(5) 本尊書写のこと

 

 妙曼の書写は「付第一人」に限るのが、上古の風だったらしい。上行院日大師が、日尊師の言として、

一 本尊書写事 尊仰云大聖人御遷化之刻六人老僧面面二書写之給ヘリ然而無異議其後面面末流初心後心戒行有無曾テ無糺明之面面書写之云々此等次第且ハ法滅因縁歟五人方ハ且ク閣之富士門跡ハ付弟一人可奉書写之由目興上人御遺戒也云々其故ハ賞法燈以為立根源也云々依之本尊銘云仏滅後二千二百三十餘年之間一閻浮提之内未曾有大曼羅也云々予モ叉存此義之処日興上人御人滅後於一門跡面面諍論出来互ニ成偏執多起邪論人人面面奉書写之云々

然則仏意難測聖意有恐所詮於吾一門者如本義一人可奉書写之歟云々

私申云設雖愚身一人存此仰以他門知之若自門内偏執族出来有諍論事可無疑其故法門ノ事ハ小分申様ナリトモ懈怠手跡不知行方又能書ナリトモ仏法興隆無跡形不信輩可有之如此相互進退難辮善悪兼難治定歟如何

仰云付之予ガ思事有之所詮大聖人自筆本尊彫印板当座道場六人衆徒為一同評定上糺明信心強弱行業久近給仕忠否香華供養堪否以一揆衆義可授与之(尊師仰 学二418)

と言って居る。即ち池上鶴林の後は六老僧が各自に妙曼の書写を行ったが、別に異議は出なかった。

前迹の如く五老の妙曼は法義上救ひ難い欠陥があるのに、興師が其に文句を付けなかったといふのは不審であるが、未だ大導師位が確立してゐなかった為であらう。

その内に猫も杓子も書くやうになったのは法滅の源である。五老方はともかく、富土門徒では大導師一人が書くといふのが興師の遺戒で、其は法燈を尊重し、根源を立てる為である。然るに興師の滅後分裂を起し、人々面々に書くやうになった。

この書の端書に暦応三年とあるから、百貫坊問答も、同郷師の保田取立、妙師重須の別立等の起った後である。遂に面面諍論以下の文あることが暦応三年成立を支持するものでもある。

しかし尊門に於ては一人の書写といふ線を厳守すべきである。将来尊門自体の分裂も先づ起りうる事と見ねばなるまい。学問が有っても悪筆の者があり、能筆でも行の欠けた者がでるであらう。そのやうな時に誰を付弟にしてよいか分らぬ事もあり、付弟の定まらぬ時は本尊の筆考も定め難い。そのやうな時は大聖人真蹟の本尊を写して型木に彫み、六人の高僧合議の上授与するやうにしたら良いと思ふ。といふのが尊師の意見である。

この尊師の言が真実を物語ってゐるかどうか検討するのには、史料類聚の本尊傍書は便利だ。古い妙曼は最密な検討抜きで入集してゐるから、逆に言ふと落ちなものは無いと考へでも良いからだ。但し脇書のないものは省いてある。

亨師の史眼を以てして諸山伝承の妙曼を検討しなかったのは、前管長としての政治的配慮に依るものであらう。

即ち蓮輿目三師を除いて、大石寺の上人は16世就師迄。以下、保田、郷師、康永3年8月5日以後8鋪。

要山、尊師(目師本尊模刻)暦応3年8月

大師 貞治3年9月12日  1鋪

柳瀬 無し

下條 無し

高瀬 仙師 元徳4年2月以降  4鋪

重須 代師 康応3年6月7日  1鋪

阿仏 満師 観応3年卯月11日以降2鋪

大石 道師 建武元1月21日以降6鋪

脇書の無いものが外に何鋪あるかはこれだけでは分らない。しかし滅後の本尊はー珠に富士門徒に於てはー弘安式を標準にしてゐるから日蓮聖人の弘安式本尊に就いて検すれば、随集に於て聖人の脇書を欠くものは55、58、90、の三鋪あるのみで総数七七の二分五厘七毛に過ぎない。おそらく此等諸師の曼茶羅で脇書の無いものは精々一、二鋪別にあると考へれば充分ではあるまいか。聖人は希望者がなくても執筆されたと思はれる節があり又興師には日尊供養の三十六鋪があるが、四代目以後になって願主無しに書写することは殆どありえないであらうと思はれる。だから今の論には脇書の無いものがたとへ有っても無視して良いであらう。

さうすると、稍書写数の多いのは郷師の八鋪、道師の六鋪、仙師の四鋪だけで、如何に其々の門流のお寺に護持されたものに限定されて在家人のものや堙滅したものが入ってゐないにしても少々少なすぎる。

年代をとってみれば

仙師の元徳4年は興師の寂前1年。他の本尊は建武4即寂後4年以後である。

道師は百貫坊問答直後の建武元年即興師寂年の次年即先代目師の寂から数へても翌年に始まり、寂後5年の暦応元年がその次になる。但し亨師の推定を採用すれば延元2即建武4年が一鋪あり、仙師と同じになる、郷師の康永3年は寂後11年。

満師の観応3年は文和元年だから19年後。

大師の貞治3年は31年後。

代師の康応3年は明応2年で58年後。

模刻であるが尊師の分は暦応3年だから7年後になる。

かう数へて来ると、先師の寂後直に書写してゐるのは道師だけで、仙師は寂前一年といふ処に却って考へるべきものがある。大導師の存生中(隠居前)に本尊を弟子に書かすことは仙台仏眼寺の飛曼荼羅は興師の筆に聖人花押と伝へられ、身延の旧蔵に列衆のみ四條頼基の筆といはれるものが有った。又目師は元徳正慶の間興師に代わって書写してをり、之を精師は付処たる故としてゐる。若し仙師が付処であったといふやう史料が有れば、目師と互為主伴して付処位にあった為、叉は先づ目師が何処に立ちその後を仙師に譲る考へもあったと推定もできなくはあるまいが、仙師に就いては全くそのやうな匂ひも無い。四條氏のは中尊を書いなのでないから問題、ならぬ。さうすると付処でない仙師が既に元徳四年に本尊を書いた理由が全くわからなくなるが、今ここでは推定説を出して参考に資しておく。家中鈔に依れば仙師はこの時讃岐の高瀬からワザワザ来たので、高瀬が本拠だった。高瀬は寂日坊日華師の建立で、仙師は師の代官として派遣されな人である(物語鈔佳跡)。この当時の高瀬は富士との連絡が不便だったであらうから、檀家の請を容れ一鋪だけ書いたのが元徳四年のものではあるまいか。かうして一度道が開けるとあとから檀家から何故私には下さらないと怨まれる事もあり、そこで建武四年以後の筆写が行はれる。道師は本寺に直ったのだから本尊書写を直にして居るが、それでも必ずしも多くないのは、既に富士近傍は三師の本尊が在り、東坊地係争事件の為新信者の増しが頭打ちになってゐた故ではあるまいか。郷師の八鋪は教団の開拓の稍振った証拠とも見られるが之は十一年後になる。其他の諸師は尊師の模刻を除いて皆甚だしく後年の書であり、長老尊師に至っては自筆妙曼の脇書あるもの一鋪として残ってゐない。

さうする尊師の「付第一人」といふのは、尊門の付弟とも取れる言方だが、再往は門徒全体に約した意が有るのではないかと考へられて来る。即ち道師があとを取ることになり、その事は高僧衆必ずし双手をあげて賛成する所とはならなかったにも拘らず、可成りの年月を経る迄、本尊の書写は遠国の本寺では行はれず、尊師ほどの長老でもその格徹を守って本尊を書かず、たとへ書いても真蹟を写し、叉は脇書を入れないで仮授与の形式としたのでないであらうか。

稍あとのものだが大石有師の化儀鈔に

一 実名有職袈裟守曼荼羅本尊等の望を 本寺登山しても田舎の小師へ披露し小師の吹挙を取りて本寺にて免許有る時は 仏法の功徳の次第然るべく侯 直に申す時は功徳然るべからず(要信84)

田舎の小師即末寺住職の推挙が必要だと師弟の関係を重視するが、本尊授与は本山即ち大石寺貫主に限られる。第60條へにも同様の説がある。

一 末寺に於て弟子檀那を持つ人は守をば書くべし 但判形は有るべからず本寺住持の所作に限るべし云々

一 曼茶羅は末寺に於て弟子檀那を持つ人は之を書くべし判形をば為すべからず云々但本寺の住持は即身成仏の信心一定の道俗には判形を成さるゝ事も之有り 希なる義なり

これは文明15年のものだが、この頃には本寺住持即大石寺法主以外の小師には本尊の書写を許すが書写の判名を入れるのを許さないといふ格徹ができてゐる。或は上代以来のものかも知れないが、そこまで確認はできない。時は戦国で富士から本尊を遠方に送ることは甚だ困難であった為の処置であらう。徳川時代に入ると本尊書写は法主に限るといふ習慣が確立して来る。建武以後の富士門徒は、分裂はしても其々の門流の中での「本尊書写は付第一人」といふ線は守られてゐたやうだが、更に諸門流の上に立つ大石寺貫主の本尊書写権も、上記の史料から判明するだらう。諸流の長老の自筆本尊が尠く、たとへ多く有ったと仮定しても脇書のないものが多く、且、独立後相当の年月が経たねば書写が行はれなかった事から推定できるのである。

ここまで来て尊師の形木本尊説を考へてみよう。形木本尊を作って「不信の輩に授与する」事は興師の禁止する処だ(富士一跡門徒存知事)。しかし形木本尊を授与せざるを得ない事情が起れば、所援考の信行を厳重に審査した上で授与するなら、必ずしも興師の禁戒に背くことにはならないといふ解釈も許されるだらう。勿論形木本尊は一往禁じられてゐるのだから、押して作るとなれば真にやむを得ない事情が有ったと認めねばならぬ。文上適当な付弟を得られなかった場合に約してはゐるが、尊師が自分の門流に付弟たるにふさはしい人が一人も出ない場合を想像したとすれば、向意気の強い師には似気なき事だ。むしろ、聖人の本尊を書写したものしかない尊師のやりさうなことは、形木に真蹟を写して彫るといふ、真蹟書写から一歩進んだ行き方を考へつくとした方が自然である。

その理由とは何ぞ。南北朝の騒ぎに播きこまれて富士との連絡が困難になり、増加する檀家の要求を満し得ない事だ。今一つには、富土方との感情的衝突も考へうるが、道師の遣日尊状を見ればそのやうなことは無かっなとしてよろしからう。

※この状は充名の「謹上大夫阿閣梨御房」の無い本が有ると註記してあるが、目師遷化後音信の無かった人で、道師と親しく且僧位の高い人であることが文面によみ取れるから、尊師といふ充書を信用して差支あるまい。建武二年正月二十四日の消息である。

かう見て来ると本尊書写は付第一人、本寺の法主に限るといふ富士の格徹は確にあっなものであり、今では門流に限定はされてゐるがやはり生きてゐる。これは「代々上人皆日蓮」といふ相伝の意からは当然な行為と言へるであらう。

管見に入った一番古い形木本尊は廿六世寛師のものだから、寛師から始まったものかも知れぬ。これは一見門祖の遺戒に背くやうだが、信者がふえるにつれて常住本尊を与へる時の信心決定を見定めるのが困難になり、さりとて信行正憲の宗門の立前から、いつまでも本尊を与へないでおくわけにも行かず、そこで常住本尊を与へる前の階梯として形木本尊の貸与制を造り、常住本尊を「不信の輩に授与する」危険から守ったものであらう。

 

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