法」を同義語と見てゐたのであらう。(法華経論83本田義英取意)といふのが博士のお説である。私が博士の梵文の知識を云云するのは潜越だが、これだけの証明では、羅什は同義と自ら思ってゐるこれら若干の文字を、むちゃくちゃに使ったといふことにもなりかねない。梵語で一つ文字を色々に訳しわけな所に什公の深意を探るべきではあるまいか。即ち竺公が正確に梵文の通りに訳出したのに対して、什公は梵文法華に更に一層の光彩を与へるべく、苦心したと見られないであらうか。

次に十如の章は梵本には同義の文は有るが同文は無く、十如の文は大論の九種法を利用して、梵本よりも一層経意を深く闡明したものであらうとする(同書)。経意は経の文上に明かでない内証の意だから、それは什公の心中に映っな法華経であって、文字の法華経そのものではない。即ち什公は訳経に当って梵本の文字にあらはれぬ深意に想到し、それを知り易くする為に敢て梵文と異った表現を取って十如の文を構成した。

更に本田博士に依れば法華経は「般若空そのものを真空妙有化して之を一乗と名けた」(同)もので、一経の首尾は「空の実践」といふ菩薩行の勧発に在る。されば久遠実成といふも真実である所の涅槃を説がんが為に、方便して常住を示す為の真実の方便である。なるほど梵本に重点を置いて、天台を批判する立場ならさういふ結論が出るのも当然であらう。換言すれば法華経梵本は未だ般若空の実践の為に菩薩を勧発するといふ程度の思想発表しか無いのであって、本仏の三身常住とか、地涌発遣などいふのも只方便の施設だったといふことになる。

しかし博士は天台大師に於ては「法華経一部が彼の思想発表の脚註的素材であった」とされるのを見ると、梵本に拘泥することを必ずしも正しいとも見て居ちれなかったやうである。其は其是は是で、法華経の原意は般若空実践の勧発、羅什は経意を採って経文に自由な加減をした人、天台は経の文を脚註として自己の思想を発展させた人、と見て、その何れも正しい仏法の発展であるが、唯、妙法の妙に拘泥して、妙と王との間に大きな差を付けるのは経意に反する。といふのが博士の主張と見られる。

ここに於て私は大乗の筆述者―敢て作者とは言はない一に次ぎ、新しい像法的な仏法発展の様相を見ることができると思ふのである。像法は既に定力に依って直接仏の御説法を霊視することはできないが、読誦に依って正知見を得ことならできる。その情況を示し次ものが大集月蔵の読誦多聞堅固であらう。そこで羅什師は佛意を得て経の文に、新たな精彩を掲げ、天台大師は経の文を活用して、梵本でなく、什訳妙経の玄義を叩発した。正法で経の感得といふ方法で勝妙の経を得たのが、今度は訳経といふ方法で更に勝妙の経を造り、註経といふ方法で一層勝妙の経としたのである。悉達多所説の小乗から、仏説といふ枠をハミ出さずにしかも思想的に一層深化する道程をここに見ることが出来る。その意味からいふと「薩」が「正」であるか「妙」であるかといふことは、今私の取扱ふ仏教思想史の立場からはあくまでも「妙」でなければならぬ。経典成立史や流伝史上は「正」と「妙」の取合は究明されなければならぬ大切な論目だが、発展を本意とする思想史上からは、正から妙に発展するのは当然なことであり、天台が妙経に依って正経に依らなかっなのも当然である。

然らば我常在此の本仏は今また羅什と現じ又薬王後身天台智者とあらはれて一層深い仏法を宜説されなことになる。この延線の上に伝教大師を置き、日蓮聖人を置いて見れば、仏法の発展史がその当然進むべき道程を経て釈尊に戻ったといふ感が深い。

何を以て釈尊に戻ったと言ぶか。釈尊の御説法は教相上は久遠の元初から始まり、霊山で一往の終結を見、更に正像を経て末法の白法隠没に至って新に下種の化を起すことになる。久遠元初と同じ下種を起すのだから、仏法の総やり直しである。これが一つ。

さてその久遠元初とは何の時かといへば、五百塵点に倍した古代といふのだから、十億年や百兆年では無いから、勿論まだ太陽も地球も無い頃だ。三千塵点劫以前の大通仏にしても今の地球でなく、モット古い昔に存在した或る天体の上での御説法だったので今の地球の上の事ではない。地球に関する限り、氷河時代以前やゴンドワナ大陸はいざ知らず我々の知識では実際にお出ましになった仏はお釈迦様だ。そのお釈迦様が霊山の説法で地球以前から教化して来た連中を皆成仏させておしまひになり、宝塔品の三変土田で立退きを喰ひ、方便品で仏前を逃出した五干上漫の子孫が末法に残るといふ説相は何を意味するか。釈迦仏過去の教化は実際上地球の衆生とは無関係で、唯霊山の聴衆を説明せんが為のものであり、御説法の目的はさういふ定中に感見された聴衆を度脱せんが為ではなく、滅後の衆生を救済せん為以外は何もないといふことになる。其も上古の上根の仏徒に対しては唯般若空の実践を勧発し、像法の中根に対しては諸法実相一念三千の宣説となり、末法の下根に対しては三大秘法となる。さういった色々の変化をすべきもとだねを仕入れたのが法華経である。霊の釈尊はこれを説がんが為に深心の行者たる或る阿難陀の定中或は夢中に霊山の説法を展開された。阿難は一人ではないからその受け取り方にも若干の相違が有り、中には受取り損じなものも有るであらう。叉始から一乗の機でない人師には仏が三乗の法を説かれたであらう。かうして若干の異本ができ、権大乗諸経ができ、しかも其等が一見独立の経である如くに見えながら、法華経を中心に、まとめ上げられうる事一代五時説の如くであるのを見るとき、之を霊の釈尊の御説法と見て少しも喰違はないのを覚える。

斯うして仏は先づ劣応の肉身を示して印度在世の機根の為に阿含を説き、他受用勝応の妙相を上根菩薩僧の定中に示して大乗を説き、訳経家羅什、釈経家天台の迹身を以て大乗を訳註された。そして最後に日蓮聖人と示現せん為に前以て法師品に悪世を餘識し、神力品に地涌発遣を宣言して置き、再び肉身を以て現れて法華経の文を用ひて文士隠没の深意を迹べられたとすれば、寿量品の久遠実成を真実の為の方便などと、般若のわからない凡夫には通じ難い微妙の論法を用ひないでも、霊の釈尊の常住説法が寿量品に説かれてゐると、文の通りに受取って少しもさしつかへないではないか。而て劣応の肉身は在世の為の説法であり、大乗の霊的仏身は遠く末法を望むとすれば、末法に至って説法発展の極致なる三大秘法の建立者なる日蓮聖人を、最勝の仏であるとし、久遠以来常説法の本仏がそのままに肉身に現じた本仏であると言ぶことは、最も当然の事と言はねばならない。

但し、宇宙そのものを仏身とし、生物の棲むすべての天体の上に示現される本仏と地球の教主なる日蓮聖人を同一視することはできない。この仏に望めては聖人は垂迹として本地の地位を譲らねばならぬ。これが自受用本上行日蓮迹といふ意であらう。しかし凡夫の感見に於てはかういふ本地仏は拝めない。凡夫の感見しうる最勝の仏身は日蓮聖人だからそこで聖人を以て本地自受用と重ねて、聖人を通して本地自受用を拝するといふ義が生じ、聖人を即自受用としても良い事になる。しかもこの仏身に望めては定中感見の釈尊は一には所説の法門劣、一には劣応身や権大乗の釈迦とのっながりが吹っ切れないから寿量の仏身に於ても応仏昇進の劣とされる。日蓮勝、霊山劣は当然なことで霊山勝となっては思想史は退行の一路を迫ることになる。しかし其では教祖尊重の宗教的感情と衝突する。そこで久遠元初の本地三身の本仏を発見することに依って、この本仏が六感の化を布かれたのが釈尊であるとして、本仏を釈尊の御名で呼び、無作三身教主釈尊として日蓮に対する勝を許し、亦凡夫貫名蓮長としては印度の釈迦と師弟の関係ありとする。何れも正しいが浅義であって、ギリギリの所は本仏とは無作三身正在自受用の南無妙法蓮華経如来再誕日蓮であり、この仏を本門教主釈尊とも申し上げるのである。

これで完全な仏、無限とは凡夫の感見に能はぬものであり、唯深位の菩薩の定中にのみ在りうるが、末法の凡夫の見得る仏とは唯菩薩仏のみであり、尊形を具足せず、凡夫の当体本有の儘に菩薩行を実践し、念々に本仏を証得し、事々に仏因を植えてゆく、無限発展的実在である事が明かになったと思ふ。かういふ仏なら我々誰でも成れる。そしその修行の法軌が三大秘法であり、修行の理想が凡夫仏日蓮聖人であり、血脈相承の法主である、三十二相の仏様を拝んでも尊いといふ感じはするが自分がさうなれるといふ確信はもてない。十一面観音や不動明王では一層その感が強くなる。さうした人間離れのした聖者になるのが仏法だとしたら、仏法は歴劫修行、換言すれば成仏永久お預けの教となる。又、阿弥陀や薬師に救はれる為に拝むとならば、仏法は成仏の菩薩道ではなく、仏様にぶら下る凡夫道に陥りてしまふ。

ここまで押しつめても猶一つの難関が残る。それは「学会批判」が指摘したやうな「勝日蓮」の問題だ。思想を発展の上にとらへようとすれば勝釈迦日蓮が出たといふことは、当然勝日蓮何某が生れることを予想しなければ辻棲が合はなくなる。

ここで再び仏教発展のあとを振返ってみよう。大乗述家は釈尊に依って大乗を記し、竜猛は大乗に依って大論を著し、什公は梵本に依って妙経を訳出し、智考は妙経を詮して玄義を述べ、立正は妙経と天台を引用しながら文底の妙法をぬき出した。何れも先仏の所説を離れずに活用してみるが決して先仏の説を無視せず、逸脱しない。しかも四阿含の小は六萬法蔵に開かれ、三部七万字は三大部に拡がったのに、日蓮聖人に至っては遺文四百余篇とはいふものの要は三大秘法に帰属する。即ち一時大に拡大した仏法は聖人に至っで三秘に結束された。三秘は実に一切経の精髄であって之に加ふべき何物もなく、減ずべき何物もない。而てこの発展応用は亦無限である。即ち聖人に至って質的発展は極限に達し、其と共に最も簡単な形になってゐる。

これから更により以上の仏法を造成することは不可能だが、簡単なだけに応用は又無限である。即ち仏法はここで一転機を迎へることになっなので、今度は応用面に於て思想史は発展するといふ原則を満足させることになるのである。聖人の時まで、仏法は思想的発展はあったが応用的発展は無かった。これからは発展の方向が変るので、その点聖人は無限から無限に至る挽物線の頂点に在り、その両端は本地自受用身の体内に突入する。礼楽先に馳せて真道後に開くといふが、キリスト教の応用面を開拓した協同主義やマルクス主義が既にその徴候を示してみる。キリスト教は小法だから応用がし易く、又その代り弊害も出易い。マルクス主義が教祖の意に反して世界ぶち壊しのソ帝に悪用されでみるのは周知の如しだ。これは人間の本質を四悪趣に限定して見た疎法だからこんな事になるのである。日蓮宗の応用的発展に手を着けたのは田中智学居士だ。その点私は居士を聖人滅後の最も偉大な人物であると思ふ。唯残念なのは居士の法門が三秘不成である。三秘を言っては居るが聖人の言はれな通りの三秘でなく、三秘に思想的発展の如きものを与へてゐる。聖人以後は思想的発展などさせてはぶち壊しになる。三秘のやうに簡単明瞭なものは、少し手を加へでも壊れてしまふ。所謂上行所伝日蓮已証の法門そのものは、もはや手をつけいらふ余地が有りえないのである。

※智学居士は釈迦本仏論だから題目が日蓮聖人から受取った題目になり、日蓮聖人そのものでなくなる。聖人の仏教的地位を誤解しては上行所伝題目の意が不明になる。本尊を聖人の奠定に従ばず、後世偽作の本尊を立てる。戒壇の国立は言ふが国立戒壇の本尊如何も、其の時の帝師如何も全く無計画である。以上富士門徒の如き明白確実な三秘を立てないから三秘不成と言ふ。

 

 

 

 

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